泉庄太郎先生の略歴
一、先生の生いたち
先生は、文久二年(一八六二)十一月二十二日、香川県大川郡津田町の一漁師の長男としてお生れになりました。 父を泉徳三と申し、母を泉マキといいます。 生みのご両親は信仰心深く、とくに、父徳三さんは、きわめて、実直な方で、伊予の国の霊峰石槌山を三十六回もお山をなした程の先達であられました。
先生は、信仰心深き、ご両親の感化をうけられ、子供の頃より非常に仏縁の深き方であり、長ずるにしたがい、益々信仰を深められました。津田の浜の「金比羅さん」や、「松原の八幡さん」また、「八栗の聖天さん」も、しげくまいられました。
先生のご性格は、度胸がすわっていて「イザ」となると、身を投げ出して、人の危難に立ちむかうが、ふだんは いたって、やさしく、すがすがしい人でした。先生は多くの人助けをされ、大正七年十一月九日に永眠されました。 お年令は、五十七才でした。いま、ご生存されているとしたら、昭和四十三年で、ちょうど百六才の筈です。
二、大阪での住いの泉先生
先生は、三十五才で結婚されました。この結婚を心気一転機とされ、「もう漁師はやめた、陸で働こう。」 と決心して、津田の家をたたみ、両親と、十才あまりの妹をつれ、夫婦と五人で大阪へでられました。 その時は、明治二十九年頃でした。大阪では、桶屋を生業とし、父上は気にまかせて、砂糖しぼりの手伝い仕事をしていたようでした。こうして、明治四十五年頃まで約十六年間大阪住いをされました。 その間に、先生は、中風を病んでいた母上を失い、又妹をなくし、更に父徳三さんとも死別されました。 こうした家庭の不運にもめげず、何とかして、人助けがしたいと思い、神仏を信仰して、お蔭をいただき、それによって、人助けをすべく決心されました。
大阪に出て、人助けの悲願が燃えるにつれ、とくに、生駒の聖天さんに魂がひかれ、そして、六百ぺん、ほとんど、 わらじばきで、しかも、夜をかけての徒歩まいり、その甲斐あって、全く、すばらしい、おかげをいただくことができたのです。
生駒聖天さんは、先生が住んでおられた大阪市西区南堀江から直距離で二十四キロ(六里)、玉造りを経て、石切さんへまいり、生駒さんへおまいりされました。 おまいりが度重なるにつれ、 「ああ、ありがたい」という不思議な目に度々合はれました。
一例を申しますと、大阪の町をはなれてまだいくらも、時間が立たぬと思うのに、お山の鳥居が見えてきまし た。「ハテ」、と目をこする先生へ「まごころは、うけたぞ、こよいは、 でばってきた、家に急用ができている、すぐひき返せ」「ハイ」と素直にかしこんで、帰りつくと、その通りでありました。
また、最後の六百ぺんまいりのお山にかかると、霊験があらわれた。それは、一人のおばあさんが、泉先生をおがんでいる。先生は、「おばあさん、何さんをおがんでおいでるのですか」、とたずねると、びっくりしたように「あゝ、 あなたは、人間でしたか、いま、あなたのお体から、ご光がさしておりましたから、テッキリ神さんじゃと思って私は、おがんだのでございます。」と答えたのです。先生のご霊験は益々不思議を加えるようになって まいりました。
三、生れ故郷へ帰り人助けをなさる。
六百ぺん目に、「もうこれで山へ通いつめんでもよろしい。これから生れ故郷の津田へ帰って人を助けて渡せ」
という、世にもありがたいおことばを、ハッキリと、 生駒聖天さんからいただかれた。先生の感激はたとえようもなかったでありましよう。
かくて、先生の心も魂も、また、くらしもすっかり変ってしまった。生駒聖天さんは、生みの大み親、されば 先生は、その天尊の尊いお子として生れ変ったのです。そのころから、先生は、口で聖天さんのおことばを語り、身で聖天さんのお仕事をし、思いは、大慈大悲のご霊徳からいささかもそれはなさらぬようになった。 ここに救世のために、無学の漁師出身の泉庄太郎を選び召されたのであった。 時に先生五十の坂をこえたばかり、明治から大正へ移りかわりの時であった。
四、泉聖天さんの尊称
先生は、仏命のまにまに、生業もさらりとすてて、ふるさと津田へ帰り人救い。 「よう法のきく行者さん」と伝え聞いて、沢山の人々が押し寄せてくるようになりました。 一般の行者あつかいは、ほんのしばらくの間のことで やがて、泉聖天さんと深く尊敬され、しんからしたわれるようになりました。 津田での、神仏中心、人救いのご生活はほんの十年たらずでありましたが、その間に施された慈悲、つまれた功徳は大そうなものであります。
先生は、人をやんわりと、そして、徹底的に、教化される先生の活気、おうでまえは、実に神技そのまま、神業としか思えません。快刀乱麻を断つ如く、観音様の妙智力をまのあたりに示されました。大衆即ち、みなさんとともに生活して、大衆になりきり、そこから楽土を建設する生身のお聖天さまでもありました。
田舎の素朴な人々が、先生にすくわれて 「泉聖天さん」としんからおがみつづけ、その功徳をつたえきいて、年を経るにつれ、手を合はす信者がふえてまいるのは、あたりまえだと思います。
以上で先生の一端をかきご略歴をおわります。