泉庄太郎先生の略歴を第一巻に書いてありますが、先生は明治二十九年、お年が三十五才頃に、津田の住み家をたたみ、明治四十五年頃まで、約十六年間大阪に住まわれておられました。
大阪に出られては、人助けの悲がんのために、奈良の生駒聖天さんへ六百ぺんも、わらじ姿で夜をかけての徒歩参りされました。
ところが六百ぺんの最後のおまいり日に、「もうこれで山へ (生駒山のこと) 通いつめなくてもよろしい、以後は生れ故郷の津田へ帰って人を助けて渡せ。」という、
ありがたいおことばを生駒聖天さんからいただかれました。先生は、ふる里の津田へ帰り人助けをはじめました。
こうして人助けをしている時に先生は、神のお告げであったか、家族の方を隣家にあずけ、ご自分は一部屋を間借してそこを道場として、一週間七日七夜おこもりの修行をなさいました。
その七日目の満願日に、先生がおとなえなさっておいでた時、お堂に大きな蛇(化身)があらわれ天井いっぱいの大きな口を開き、ついに先生をのんでしま いました。
先生はのまれたまま、臆することなく、わが身を、安んじて奉げ、やはりおとなえをつづけていられました。するとどすんと落されたように思って目をみ開いてみると、座布団の上にやはりおいでられた。
その時、ありがたき神のおことばに「もうお前は神の試験が終った、これからしっかり人を助けて渡せ」とのことでした。
いつものように神様にお礼をなさっていると、神棚の上に神様があらわれ「われは、伊勢の皇大神宮であるぞ」とお姿をあらわされ、
その神様のお姿がお消えになると次の神様が同様にあらわれるといった風に百五十体余りの諸神仏があらわれました。
そうしたことから毎日の神様へのおとなえをなさるときは、そのあらわれた神様の順にお名をお称えなさいました。
当時先生のお教えをうけておられた弟子の方々は先生のお称えなされる神仏の名を耳から聞きおぼえて、おとなえをなさったそうです。
ところが、その弟子さんの中に文字を知っておいでた野崎の沖野彦十郎さんと木津野の岡よしえさんという方が、先生のお口から出られる神々の名を聞きとって文字に表わされたのがこのおとなえとなったのです。
後日になって弟子の方々は、地図を出して先生の口から出られた神仏をおまつりなさってある所在地を調べてみましたら、的確にあたっていたそうです。
先生はご自分で「わしのおとなえは専売特許である。」とおっしゃられたそうです。
今にして、このありがたきおとなえを、となえさしていただく毎に、しみじみと先生の尊さがうかがわれ頭が下る次第です。