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第七二条へ 第七三条へ 第七四条へ 第七五条へ 第七六条へ 第七七条へ 第七八条へ 第七九条へ 第八十条へ第七一条 「綱渡りを見て、妙じゃといえぬ、これには糸という道がある。人には道なき道を渡るものがある。あぶないではないか。」
まことに、これはサーカスの綱渡りに、人生を比べたお話でございますが、なるほど綱渡りを見ていますと、綱という道の上を渡っているのでございますから、すこしも不思議ではない。人は、道ない道を渡るが、これはどうも危険なことです。昔の聖者の教えの道、この道というもの、決して実行しても、しなくてもよいというものではありません。必ず実行せねば、必ず悪いというところの結果が生じるのです。すなわち、人が無事にこの世を渡れるのは、一つの道があるからです。定まった道があるのです。いわゆる、その道を昔から真理とか、あるいは神の道とか、仏とかいっておりますが、目には見えません。しかしながら、その真理に反した生活をすれば、必ずなにか変調がありまして喜べない。困る、迷うということが必ず起こるのです。先生はそのことを、綱渡りにたとえて、お話し下さってあります。
この草木、あるいは動物などは割合に、よくその生きるところの道を知っておるのです。たとえましたならば、あなたがたがおつくりになる、あの園芸場でございます。一例あげてみますと、あの朝顔が、竹や木にまきついている状態をみてみますと、必ず右巻きになっております。あんた方が時計などのねじをまきます。又ボルトとか、ナットをねじますが、そのねじる方向が同じです。どのつるも、どのつるも右まきです。これはあなた方が、おしらべになるとわかりますが、これは人間の目から見れば、どちらへまいてもいいようなものでございます。どちらへまいても一向さしつかえないようなもんです。ある日私が、朝顔をいたずらに、右まきにまきついているのを、ほどきまして、左まきに私は巻きかえたのです。その後どんなになるかと思って見ましたところが、やはり左に巻いた所から後返りして、右に巻いておりました。これは理くつからいいますと、この地球が回っておるためです。人間はそれを知りません。しかしながら、朝顔のつるはそれを知っております。そういう風な道になっとるのです。あさがお自身はそういう風な巻き方でなかったら巻けないということを知っておるのです。すなわち、道を知っております。
また飛行機です。この飛行機が飛んでおりますのは、空気をあのプロペラで切るのです。そうすると、ちょうど船頭さんがろをこぐようになるのです。飛ぶようになるのです。空気のある所でないと、あれは飛べないのです。空気のないところでは、いくらプロペラを回したところで何にもならんのです。この空気は、土地から約三十里位はありますが、その三十里から上へ行きますれば真空でございますから、プロペラも何も用をなさない。そこでこの頃は、ミサイルというあの弾丸を飛ばしますね。あれは、プロペラはついておりません。煙をヒューとふくのです。その煙をふく火と、煙をふく力、それは 逆に火を押して行きますから、ちょうどあの花火を子供がピューと吹くと走ります。あのようなもので、動あれば反動あり、すなわち、吹けば吹く方の反対側に押して行くようになりますから飛行機はとぶのです。これならば、空気のない所へ行きましても、飛べるわけです。このごろは、お月さん、あるいは火星へとばして見よう。そんなことを いっておりますが、ああいう風に飛ぶのです。飛行機には飛行機の道があります。また、ああいう空気のない所へ行けば噴射のミサイルの道があるのです。
こういう風に、必ず物には道があります。人間のこの行為には身、口、意の三ツがあります。これを人間は「行」というておりますが、身体ですること、口でいうこと、心で思うこと、この身、口、意の三つが人間の行為になっております。人間の行為にも道がありまして、その道にはずれた行為をいたしますと、必ずそれに対する一つの抵抗があります。そうして、その人は無事に行けない。何か行き詰りができて来るのです。その精神的方面を教えたのが聖者なのです。またこれを衛生的に教えたのが医学です。
医学も今日は大変進んで参りまして、特にこの近時は進み方が大へんです。北アメリカに、カナダという国があります。大きな国ですが、そのカナダのモントリオールという大学があります。モントリオール大学のある教授が、大変な事を発明したのです。それは、どういうことかといいますと、人が病気するのは、胃が悪くなる、腸が悪くなる 肺が悪くなる、じん臓が悪くなる、あるいは脳が悪くなるとかいう病気の全体は、もとはどこが悪いのかということを今までの医学では、胃が炎症をおこす。あるいは腸が炎症をおこすとかいう場合に、腸や胃の病気が起きるんだ。 あるいは腎臓でも腎臓炎というのがあります。また腎臓結石というのがあります。肺病には肺炎というのがあれば、結核病もあります。こりゃばい菌とか、あるいは他の機械そのものが病んだために、病気になるんだというのが今日までの医学でございます。ところがそうじゃないのです。
その博士が発明したのは、実に意外な発明でありまして、かりに人間になにか思わす、いやな事を思わす、腹が立つ、いやだなー、そういうような状態におきますと、人間の脳の働きで、脳の中心部に中脳というのがあるのです。
小さな梅ぼしの形をしております。その中脳に変化が起るのです。いやだなーと思ったり、怒るとかいう場合に中脳から細い神経でつながっていて、これが内臓の副腎(この腎臓の横に副腎といって、わずかに小さなもんです。つい大人でも、大豆粒位のもんです。これは副腎といいます)の所へ怒っておる、腹が立っているというのが伝っていくのです。そうすると副腎は薬を製造するのです。中脳から命令が来たとおりの薬を製造するのです。その薬の種類が三十種類もあるそうです。その命令の仕方によりますと、こんどぶり、胃の中に炎症を起こしてくる。それは何かといえば、ばい菌がは入った時分には炎症をおこして、その炎症で、そのばい菌を殺そうとするところの自分が助かる道を講じるわけなんです。今、炎症というのは病気だとお医者は見とったのですが、それは病気には違いないけれども、外から入ったところのものを殺すために、炎症を起こして、それで向こうの敵を殺して、体を助ける働きをするのです。
これは一例ですが、あるいは、肺に働く、あるいは肝臓に働く、この副腎から出るところのホルモンは、ただ今しらべている数が三十種類ということです。中脳から何々の薬を出せというんです。その命令どおりに副腎が薬を製造して、からだ中どこへでも薬を配って行く。配って行った場合に、人間が助かるのでありますが、尚それが助かる以上に、こんどぶり、その人が腹が立つとかいう事を続けていく場合にどうなるかといいますと、そのホルモンが出ないようになる。副腎がホルモン製造をしないようになる。製造会社がつぶれるわけになるんです。そうなりますと、そのために今度ぶり病気を起す。抵抗力がなくなる。これを医者は病気というんです。こういう所の発明です。
今までの医学とは全然種類が違ったものです。どちらかと言いますと、信仰に近いものです。信仰では怒るということはとめとります。怒るという事は人を害し、自分の心をくもらし、体を悪くし、世の中を乱す。こういうものは罪悪だと、信仰ではとめとります。と同じように、この医学の方では怒りとか、泣くというようなことは、そういう中脳がすぐ命令を出す。その命令によって、ホルモン製造をしておるところが極度にそれを出す。出してその効果がある場合はよろしい。助かる場合ですが、もしもそれが過度に出るということになりますと、それがために害をする 場合もあります。又、それがために製造の根本がかれてしまうということがあります。ひいては生活能力がなくなる。これで病気になる。こういうことになるのです。このことを博士が発明しまして、医学界に大変化を おこしておるのが今日であります。これなども、ちょうどこの七十一条に泉先生がおっしゃっておる「綱渡りは、綱という道がある。それを渡る、不思議ではない。練習すれば出来る事じゃ。しかし人間は、道のない道をつたいよるのは、あぶない話しではないか、もうおちるのわかっているのに。」と、こういうお話しなんです。ただ今の博士が発明したことだけでも、これに合わして考えてごらんなさい。 すなわち、道のない道を通るんでしょう。怒る、あるいは泣く、憎むというような事がどういう災難をもち出して来るかということをしらずやっているのです。感情的に腹が立つ、あいつ憎いやつ、あにはからんや、それがために命をおとすというような事までもありうる事を考えますと、道のない道を通るのはあぶないということが、はっきりわかるのでございます。これは今日医学界でやかましい問題になっているのです。で、人間の考えるところの考え方 それが非常に体に悪い影響を及ぼすのです。
今度はそれと反対に、これはアメリカの面白い病院ですが、そこへ入院しますと笑わすのです。笑い病院、昔から、日本には「笑う門には福来る」ということをいっています。笑うということが、いかに人間の体によいか。しかし入院しておかしくないのに笑うということはこまった話しで、最初笑えんそうです。ところが、その笑い病院へ入りますと、心配のある人でも、その心配をのけて、笑おう笑おうと工夫するんじゃそうです。すると一週間位すると、笑えるようになるそうです。皆、朝から晩までファーファーいうて、笑うているうちに、病気がなおってしまうという病院が今日あるというのです。あなた方、面白く考えるでしょう。こんなこと、お聞になった事はないでしょう。そういう風なのが出来ているのです。これは笑うということが、脳の働きで、どういう薬品を製造しよるといふことが相像出来るのです。まことにおもしろい話、笑う、どうですか、あんた方、一ツ笑うけいこもしたらどうですか。笑うということについては、怒るの反対ですが、怒る人は笑いにくいのです。泣く人は笑えないのです。まあ笑うという事は、大変よいことなのですから、どうぞ笑わいでもよろしいが、この信仰の方では感謝すると、いうことをよくいいますが、感謝の生活、有難い嬉しい、こういうてお礼をいうて暮らすことが信仰では一番よいことだ。日々そういう暮らしをしている人は、結構だと昔からいうておりますが、その感謝ということ有難いと思うその心持は、笑うのによく似ておるのです。
つらいとか悲しいとか、気の毒なとか、あわれなとか、いうように悲観した後では決して笑えるもんじゃないのです。わあわあと笑うというと、薬のまなくてもなおるというのです。たいていの病気は朗らかな気持というのが健康の上、あるいは、人間生活の上に、福をもって来るということは、昔からよくいうのですが、ますますそういうことが、今日はやかましくとなえられるようになっております。 お釈迦様が、わしがなくなってから三千年したら闘争の世の中になる。けんかの世の中になる。そうして、五十六億八千万年の後には弥勒菩薩がお出ましになって、困っているものを困りつめとるものを救う。こういうお話をなさっておりますが、年代は五十六億八千万年といいますから、長いことのたとえです。弥勒さんが出ておいでるのだとこういうことをおっしゃっとりますが、笑うということも、弥勒さんが出て来る前のように考えるのです。もうそろそろとよい事が世の中に発明なって来ています。ごく悪い事とごく良い事が発明なってきよります。ごく悪い事は結果からいうて悪いのです。けれども恐ろしいために平和が出来る。つまり原子爆弾恐ろしいなーもう戦争出来んぞ、 こういうことでその恐ろしい。ごく悪いということが、使い方によれば、ごく良いことをつくる元になると私は考えるのですが、そういうごく悪い恐ろしいものと、ごく立派なものとが今日出来て来よるように私は考えます。
(昭和三十四年二月十五日講話)
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第七二条 「江戸の町には 水にさえ金がいるというのは卑怯である。江戸の町には水さえ金になるというて喜んで働け。」
それは有名な句でございますが、泉さんは、こういう風に水でさえも考え方によれば、大変、有り難いぞということを示しておられますが、この江戸の町、すなわち今の東京でございますが、この東京はどこから見ましても、あの富士の山が見えます。この富士の山がいつ噴火したのか、人間の歴史にはわかりませんが、おそらく何千年か前に噴火したのでしょう。噴火したときに流れてかたまった岩を溶岩といいます。三里流れております。それが、よう岩が流れている後があるのです。三里とけた火になった岩が流れたというんですから、大した爆発です。その時分に、富士の山から噴出した灰が東京一面にうまったのです。で、あの東京の土地は、どこを掘りましてもまっこ色がしとるのです。ちょうど、こちらでいいますと、あの土肥のよく肥えたものを粉にしたような色です。よく肥えているのかと思うと決して肥えていないのです。やけ灰です、でこの武蔵野の原は、やけ灰の埋まった土地と見てよろしい。
ですから、どこを掘りましても水にあくがあるのです。水がうまくないのです。悪いのです。それで多摩川というずっと、遠方の山の間から流れるところの水を江戸の町へ売りに来ていたのです。それで江戸の町では、水さえ金がいる、と古くからいわれたものです。けれども、それは、卑きょう者のいうことです。水さえ金になるというて、喜んで働けというのです。まことに結構な教えと思います。これは水に限りません。あなた方がひごろ暮らしなさる上に金がかかるというものがたくさんありますが、金がかかるということは、金が減るということです。今、商売をするとするなれば、金が減るんじゃなくて金が増す事になるのです。すべての事を悲観的に考えた場合はつらい事になるのです。有り難いと解釈するならば、おかげになるのです。
ですから、ひとつの出来事に対しては、水であろうが、火であろうが、何であろうが、それには両面があります。
悲観する方面と、喜ぶ方面と必ず二ツあるのです。泉さんは悲観するのは、卑きょうものがする事である。喜んで働け、こう教えたのです。これは別に今更いう程の事ではないのですが、お正月のお祭りは、たいへん長い昔から祭っとりますが、このお正月に柳の木を祭るというのですが、柳というものは、まことに不思議な木でございまして、あの枝を切りまして、は先と元とをまちがわないように揃えるのです。元は元、穂は穂でおはしのように切って、束にするのです。そうして、これを水の中へ半分っけます。長くおいときますと、水の中へつかっているところは、根になって出て来ます。芽が根になります。水から上へは芽がふいて来ます。これはどう解釈しますか。同じ木であった時分には、芽になる性をもっておりますが、水中では根になります。働きが変っとるでしょう。
若しそれを人間にたとえたらどうです。わしはまあ、空気中で芽になる生れ性なんじゃが、水の中へ入れられてつらい事じゃ、もしそういうならば、根も出ないでしょう。それを、ああ、わしは空気中で芽になるたちじゃけれど、 水の中へ入った。この水の水分を吸うて、根を作って、長生きしよう。体を助けよう。こういう働きがあればこそ、 水の中では白いきれいな根になり、水の上の方では青いきれいな芽が出て来る。こういう風になる。 これを教えにかえてどういう事かといいますと、人間にはいろいろな境遇がある。楽な境遇の人、つらい境遇の人色々あるだろう。けれども境遇境遇に応じて、そうしてよろこんで働けという事なんです。人間はいかなる事があろうとも、その境遇に応じて、決して悲観せずして境遇を喜んで受けて、喜んで働け、そうしたら成功する。こういう教えになるのです。お正月に柳の木を祭ってあるのを見ましても、この七十一条に江戸の町は水さえ金が入るというたら悲観になるけれども、水さえ金になるというて働けたら出世の道になる。こういう風に大変結構な教えになるわけです。これは簡単に私がお正月の話をしたり、運命を感受せよというお話を申すのも、簡単でございますけれども決して、これは簡単でないのであって、今晩お集りになっとらんお方でも、境遇というのは一様でありません。
人毎にちがいます。外から見ると、非常にお気の毒なお暮らしをなさっとるように思っても、ご本人は喜んで感受して、感謝して生活なさっとれば、ご本人はそれで幸福なのです。
こういう風に外から見ますと色々お気毒な状態もあるし、あるいは楽に、見えるお方もあるし、境遇には、変化があると思いますけれども、それは、他から見えますところの外観でありまして、人間の一生というものはそうじゃない。外から見ては、どうみられても、心の中にいかに思うとるかという事が勝負でありまして、あの高野の谷と谷の間に橋がかかっとりますが、その下にお遍路さんが橋げたの下に家をかまえとるのです。そして、おまいりする人にごほうしゃを頂いて、橋の下で暮らして、おるのですが、相当金持があるそうです。おまいりした者から見ますと、まあ気の毒な、あんな橋の下を家にして気の毒な、こういうように見えますけれども、お遍路さんはそうでないのです。ない証拠には子供等をしかるのに「お前そんなに悪い事しよったら、よそへ子にやるぞ。」どうですか、よそが悪いのです。おへんろさんは、ずっと幸福な、これは、おへんろさんは、ご自分では感謝の生活をしておる証拠なのです。こういう風に、皆さんはいろいろな境遇に生活をなさっとると思います。
家族の多い方もあれば、ごく家族の少ない方も淋しいような方もあるし、あるいは非常に人の出入が多くて、にぎやかな家庭もある。あるいはお金の沢山ある家もあるし、又、少ない家もある。商売も発展する家もあり、朝から晩まで重労働なさっとる人もある。こういう風に色々なお暮らしがあると思いますけれども、これが自分の一番よい天地である。この天地で自分が働かしていただこうという決心をするならば、どこも悪いところはありません。その運命を喜んで受け取りて働くという事になりましたら、そこに自分の平和な天地を開拓する事が出来るのです。
どうぞ、そのおつもりでご信仰を続けられん事をおのぞみします。
(昭和三十四年二月十五日講話)
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第七三条 「善に導くために悪を批評するな。」
良い方へ導いて上げようと思うて、悪い事を批評すなというのです。昔からの芝居は勧善懲悪の道です。良い方をほめて、悪い方をこらしめております。なるほど、大勢の人が、この芝居を面白いといって見に行きますが、悪い事はできないなということもわかるのです。しかし、これは一ツの道徳を目の前に見せているのでありまして、人を善に導くのには悪い方法ではありませんが、芝居を見た為に、善への実行力をあたえるには比較的うすいのです。
これは何によるかといいますと、人をよい方へ導く為に、悪を批評しているからです。悪い方を如何にも目だって悪いように見る人に見せて、良い方へすすめる。その悪い方の末路が悪いということを、見せとるのが芝居でございます。又小説もその通りになっております。芝居は比較的人には浸み込まないのです、これはどういう訳かといいますと、密教では、批評というのはあまりしないのです。皆様の中ではだんだん泉先生の事をお知りの方もございましょうが、泉先生は決して批評などしないのです。批評はいたしませんが、不思議な力でそれをよく前へ出すのです。
そうして、こういう悪い事が出きてはいませんか。こういう風に持って行くのです。批評ではありません。実物を目の前へ持って行くのです。又、人の批評もそれに持って行きません。「あんたはどうですか、こういう事、有りはしませんか」と持って行きます。又、世の中にこういう人が有って、こうこういう訳で、こういう結果になったという事も、泉さんはおっしゃらんのです。お唱えいたします開経偈です。無上甚深微妙の法、そこが大事な所なんです。いかにも、不思議な、この上もない所の不思議な法というのでしょう。
それは何かといいますと、人を善に導く為に、批評しない代わりにはっきりとこれを述べるのです。「あなたは何月何日にこういう事が有りませなんだか、」「ありました」こういう時にはもうすでに、そういわれた人は、批評じゃないのであって、自分の身の上にはっきりとそれが、浸み込んで居る。泉さんの偉い眼力が透徹しておる。体に浸み込む、そうしてその後で、つまり本人が懺悔する訳です。悪かったとさとるのです。その後で先生はすぐ救いの手を出して居ります。救うて上げましょう。こういう方向へ出れば大丈夫です。こういう風に批評せずして引き付けて居ります。これが、無上甚深微妙の法なんです。
ですから、あんた方が、常に交際なさっている上に、信仰じゃなくして、お隣り同士が、お話なさっている上に、この人を善の方へ導いて上げようと思って、その人に話しするのでも、これが悪いとか、おまえさん、こうするのがいかん、ああするのがいかんというた所で、わかるのは、わかるのです。それは、説明する迄もなく本人は知っとるのです。それを繰り返されるために、そこに感心するよりも、むしろいやな気が起きるのです。無上甚深微妙の法でないのです。慈悲がこもっていないのです。そうしてこの神通力、もう一ツ言いかえますと、五智といいますか、大日如来のおつむの上に五智の宝冠をいただいているといいますが、あの五智、五神通なのです。
いいかえると、その通力を、おつむの上に置いておる宝冠で表わしとるのでございますが、その中に、大円鏡智という五ッの宝冠の中の一ツが大円鏡智なんでございます。それは自分の相手方の人が前へきました場合には、はっきりと鏡に物がうつるように、その人の前になさった事がはっきりと浮かんで来る。映るのです。うつるは写りましても、もしそれを批評するというような心で有りましたなれば、お蔭がうからないのです。ああ、ほんにこの人はいとしい、こういう事をしているが、それを悔いていない。懺悔しとらん。そういう慈悲心が有るが為に、映りました所のその事項を、その人の前で説きます。そうすると、その人は驚いて、誠に神仏の力というのは、怖いんだ。天にも地にもおれだけか知らん、と思っていたが、こういう風に知ってござるか、こういう事が、すなわち懺悔になるのです。この懺悔ができないのです。で、批評した場合は懺悔ができませんから、お陰が受からんのです。ここを一ツお考え願いたいのです。あなたが、お友達の悪い所を直して上げようと思って、その人を批評してご覧なさい。ざんげしないものです。うんそうじゃ、誠にそうじゃと聞きましても懺悔が有りません。怖いという気が無いのです。だからそこに効果が現われない。
あの懺悔という事に付いては、非常に深い意味があります。あのざんげ文です。我昔 諸造 諸悪業皆 由無始 貧瞋痴従身語意之所 生一切 我今皆懺悔といふのが懺悔文でございますが、それを日常の言葉に直しますと、私が無始の昔、ずっとずっとずっとの大昔、それはこの人界が出来ていない所の大昔、生物がこの土地に初めてできた、その大昔から続けて来ている私の身、口、意です。体と心と言葉と、この三ツの大きな罪を懺悔いたしますとこういうのです。
その懺悔が無ければ、悔い改める気が起きませんから、お陰が受からないのです。なぜその懺悔という事が、誰にでもそれが言えるかといいますと、ここに非常におとなしい方であって、悪い事は無論なさらん、余り良い事もせん が、悪い事もしない、こういう方があります。その人に、もっとよい事をするようにお説教したところで、こたえないのです。所がその人でも、昔へずっーと遡りまして何万年も昔になりましたならば、人間でなくして、強いもん同士の噛み合いや、蹴り合いや、殺し合いや、そんな時代があったに違いないのです。下等動物時代があったに違いないのです。今こそ人間でございますが、大昔は一ツの動物であって、親も子も兄弟もない。強いもの勝ちの友食いという時代があったのです。その血を受けて今日の人間に、出世しとるのでございますから腹の底には昔犯した罪があるのです。必ずあるのです。
大人に成りますと憐れみという経験を積んでおりますから、余り残酷な事しませんけれども、小さい子供の時分を見てご覧なさい、生まれ付残虐性があるのです。たとえば蟹を捕えます。今度は、手も足も取ってまるで背中丈にして転ばすのです。この蟹が助かりますか。あるいは蜻蛉を捕えたら蜻蛉の尻へすべさして長く引張って飛ばして「あー、よう飛ぶなあー」というて喜んでおる。あるいは、蛙の皮をクルッとむいてしまったりします。私もやったのですが考えて見ますと、それが一つの楽しみになっとるのです。これ等も道徳教育、あるいは、信仰の教育が、付かんうちには、生まれながら、そういう残虐性があるのです。それが常には出ませんけれども怒った場合に出ます。偉い人でも 怒った場合には心の底に沈んでいる残虐性が出てくるのです。
それで信仰では怒るという事は貪、瞋、痴の瞋であって、非常にきびしく止めておりますが、たとえてみますと、ガラスのビンに、泥を入れるのです。そうして、後から水を入れまして、振ってみますと、泥水になります。所がしばらくそれをジーッと置いておきますと、泥が沈んで上の水はきれいに澄んできます。けれども、もう一度振って見ますと又元の泥水になるのです。これと同様に、人間は、元は下等動物で、かみ合いし、殺し合いし、食い合いした者ですけれども、今、人間界に出世しとりますから、それは、かわいそうだとか、あるいは無理だとか、それは乱暴だとかいうので、道徳教育あるいは、信仰教育を受けまして、おさまっておりますけれども、腹の隅から隅まできれいかといいますと、そうじゃないので、ごく心のずっーと奥底には、ちょうど、今、ビンにたとえましたが、泥が下へ沈んでついてるような状況になっとるのです。それを怒らしますと、ちょうどビンを振ったのと同じようにその罪悪がパァーと上へ沸き上って来るのです。
皆さまはそういう事はお有りで無いと思いますけれども、仮に非常に腹が立ったと考えてご覧なさい。その腹の立った時分には、道理とか、気の毒なとか、そんなのが飛んでしまって、もう勝ったらよい、勝抜くという事だけしか残らんのです。そうしますと手段を選びません。ともかく勝ったらよいんだ。向こうをたたき倒す、あるいは乱暴働いて、自分の意見が通ったらよいのだ。思いが通ったらよいのだ。こういう事になります為に怒るという事を止めてあります。怒る事を止めました場合には、比較的人間はビンの底の泥が上らないようなもので、永年の間、人間としての生活が続き割合に人情が有るのです。
人を善に導こうとするのには、決してその悪い事を、批評してはいけないのです。悪い事を批評しますと、今お話し申したところの泥を入れたビンを、さっと振るのと同じように、向こうが反撃して来るのです。ざんげしません。
あべこべに怒ります。腹が立ちます。それが為に、善に導く事ができない事になるのです。昔の偉い方が、人を教育して居る後を見てみますと、決して批評していないのです。批評せずして「あーほんに、わしは悪かった。」とさんげしなければならぬようにもって来るのです。
これは、乃木さんの話でございますが、乃木大将十四五才の子供の頃に、奉公にいっていた時のことです。そうとう苦労なさったそうです。大将のお母さんは大変偉い方であって、わが子を立派な人間に育てあげ、お国の為に働いてもらわねばならぬという思召しです。非常に偉いお母さんでありました。奉公先のご主人が、よそへおいでになっていた時の、ある雪の降る日でありました。そこの奥様が、乃木さんにご主人の所へ傘を持って行ってくれといわれたので、乃木さんはさっそく傘をご主人の所へ持って行った。帰りにえらいこと風が出てきまして、どうする事もできず、ただ雪ダルマのようになって、手も足もこごえてしまったのでちょっと、手をあたためてもらおうと思って、お母さんの所へ立寄ったのです。
すると、お母さんがおっしゃるには「今日は寒いね。しかし、あんたを火であたためて上げたいけれども、あんたの体は、今お仕えの身、ご主人の為に使わねばならぬからだだ、今、私所の火鉢で暖めてあげる訳にはいかぬ。あんたの時間はご主人の時間、それをあんたの体を暖める為に、使ってはならん。お帰りなさい。」このようにお母さんがいうと、乃木さんは、「ハイ、ハイ。」といって凍えたまま、又かさをさしてお家を出ていきました。後で、お母さんが、乃木さんの後姿をご覧になって「ああ、かわいそうに、ほんとうならば、こたつにでも入れて暖めてやりたい。あの年はも行かぬ子供を追い帰したのは、可わいそうだけれども、偉い人になってもらおうと思って無慈悲な事を言った。堪忍して下さい。」と、その後姿を見てお母さんが、後から手を合わせて拝んだというのです。無論、後から後姿に手を合わせて拝む位ですから、凍えて母のひざもとへ帰ってきたときにいいきかせたことば「あんたの時間はご主人の時間、今使わんならん時だ」とのことばには、批評するつもりではいってはおりません。偉い人になってもらいたい。それには「ご主人に仕えている時間は、ご主人の為に使わねばならぬ。わが為に使ってはならぬ。」という事がわかって、ああほんにわしは今、火にあたらしてもらおうと思ったが、これは横着であった。悪かった。こう乃木さんが、おわかりになるのです。ここが大事なのです。批評せられた時にはざんげができませんけれども、 真心で慈悲を持って、理を説いた場合には、それが通るのです。乃木さんは、ああいう風に偉うなられた事も、お母さんがよい方へ導くのに、お上手であったからです。泉さんとてそうです。
(昭和三十四年三月十五日講話)
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第七四条 「わが長所を説くな、人の短所をいうな。」
どうも人間は、人の短所をよくいいたがるのですが。これだけができても大したものだろうと私は思います。誰でも短所はあります。福徳円満な方は、ほとんど無いといってもよい位に、必らず短所があります。そうして又、反面に何か長所があります。そこで、自分には何か長所があるという事を知って居ります。走るのが早いとか、あるいは仕事をするのに敏しょうであるとか、何か自分の長所を知っております。長所は一切いわないというのです。又、自分の短所はいってもかまいませんけれども、人の短所をいってはならぬというのです。七十三条に悪を批評すなと書いてありますが、これによく似ております。人の短所をいうのは、批評するという事になる。私はこんなことを、ある浄瑠璃かたりの人からきいて感心しているのであります。
それは、三宝会の会員の沢山お集りになった所で、浄瑠璃をお語りになった時のことです。このお集りの三宝会の人々には感心する。この座敷で浄瑠璃を語ると語りよい。誰も人の事一ツもおっしゃっていない。人の悪口は一ツも聞いた事がない。気持がええ、何だか心が勇んできて、浄瑠璃でも語りよいとのことです。なるほど、私も同感です。ほんに三宝会の方が、大勢お集りになっておいでるのに、つまらない私からのお話でも、あれほどまでに実行して下さっているかと思いますと実に有り難い。うれしい気がした事があります。
この人の短所をいわないという事は、大変結構な事であると思います。世の中では、長所をほめるよりか、悪い事を聞いたり、いったりすることを喜ぶ人があります。又かげで人の悪口を得意げに、人から人へといったりする人がありますが、たとえそれをその人が聞いても、怒る事がありましても懺悔しません。そういたしますと、悪口言うただけで、益々人を悪くして自分も面白うないのです。人をほめた話をした時分は、気持がよろしゅうございますけれども、人の悪口いうた後ではどうも考えてごらんなさい、気持があまりよいものじゃないのです。ですから、悪口、短所をいうたという事だけで、自分は喜ばない、それが響いて、その人がそれを聞いた場合、人が助からない。場合によると敵ができる。よい事が一つもないのです。悪い事ばかりがそこに生まれてきます。ですから、人の短所をいう事は止めて、そうして人の長所をとなえて上げるのがよろしい。
七十四条には、わが長所をいうな、人の短所をいうなとなっとります。人の長所は述べても宣しゅうございます。
又、わが短所は述べてもよろしいのですが、人の短所はいわないのがよろしい。ところが世の中の人は反対に使うのです。ただことさらに長所がないのをほめる必要はありませんけれども、だれもが感心するごとき行為などを、ほんとうに感心したというような人の長所をほめるのはかまいません。短所をいうと大変な悪い事を生み出してくる場合があります。
あのインドにガンジーと云う偉い人がありました。あのガンジーという方が、どういう事をお考えになったかというと、インドは元、独立国であったのですが、英国に戦争に負けて属国であった訳です。英国が植民地として治めとったのです。そこでガンジーは、このインドは、昔から釈尊がお生まれになった土地であって、その釈尊の有り難い教えが国に伝わっておるところの古い国である。それが今は釈尊の教えがすたって、弱い国になって英国の属国になっておる。これを救うのには、勝ってはいけない。英国の悪をいうてはいけない。英国を悪ういうて怒らす要はない。何とかして人間同士の、お互いのたすけ合いという所の道理を説いて、英国にも喜んでもらうし、インドの国民も喜んでもらって、共に助け合っていく所の国をつくりたいと考えて、ガンジー翁は、いつもながら神様に念じてあちらで演説をし、こちらで演説をしてまわりました。
その説かれたのは何であるかというと、仏教です。お釈迦さんの教えです。それを人間の道としてお説きになったのです。あの人は、お釈迦さんのような、宗教家として説いたのでなくして、宗教精神を人間の道として説いたのです。それには反対党がありまして、監獄所へつながれた事もさいさいございますけれども、たとえ、何回監獄所へつながれてもやめないのです。どこまでも人の道という事を説いて、人を批評しないのです。だれが悪い、かれが悪い英国が悪い、そんな事いわない。ほんとうの極楽世界をつくるには、こうしなければいけないと熱心に人の道を説かれた。とうとうあのインドを独立さしてしまったのです。英国は、どうしてもガンジーのいう事を聞かなければ治らん事になって来たのです。インドが革命戦争を起こさずして独立させました。血の一滴も流さずして、ガンシー翁はインドを独立させました。そのガンジー翁の働きは、一個人であるけれども、あの広い所のインドを救った力が有った訳なんです。
そのお方がどういうような、行動をとったかといいますと、決して人の短所をいわないのです。英国の官使の短所もいわない、ご自分で長所もいわないのです。そうして、ほんとうの釈尊が開いた立派な元の国にかえし、英国とインドとは、互に手を取って助け合いの国にすれば、皆が幸福であるとしか説かなんだのです。だから、ああいう立派な仕事ができたわけです。
七十四条は簡単でありますけれども、大きな仕事ができるのでございますから、どうぞ、今後、人の短所をいわない、わが長所をいわないことだけでも、皆様がやって下さるならば、この三宝会は、きれいな上に、益々きれいになって大変結構なお徳が積めると、私は思います。
(昭和三十四年三月三十一日講話)
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第七五条 「知れたことを知って行うのは、聖人の道で、知らぬことを知ったげにいうのは小人の道である。」
だれでも人の知らない事をいって、珍らしげに虚栄心にかられて、威張りたいのは、世の常の人のやる事でござりますが、泉先生は知れた事を知って行ったのです。そうして人をたすける時分に、不思議な力で人を救う。こういう事なんです。それを人間は、間違うて、人の知らん事を自分がやって、珍しげに吹聴したいとこういう風に間違って来るのです。西洋では、あのワットが発明したとか、色々そういう発明の事をあんた方がお聞きになったでしょう。
たとえば、庭を偉い人が歩いておった時分に、風も吹かないのにリンゴがパタンーと落ちた。さあそこで考えたのです。物が落ちた、これは誰でもわかっとるでしょう。高い所にある物が、下へ落ちる。何も不思議な事はないのです。知れた事なんです。ところが偉い人は、その知れた事を考えるのです。人の知らん事考えるのじゃないのです。 高い所の物が、ひとり下へ落ちるのは当然の事なのです。けれども、偉い人は、なぜ落ちたのかと、こう考えるのです。これは、土地に引力と言うものがあって、落ちたんじゃない。あれは、引き付けたんじゃという事を発明して、字宙に人の知らざる不思議な力を見いだすのです。そうしてその引力という事を利用いたしまして、人間の生活にそれを使う。そうして、人間を幸福に導く。知れた事を知って行うのです。これが聖人の道である。泉さんは、そうおっしゃったのです。なるほど、考えてみるとそうです。
鉄びんの湯が沸いてくると、ふたが上へ持ちあがる。これ当り前です。ところが、偉い人は、この下からもち上がる力は何であるか。これは人が使って、何かたすかる道はないか。こういう考え方には入るのです。すなわち水は火で熱すると水蒸気になる。その水蒸気を、どこへも漏れないようにしておけば、強いばく大な力が出て来る。その外へ、押し出す力によって鉄びんの蓋が動いているんだ。これをもう一つ上手に締めて、押し出す力を強くするならば押すという力で、いかなる仕事にでも使えるという事を発明したワットという偉い人が有ります。
これは科学の方でございますが、泉先生は心の方でも、そういう事を知れた事を知って、そうして、それを人界に 使うたならば、どういうお陰があるかこういう事をお考えになった先生なんです。ところが、虚栄心の強い人になりますと人の知らん事をいうてビックリさしてやろう。珍しがらせてやろう。とういう風に、何ら益のない事でも、そういう考え方をする。自分の名前を売ろうとするのです。そういう事を戒めたのが泉先生です。「人の欠点をいうことは世の中に悪くひびく、人を悪く思わす。自分も面白くない。社会に、色々悪い事ができて来る。それが世の中に毒を流す。こういう事になるのであるから、戒め慎まなければいけない。すなわち、知れた事を知って、行って人がたすかる。これが聖人の道です。人の知らん事を珍しそうにいうて、自分の名前を売ったらよいのとは全然違います。そういう事を泉さんはお教えになっとるのでありまして、決して珍しい事を吹聴するんじゃない。聖人というのは、わかり切った平凡な事を、それをまじめに行うのであって、凡人と違うのは、いかにすれば、人が平和にいけるか、いかにすれば極楽世界が実現するかという事を目標に置いて、知れた事を知って行なう。
信仰する者は、得てして不思議な事をやろうやろう、人の目を驚かしてやろうとするものですけれども、泉先生はそういう事をすべきものでない。わかり切った事を、まじめにお教えの通りしていくべきものだという教えを七十五条にして有るのです。
(昭和三十四年三月十五日講話)
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第七六条 「心の内に関所を置いて己の心を吟味し、とおすべきか、とおすべからざるかを正せよ。」
芝居の話になりますが、昔、弁慶、安宅の関といって、安宅の関所を義経が奥州へ落ちて行く場面ですが、その関所の役人の一人である富樫十郎左衛門は、家来に装うのが義経であり、大将に装うたのが弁慶であるということは、ちゃんと知っておりましたが、さて、これは通すべきか、通すべからざるかという事を考えたのです。兄頼朝に追放されて奥州へ、そうして今逃げのびていっているのだ。まことに通してやらな、かわいそうだというので、知りつつも、弁慶の言葉を信じて、奥州へ落したのです。
これは関所の仕事ですが、人間も自分の心の中に関所を置くのです。そうして、今、自分がこういう事をしたい。 ああいう事したい。人がこういう事してくる。ああいう事してきた。こういう事を心のうちで調べて、その自分のしようとする事を、通すか、止めさすか、あるいは人がしてきた事に対して、これに抵抗していくか、黙ってこらえるかという事をよく吟味して、通すべきか、通すべからざるかを判談していけ。こういうのです。泉先生の教えは、そうです。自分の心の中に関所を置いて、事件を吟味して、つまり裁判です、よく考えて、して良いか、して悪いかを考えていけ。こう云う教えなんですが、さてここで考えなならん事は、心の裁判です。
人間の心の内に、あなた方は良心というのがあります。だれでも何か一ツこうしようと思った時分に、してええという心と、して悪いというこの命令する心があるのです。これを皆良心というて居ります。仏教では、仏心というて居ります。だれも心の内に、仏性がある。まっすぐな心がある。その心が悪い事考えた時分には許さない。人の心の中にはよしあしを判別をする係の人が居るように見える働きがあるのです。
すなわち、これをもう一ツ宗教的にお話いたします。人の心は、普通人間の心と神、仏に通う心とこの二ツです。
同じ吟味するのでありましても、その神心を中心として、通してよいか、通して悪いかという事を判断いたしませんと人間の心で、良いじゃの悪いじゃとの判断しますと間違います。それは、人間は大体欲がありますから、こうすれば余計もうかるとか、こうすりゃよけいもうからないとか、いう事を中心に判断しますからいけないのです。損得も、すべてを捨てて、ほんとうに天地の法則に合って居るか、神、仏の教えに合っておるか、合うておらんかという事をわきまえて、法にあっておらん事は許さない。してはいけない。神、仏のお許しになると考えた事をしていく。こういう事がこの七十六条の心のうちに、関所を置くという事なのです。
昔、剣術の大先生に柳生十兵衛という偉い人があったの御承知でしょう。この人は、朝起きますと手水を使うて、身体を清める。そうして今度は、神だなの前へ行くのです。そうして礼拝しまして「今日は、ご主人はおいでますか」そんな尋ねをする。妙なでしょう。御主人はおいでますか。そうすると、その尋ねに応じて心の内で、ご主人がいるとか、あるいはおらんとかいう返事を感じてくるのです。ご主人がおるというのでなかったら、一切その日は外へ出ない。という事が、柳生十兵衛という人の歴史に残っております。その柳生十兵衛さんが、主人居るか、居らんかと尋ねます。その主人とは誰であるか。この主人というのが、すなわち今日皆様がいう良心、あるいは念ずる神、仏。 宗教的にいうなら仏性。そういうまっすぐな心が、だれにでもあるのです。その人が、今日は居るかいな、居らんかいな。こうお尋ねするのです。そうしたら、今日は仏性が働いて居る。こういえば、その日は外へ出ても安全だというのです。留守だというた時分には、仏性無いんかというと、あります。ありますけれども、人間の欲心にかられて深い所へ入りこんでしまっておらぬのと同様になっとる。その時分には、主人は留守であると、こう自分は感じるのです。すなわち、もう一ツ言い換えますと、関所の役人がおるか、おらんかという事なんです。もし居らんという日に出て行きますと、考え違いをしてあやまちをする、あるいは、昔の武士は腰に大刀をはさんで居りますから、切り合いが始まらんともいえぬ。あるいは、人に付けねらわれんとも限らん。その時分にはどうするか、むやみやたらに切って捨てたのが偉いのではありません。刀は、抜かずして敵をたおすのでなければいかんのです。あるいは刀を抜かずして、助けるのでなければいかんのです。
そんな時分にもし、主人がおらん。すなわち仏性がおらん。良心が働いておらんという場合には、魔が付けますから良くないのです。あなた方よく世間で魔が付けるというような事をよくいいますが、魔が付けるという事は、どういう事かといいますと、人間心、普通の人間心なら宣しゅうございますけれども、良心が働かない、あるいは仏性が働かない。もう一ツ言い換えると、神仏の心が通うて居らん。その時分には、悩みもだえとるのです。悩みもだえてつらい、腹が立つとかいう事ばかりになっている時分には、人間の性根が狂うのです。狂うというと、もうよい事は考えない。悪い事ばかり考える。物を取るとか、あるいは死にたいとか、あいつの仇を打ってやるとか、ろくな事を考えない。早すでに悪魔が見入って居るのです。私のこと申して何だか妙ですけれども、私朝起きまして、ご先祖代々、足で踏んだ所の飛び石が有ります。その飛石を、庭の片すみにいけてあるのでございますが、その石の上へ上りまして、四方八方の神、仏に対して、朝のご挨拶をするのです。 そのとき何か心の内に、かかる事が有りますと、一日有難いお経文を読みまして、そうして、心の内を練るのです。 そうでないと、私はあまり外の用事しません。それはなぜそうするかと申しますと、泉先生の教えが、七十六条にあるのですから、自分の心に悩みが有り、迷うておる。そんな時分に外へ出て行って、社会の人と交際するにも、あるいは何かの用事をするにしてもろくな事しません。悪魔が付いとるのですから人を害し、己を害する事は知らず知らずの内にやってしまいます。あなた方も、この七十六条は人の事でない、自分の身の上の事だ。今日は、私は良心が、 輝いているか、神、仏が見て下さっているか、こういう事をお考えになって、朝のお線香を差上げて、ご挨拶する時分に、今日は、無事に通して頂きますという事を念じて頂きたいというのは、ここにあるのです。
(昭和三十四年三月三十一日講話)
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第七七条 「徳を積むには、豆腐代を十五文なれば、買う時に十六文出し、売る時には十四文にする事である。」
豆腐屋が、原料買うのに、十六文も出して買って、それで、今度豆腐をこしらえた時に十四文で売ると、損することになって食えないでしょう。そういう意味ではありません。これは人間の徳を、積んでいくのには、そういう考えを持っておれというのです。それをもう一ツこまかく割っていうてみましょう。
豆腐屋さんであったら、まず大豆を買うのに、朝鮮大豆もあれば、地大豆もある。去年の大豆もあれば、おとどし(一昨年)の大豆もある。又、その大豆の中には、むせた大豆もあれば、上手に貯蔵のできた大豆もあるわけです。
それで、よい大豆を買えというのです。原料は良いのを買えというのです。それを買う時には十六文出せ。この大豆であったら、豆腐一ツこしらえるのに十六文かかると思うても、良いのを買えと言うのです。そういう意味です。 売る時には、原料を安い原料を買ってこしらえた、十四文ならできるという位に売れというのです。その結果、どうなりますか。あなた方想像してご覧なさい。まず上等の大豆は、安く売ってくれません。高う買わな仕方がない。
すなわち、十六文で買わないかんわけです。その大豆は、あなた方はご承知かも知りませんが、あの生の大豆を水にかします。そうして碾臼でひくのです。そのひいた白いあわだった物を、今度はソロソロと煮るのです。強い火で煮ると、泡になってごがあふれてしまうのです。徐々に焚く。そうして、それを絞って白い汁になりますが、それを絞った粕がオカラです。その白い汁に、次にはニガリを入れると、すぐに固まります。そのニガリを入れて、固まったのが白い豆腐です。ところが、安い原料でこしらえますと、そのゴがよけい伸びんのです。だから豆腐が、よけいできないという事になるのです。よい大豆なればゴがよく、伸びますから、ほとんど、水が、豆腐になってしまうのです。悪い大豆でしたら、ニガリを入れると、すっとよってしまって、大かた、水になってしまうのです。そこで、よい大豆を高う買った場合でありますと味もよい。豆腐もよけいできる。そうすると今度、安う売っても嵩む。もうかることになります。こういう風に、お客さんが食べる時分においしい。そうして、香りがよいというのは、どうしても原料のよい物を買っておかないと、できないのです。そうしてそれを、今度は、悪い原料を使ってこしらえたような安い豆腐で出せるつもりで売った場合には、お客さんが喜ぶ。こういう風にするならば、必ず人間は徳が積める。こう泉先生はおっしゃったのです。泉先生は、何でも知っております。漁師の事も、無論漁師ですから、海の上の事お話になる。あるいは、豆腐屋のお話をなさる。
こういう風に、どの事業にでも、信仰を折り込んで、徳を積む事ができるわけです。こういう風に、泉さんは信仰と日常生活とは、別に離しておいでないのです。豆腐屋でも、チリ紙買屋でも、あるいは、其の他の呉服屋さんでも何であろうと、すべて人間がしている所の事業そのものを信仰化するのです。泉さんは決して、信仰を別に、今日は信仰する。今度は仕事する。時には、信仰を離しとる事はしないのです。日に日にの事業そのものを信仰でなさるのです。それでこそ、お陰が受かる。徳が積めるのです。ここは、大事なところです。 あなた方が、日に日にお百姓なさっても、ただ利益一点ばりでなさるという事は、良くないのです。たとえば、あなた方が農作物で西瓜をなさろうが、南瓜をなさろうが、あるいは、きゅうりとか、なすというものを、そくせいでお作りになろうが、作る時には豆腐原料を買うのと一緒ですから、しっかりと惜しまず肥料もやるし、手間もかける し、つまり十六文で買うという事を、応用していくとよいのです。売る時には、どうするか。今度は、それをできるだけ、値段を買いよいようにする。ところが、買いよいようにするのですけれども、荷造りする箱の中へは、上置きとして、立派なものを置いて、箱ひっくり返して底にでてきたのでは、ゆがんだのや、こわれたのが入っとるという事になってきますと、これは、高う売ったという事になりましょう。そうすると、地方の名前がさがってしまうのです。どこそこの産はいけない。もう箱、かやさなくとも、上のしるし見ると、これは心配ないというて、高う買うてくれると、大変な違いでございます。こういう事が、日常の豆腐屋の事を先生がお話なさったのですけれども、あなた方、お百姓ならお百姓、商売の方なら商売の方、この原料という仕立という事と、売るという事の、この両面を仕立てる時には高う買っても構わんのだ。これを売る時には、客が喜ぶように、よい物を安うせないかんのだ。こういう風でなかったら繁昌しない。
これを又信仰からいうならば、徳が積めるわけなんです。お百姓そのままの仕事で、お陰がいただける。実業界たとえば、それが呉服屋であろうが、店屋であろうが、何であろうと、その商売そのものでお陰がいただけるという事を、泉さんはおっしゃったのです。これがすなわち、我々の一番大事な事なのです。
このごろは、時代の関係で、一方では悪い事ばかり考えているのです。自分の義務を忘れて、権利ばかりを振りまわす時代がきております。宗教という方には、まるで雨のあげくに、たけ筍が生えるように、あちらにも新興宗教、こちらにも新興宗教、新興宗教の名は大変やかましい時代です。ところが泉さんが教えてある事は、決して長びけば長びく程光るようになってくる事をおっしゃっておるのです。日常生活を宗教化せよとこういうのです。これならば間違い有りません。今日のやかましくいいよる宗教をご覧なさい。私は、宗教の悪口は申しませんが、これでご先祖が喜ぶだろうか。これで神様が喜ぶか。わが、よかったらよいというような事を教えとりやしませんか。内の宗旨に入ったら、かざり物何じゃいらんのじゃ。家の追善供養したって物はいらんのじゃ。金はかからんのじゃと、こういう事で呼び寄せて仲へ入れさす。それは信仰でありますまい。金使わんのなら、むしろ宗教へ入らないと、どうですか。は入らないと一ツもいらんでしょう。それで自分が磨けますか。やはり信仰というものは、偉い、有難い人の教えを聞かせてもらって、それを自分の生業の中へ折り込んで日に日にそれを実行の上に移して行くというのでこそ、徳が積め、子々孫々に至るまでも平和な家庭ができるんじゃありませんか。泉先生の教えの値うちのあるというのはここにあるのです。
決して、泉さんそのものは、金を集めて、今日の新興宗教、名前は申しませんが何十億の財産を集める、そんな事しておりません。先生は、ご自分は裸です。誠にお気の毒には、夏の盛りでも蚊帳を質に置かなければならんような事があっても、先生はニコニコとお笑いになって、まあ人間は後回しじゃ、神様のお線香やローソクは切らしてはならんといって、質に置いた金でお線香を買い、おローソク買ったのを、私は拝見しております。涙が出るほど有難い教えでありませんか。
どうぞ、この七十七条に書いてある徳を積むという事は、人を喜ばして、自分はただ食えたらよいのだという風にして行くならば、成功するという教えなのです。どうぞ皆様、ここの所をよくかみ分けて頂いて、日常生活、お百姓はお百姓のまま、商売人は商売人のままで、徳が積めるのでございますから、神様の前でお線香を上げて拝む時間は僅かしかありません。その時だけ賢いのでは、何にもならんのです。目が覚めたら寝るまでの間、起きている間、夜寝て夢にでも、神仏に近よろうとする。お心ならば、この七十七条に書いてあるように、人を大事にしてもらいたい。
(昭和三十四年三月三十一日講話)
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第七八条 「水はよく田を養い、よく田を害す。火はよく物を育て、よく物を滅す。益と害とは、見ようによって違うようであるが 本来一つのものである。」
これは私がむつかしく書いたのでございまして、先生はこうおっしゃったのではないのでございます。先生のお心を、ここに書いて見たのです。これは大日如来様の五智の中へはいっております。平等性智、すなわち両極端です。
たとえば、熱いものと冷たい物、あるいは益のある物と害のある物、きれいな物と、きたない物、こういう風に両方の極端な物を極端に解釈せずして、平等にそれを見るのです。大抵人間は日常生活には、両極端を考えて暮しております。よく考えてご覧なさい。人間は、あしこは分限者だとか、あるいは冬は寒い、夏は暑いとか、あの人は優しい人であるとか、荒々しい人であるとか、こうやると損じゃ、こうやると得じゃ、そういう風にあい反する所の物を比べて、いろんな事を考える癖があるのです。人間にはどうですか、そうお思いになりませんか。ほとんどが差別、すなわち区別、物を比べる、こういうような事で暮しとるのです。
そうしますと、比べる、何に比べとるのかと言いますと、ただ単に違う物を比べとるのじゃなしに、その中へ自分というもの入れて喜こんでみたり、あるいは怒ってみたり、悲しんでみたり、という結果になるのです。ですから、差別はいけないとこう信仰で言いますのは、そういうわけなんです。この七十八条に書いてあります事は、そういう差別をしないように先生がいつもお心掛けになっておったのです。 すなわち先生は、平等性智を持っておいでた。大日如来さんの五智の中の一つ平等性智、これができますというとどういう風になるかと言いますと、差別しませんのですから、悲観したり、あるいは怒ったり、笑ってみたり、泣いてみたり、憎んでみたり、かわいがってみたりというような極端なことはなく、非常に奥行のある、余裕のある気持になるわけなのです。これは非常にわかりにくい言葉なのでございますが、いろいろ例をもってお話し申上げる事にしましょう。
「あなた方がこの土地の上におりまして、飛び上がるとしますか、足でさあーと飛び上ると体が上へ跳び上ります。
すると、大抵は跳び上った事だけを見ているのです。仮に飛び上がるのに、四十キロの力が入ったと致します。四十キロ上へ飛び上ったのじゃないのです。その反対に土地を四十キロの力で蹴ったのです。下へ押しつけるが、下が動きませんから上へ飛び上がったのです。あなたが飛び上がるのであって、綿の大きな上に乗って飛び上がって見なさい、上がりはしません。下が動かずしてじっとしておる所で、四十キロの力で押しますから上へ四十キロ飛び上がるのです。こういう風に、すべての物が一つの動あれば反動ありといいます。これは今日の物理学で言います通りに、何か一つの働きがあると必ずその反対の働きがあるのです。
よく私がお話しいたします事ですが、舟に乗りまして、そうして舟の中で舟の縁を力いっぱい押すのです。舟は動きません。川に浮いている舟の中へはいって、舟ベリを押した所で動きません。それはどうしたのかというと、舟ベリを押すだけの力で、足でそれをふんばっています。ふんばると、舟は後へいかんならんほど前へ又押すから、それだけの力で前へいかんならんで押すのと、ふんばるのとで、両方プラス、マイナスゼロ、すなわち舟は動かないということになるのです。その動かん所を先生つかまえておいでるのです。どっちか一方をついたら動くのです。足だけふんばったら身動きます。手だけ舟から外へ出していて、手だけで押すと舟は動きます。けれども中へ乗っていて、舟ベリ押すのですから動かぬように、ちょうど平等観と言いますのは、そういう風にどちらへも偏しない、一方に偏しない、それだから動かないのです。
これは物理学の方で私お話申したのですが、人間の心もその通りでございまして、片一方へ片寄る所の考えを、持っておいでる人は、いつも心が動き回っております。片一方へ偏するのです。差別相というて、これはきらうのでございます。差別観と言いまして片一方へ寄っているからです。たとえば今舟の話をしましたが、足でふんばる事だけ考えておるから、舟が動かんというて、なげかなならん事が始まる。又、手で押す方の事ばかり考えているから、舟は動かんというて、なげかなならん事がおこります。それを局外から見てご覧なさい。舟から離れて考えてご覧なさい。足でちょっと、もてあそんでも舟は動きます。手でちょっと、いたずらしても動くのです。ははあ、これは動くのがあたりまえだ。よくわかって来るように、人間の生活に人間を離れるのです。すなわち神さん、仏さんに、おすがりする心になりますと舟から外へ出たのと一緒になるのです。そうなりますと、心の中に一つの働きがあった場合には、又一方に働きがあるのだという事がわかってくるのです。それでプラス、マイナスゼロとなりますから、平等観が起ってくるのです。
これは理屈からいうと、そんな事になるのですが、実際はなかなかそういう理屈など考えるものでないのです。
その一方の事ばかり考えて憎んでみたり、怒ってみたり、喜んでみたり、泣いてみたり、こういうそのへんな考えになるのです。
此の七十八条は、そういうむつかしい事を水にたとえたり、あるいは火にたとえて説明しています。
水がなければ、たんぼができないのです。田をよく養うのです。そのかわり水がありすぎるとどうなるか。養うどころじゃありません。なにもかも皆害してしまう。枯らしてしまいます。これも動あれば反動ありという事になっておりましょう。水の利益の方面もあるが、害の方面もあるという事になっているのです。両方同じものなのです。
人は水が出て困るとか、あるいは水は養うので結構だとかいうて、片一方ばかり見るから人間は一生涯安定した暮しをようしないのです。水その物は害しようとは思っとりません。人間を養ってやろうとは思っておりません。
本来自性はないものです。天地間のものは、すべて自性はないのです。お大師様がおっしゃるのには、一切法空と言いまして、すべてのものには我という働きがあって、どうのこうのというのじゃないのです。自性はないものです。
ところが、人間がその働きにおうた時分に、わしゃ困る。困った時分にそれを一方の働きを、憎むのです。喜んだ時分に、一方の働きが我に得なら喜んどるのです。こういうようになりますならば、この天地間のすべての物が、皆何かの働きをしておりますが、その働きが自分に便利な場合もあるし、不便な場合もある。そうすると泣いたり、怒ったり始終しておるような事になるのです。
そこを考えますと、水というものは、泉先生のおっしゃる如く、田を養うんだ。又田を害するんだ。それで自分が安穏に暮らそうとするならば、いらん時には、水がこないようにしなさい。いる時には、来るようにしなさい。そうしてその人間というのがむつかしかったら神様に頼みなさい。こういう風に水というものを離れて、自分を防ぐという事になれば、泣いたり怒ったり、するはずはないのです。
火もそうです。火もとのお日様というのがなければ温度がありません。あなた方が間作物を作っていなさるのを、見てわかります。あの温度。すなわち火の力です。温度というものがないならば、育たないのです。ところが、あれが過ぎるとどんなになりますか、火事です。物が焼けてしまうのです。火事でなくてもあの温度が過ぎてご覧なさい、植物はどんどん伸びるばかりです。つまり徒長が甚だしくなるのです。こういう風に火は物をよく育てるかわりに物をこわしてしまう、ほろぼしてしまう。消してしまう。こういう両面の働きがあるのです。これは水と火をとってきとりますけれども、すべての物がこの通りなのです。泉先生はその事を非常に重くおきなさっている。そうして 心の働きを神仏におまかせした。そうして喜んでおいでた。
一例をお話し申しますと、私が一ぺん先生のお供をして八栗山の五の剣へ登った事があるのです。何回もありますが、ある時その一の剣から二の剣、三の剣、四の剣と通りまして、あの四の剣の麓の岩屋、金時不動さんの岩屋へお詣りしたのです。先生のお供しとるのです。そうして中のぞきますと、お遍路さんが一人おこもりなさっているのです。
片側の方におるのです。それで先生はおは入りになる。私もその横へ坐りまして、お不動さんを礼拝しました。その横でお遍路さんに礼儀正しくすわって、泉先生がお拝みになっているのを静かに聞いておりました。すると先生は、拝んですんだ後で「ああ、村木さん、のどが乾いたがなあ。お遍路さんお茶を持っておいででしょうか。」横に茶瓶があるのです。それとお椀があるのです。お椀の中には、今、遍路さんがおみいさんをあがった後だろうと思います。
おみいさんが縁へたくさんひっついとるのです。お箸でかいた後がちょうど、さらえでかいたように筋が沢山いっとるお椀が横にある。「へい、この茶瓶にただ今ご飯をいただいた所でございますからお茶はあります。おあがりなさいませ。」「こりゃ有難い。」と、先生はにこにこなさっておいでると、お遍路さんがそのお椀をとりまして、その中へお湯を入れて洗おうとしたのです。先生はそれを止めて「あーそれは洗わんでもよろしい、そのままいただきます。」というて、そのお椀をお手に持って受けておいでる。お遍路さんは、いかにも気の毒そうな顔をして「こら洗わなんだらもったいのうごわす。」「いやあ~もう結構でごわす。」と先生はおっしゃる。で、先生がおっしゃるのですから、お遍路さんは恐る恐る先生の待っておいでるそのおわんの中へ、茶びんからお湯を入れたのです。
そうするとそのお湯は濁ります。そうすると先生は「結構、有り難うございます」といってお椀を押しいただいて 一息にぐーっとあがってしもうたのです。「ああ、おいしいございました。有り難うございました」と言うて、先生はていねいに礼を言って、お椀を横へ置いたのです。 お遍路さんは びっくりしてしもうて、目を パチパチしていました。私もその横で見ておりましたが、まことに驚きました。どうですか皆さん、この先生のご態度は、あなた方できますか、お遍路さんが、いろいろなぼろの着物を着ておいでる。ぼろや言われませんけれども、つぎまわった着物を着ておいでる。きれいな着物を着とりまして着とるとしましてもです。おみいさんをおあがりになったはげているお碗にお箸の筋がいっとる物の中へ入れてくれた物が、あんたどうですか、私は正真に白状します。いただく事は目をつむって、ぐうーと飲むにした所で気持よくいただけないのです。
あんた方どうですか、先生はにこにことして、さもおいしそうに、それをいただいて舌打をして有り難うございましたと言って、ていねいに礼を言うて、お遍路さんにそのお椀をお返ししたのです。そうすると、先生があがった後で。そのおみいさんが筋になっとったのがへげてきれいに洗えとるのです。
どうですか、これは何を意味するかという事です。尊い事なのです。これは考え方によりますと、すなわち平等観なのです。きたないとか、きれいだとか、身分の上だとか下だとか、そういう事が全然先生のお頭になければこそ、 谷間の水のきれいな水を飲むのと同じようにお飲みになって平然としておられる。そうして、先生はめったにのどが 乾いたとか、あるいは何がほしいとかおっしゃらん方なのです。私、後で考えたのです。これは特に私の為に物を差別してはいかんぞと、すべての物を平等に見るんだぞという教訓の為に、わざわざ先生がなさったのではないかと、私は考えるほどに、先生はきれいな所作を見せてくださったのです。
しかし、ここでお話し申しますのは、私はそういう不衛生な事をあなた方にしろと、こうなされませとお進めするのじゃないのです。それは最も清潔にしてある物はよろしいのです。よろしいのですけれども、これは一例としまして、こういう場合でも先生は、こういう風になさったという一例のお話を申すのでありまして、きたない物をおあがりなさいと進めるのじゃないのですから、ここを勘違いなさらんように、泉先生はそういう風にきたない、きれいな自分の身分は、お遍路さんより高いのだとか、大きなおかげを持っとるのだとか、お遍路さんは、その日の食事を人にもろうて生活しているのだとか、そういうような区別する所が一つもない所が、すなわち平等感なのです。
先生は何事にもそうなのです。道を歩いておいでていても、縄切が落ちているとするのです。そうすると先生は、つえをついておいでる。そのつえで、なわ切れを道の端へ寄せます。つえを持っておいでん時には、手で拾うて道の端へ寄せます。そうして会釈なさって通っていくのです。それで私は、先生どういうわけでそんなになさいますかと聞いてみますと、先生は例によって、にこにこお笑いになって、先生のお笑いになるのは、お聞きになった方があるでしょうが、咽へひいひいと、こう後へ引く声でねえ、後へひいひいと引いて笑いなさるのが、普通の人と違うのです。ひいひいいうて笑うのです。そうしておっしゃるのには、「これは村木さんなあ、なわの切れはもう使えないんじゃから、そのままほっといてもええんじゃけれども、あれは人がわらを打って、そうして何かの用にする為にのうたものなんです。いったん仕事をしたあれが余りなんです。それが道に落ちとる、それが道に置いてあった所で、ほんなもんが落っとった所できれいなもんじゃない。それをなんでもなしに、人が足で踏んで通るという事になると、一たん役に立った有り難い物でも、なんともないようになるんじゃ。村木さんよ、これは、元は人が手間をかけてこしらえた人間の用事をして、した後なんです。これをなんでもなしに足で踏むという事は、なわその物はかまわんにした所で、これをほんなら、人間にたとえたら村木さんどうなる、元はよう働きなはった達者な人であったけれども、今は八十も九十もなって何もできない、ようやく、歩きかねとるというような人が道の端におった時分に、その人をつきのけといて通るか、踏んで通るか、そんな事はよもやしやせんけれども、尊敬して通る人は少いだろうと思う。
だから私は、世の中で役が済んだ、この古いなわ切れでも踏むという事がもったいないから、こうやるんじゃ。」というお話があったのです。私はいかにもなあと感じました。
それから、ぞうりの古いの、あるいはわらじの古いのをよく捨ててあります。先生はいちいちそれを道の端へお寄せになって裏を上へ向けないように揃えてお置きになるのです。人が捨ててあっても、これも今申すようなわけで、一たん人の用をした物は敬意を表する。又ぞうりなんか、あるいはわらじなんかは足の裏で色々な物を踏んでおる。
それをひっくり返してお日さんの方へ向けるともったいないとこういう先生のお考えなのです。
ただ今は、学校あたりで教えますのは、お日さんは、これは一つの地球も同然の物体であって、地球よりもはるかに大きい物である。それが今、熱度が何万度もの熱になって、どろどろに溶けているんだ、それが、回っているんだ。
その周囲を地球とか月とかが回っとるんだと、こういう事を教えます。それに違いありません。だからもったいのうない、とこういう教えなのです。なるほどもったいのうない事はわかっておりますけれども、このお日さんがなかったとしたらどうですか。あなた方、作なさる方であろうが、なさらん方であろうが、お日さんが無いと考えてご覧なさい。生きられますか、お日様は人間を、かわいそうに生きさせたろうと思うて、ぬくめてくれよるのではございませんけれども、恩恵を受けとる事は間違いないでしょう。恩恵受けとらんと言えますか。そういたしますと、仮に恩恵をくれた人が知っとろうが知っとるまいが平気でおろうが、かわいそうに思うとろうが、そんな事に関係なし、ご恩という事に対して、感謝するという事がないならば、もはや人間は、人間の価値ありません。動物より劣りでしょう。ですから、相手方が火の玉であろうが、どうであろうが、わら切れであろうが、一たん我々が恩恵なったという事に対しては敬意を表する。すなわち平等感です。先生はそういうお考えを持っておられたのです。
いつも先生はこういう事をおっしゃっておりました。たとえ木の切れ、竹の切れでも、拝めば神様である。こういう事をおっしゃる。拝まん人は、木切れ竹切れです。木切れ竹切れは、我々を助けてくれる力はないという理論をたてる人がある。なるほどその通りです。しかしながら、この木切れ、切れで我々は助かったんだというて、それを拝むならば、いわしの頭も信仰からです。そこに神様が、竹が神さんでない、木切れが神様でないのです。そう思う心に天地の恵が体へ振りかかってくる。すなわちいわしの頭も信仰からだというのも、ここから生まれるのです。 泉さんはそういうわけで、たとえわら切れ、草履の破れでも感謝をなさった。それを物として藁の切れや、ぞうりのぼろじゃとこうおっしゃればそれまでであって、それまた違いないのです。けれども、ここが平等観なのです。
いわしの頭も信仰からというのも平等観なのです。いわしの頭が有難いんじゃないのです。そういう先生は、まことに広い恩を忘れない。こういう所に天地が先生に、あの驚くべき力をお貸しになって、そうして人間を助けさす為に先生をお使いになったと見てよろしいのです。すなわち神様・仏様というのは木切れ竹切れにこもっとるのじゃないのです。人間の心に、木切れ竹切れに受けとるご恩、有難いという所にこもっとるのです。すなわち、我々の心の中の動きにこもるのです。この先生のお思召しをお忘れにならんように、それを忘れますと今日、一部の人々が言うように、そんなに有難けりゃ、あれは石の切れじゃないか、あれは紙の切れじゃないか、竹切れじゃないかという議論 負けるようになります。それは竹切れ、木切れに違いないのですけれども、その竹切れ、木切れが先生といかなる関係にあったか、我々助けられたとするならば、これに対する感謝の念を払うという事が信仰なのです。それが天地の神さんに届くのです。この七十八条は、簡単に水と火との事を書いてありますけれども、すべてがそれですから、ただ水、火ばかりじゃありません。すべての物がそれです。その意味でこの七十八条を十分味うていただけば、日に日に目の前にいくらでもおかげがぶら下っとるわけです。どうぞその意味で七十八条をご覧いただいて、平等に上下言う考えなしに動物じゃの馬じゃの、牛じゃの猫じゃのという考えなしに、生き物ともに我々の兄弟であると、いうような広い意味で信仰する事が平等観。そのお陰をもろうた時分には平等性智、それでありますからすべての事が分るのです。この道理をどうぞおくみ取り願いたいのです。
(昭和三十四年四月十五日講話)
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第七九条 「心に悩みあれば体痛み、心平らかなれば体安し。」
人間は心と肉体との二つを持ち合わせています。心と肉体との調和がとれていて、はじめて幸福といえるのではないでしょうか。よく人の言われていることばに「健全な精神は、健全な身体に宿る。」といわれております。心身は 表裏一体的なものであり、心身一如の姿であります。心と身は常に影響し合って成長しています。心身の関係について例をあげれば、われわれの日常生活においても、毎日健康で体に病を持たなければ、心はさわやかでなす仕事にも精が出るが、一たび体のどこかに病を持つと心がいんきで、仕事にとりかかるにも、又仕事しながらも不精不精で能率はあがらない、こんなことはみなさまもご体験されたことと思います。又「阿呆息災」ということばがありますが、世にいう阿保は必ずしも息災とは限りませんが、まことの意味は心に悩を持たぬもの、心にけいげのないものは健康で、体に病をこしらえないということの意味と解すれば、息災のために阿呆といわれても恥ずべきでないでしょう。
よく世に体が健康ですねといわれると、挨拶返答に「ええ、心に苦のない馬鹿ですから」とかいって笑っております。又病人の病状がよい方に向っていくのも、やはり心の持ち方が大いに力になっていることもあります。心がほがらかで、晴々としておれば、白血球の製造が旺盛であるとか申します。又は血液のじゅんかんもよく、栄養の運搬から病菌の滅殺にも効果があるので、おのずから身体はよくなるということで、心の持ちよういかんで体を毒することにもなるし、薬にもなるということになります。人のからだと心ほど仲のよいものはないのです。心の通りにからだが変化する。心を円く持てば顔は温く、心に角を立てれば顔はかたくなる。このように、からだの内部のさま、眼にこそ見えね、刻々かわっていくものであります。もつべきものは心のほがらかさであると思います。
われわれ凡人は、いつも六道に輪廻にし、煩悩の世界であけくれています。地獄の世界で泣いたり、腹たてたり、ぐちをこぼしたりして、いつも心の平静さを失って生活しているのが常であります。この地獄の世界から極楽の世界人と渡り、心に悩を持たないくらし方をするには、どうしても神仏におすがりするより外に道なきものと考えます。
私の知っている方に、医者からは手をきられ、如何な妙薬もききめなく、もはや死を待つより道のない重病人がありましたが、ありがたき神仏のおかげをいただき健康を快復した人があります。これも死という万人の恐れを忘れ、ただ一筋に自分の身を神仏におまかせし、念じきって、心のなやみを消し止めたに外ならないと考えるのであります。
泉先生のお教えに「自分で苦労すな、神にまかせ人の為をはかれ」というありがたいおことばがありますが、われわれ凡人の心で、如何に自分の欲心にまかせ悩んでも、なやみ倒れになるだけで、なんのききめもないものであるということがさとれるわけです。又、泉先生の御遺訓にも「人の生きるには、心によって肉を働かせている。であるから、天地にかようておらぬと、肉は変則に働きだす。これを病という。心を正して肉を護る。これを真の生きる道という。」とのお教えがあります。
世によくいっていますが、「病」と「病気」とを同じように考えていますが、病と病気とは違うのであって、病というのは、からだの自然のわずらいでありますが、しかし病気というのは、心のわずらいが、身をよわらしたのである。偉い人は病をすることがあるが、病気はせぬものである。なるほど、偉い人は神仏の縁の深い方であり神仏に全身全霊をおまかせし、即ち帰命し心に何のけいげも、もたない方のことであると思います。うつわものは、中へ入れる物により強さが違う、人も心の持ちようで身体のつよさが違ってくるのです。
(昭和三十四年四月十五日講話)
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第八十条 「くもらねば、たがみてもよし不二の山、生れすがたで幾世ふるとも。」
この歌の意味は、富士の山の姿をほめたたえた歌でありまして、意味は生れ姿のままでおれば、幾世年月がたとうとも、誰が見ても、富士は立派なよい山だ。しかし雲にさえぎられると、美しい山の姿を人界から没してしまう。まことにおしい。いつまでもくもらなければよいがなあ!と富士の山に対する慕情を歌ったのだと思います。
これを人間にたとえてみれば、どんなことがいえるでしょう。人には、どんな人にも仏心がある。この仏心が生れすがたの富士のすがたである。くもることは 我心が出ることで、我心が出なければ、人はみなだれが見ても仏に見える。人は我心の雲によって仏心がおおいかくされないよう、いく世経るとも生れ姿でくらしたいものであります。
人は仏心を持っておりますが、それがかくれたら欲心が出、欲心がかくれたら仏心が現われる。ちょうど天秤棒のようなものです。仏心とは、仏の心で慈悲心とか、魂とか又良心といっています。この仏心が雲にかくされると、即ち欲心が出ると、外道に落ちるものです。それと反対に雲が晴れると仏心が自然とあらわれ、慈悲の行動が出来る
即ち人助けの仕事ができる。人は如何なる極悪非道な者といえども、仏心は心のどこかに持っているのであります。
ところが因縁の雲によって、覆われ、あわれむべき行動をしているのであります。この雲をはらい除けば、いつみてもよし富士の山で、神の愛児となることができるのです。
この仏心をよみがえらせる方法として、六波羅密行によるより外ありません。六行とは、施忍戒精禅智の行です。
これを日常生活の中に行ずるということが大事であると経文にかかれています。施行でも施波羅密の施でなければなりません。施して求めないことが大切です。次に忍行ですが、これも忍波羅密の忍でなければ、自分の為の忍では届かないわけです。それから戒行も戒波羅密の戒でなければなりません。精進行にしましても、精波羅密の精進でなければなりません。この四つの行を四度行といいまして、信仰の中心になるわけです。この四度行が出来て、禅行を修する場合には仏智表われ、人間の学問の奥を極めて得た知識と異なり、これを仏心といいます。泉先生は弘法大師、 釈迦に限らず誰でも仏になれるのだとおっしゃっております。
仏智の力は偉大な力を生み出すものです。俗に神通力といっております。過去、現在、未来の三世を見ぬき見通す力であります。この境地に住した時、いつ見てもよし富士の山となるのであります。常に仏心を保持し、雲のかからぬように身の持ちかたをしたいものです。ここに二つの瓶がありまして、一つの瓶には、清水を満たし、他方の瓶には、その底に土を入れそれに水をみたしてあります。二つの瓶を静止させておきますと、いつまでたっても澄みきった水でおりますが、一度瓶を振り動かしますと、清水を満たしてある方は振れば、止まりましたらもとの清水の姿ですが、他方底に土の入れてある方は濁ります。しばらくしますとだんだん澄みきってまいります。仏心は、いかなる境遇あるいはじたいに遭遇しても、ことにあたって光を発するが、欲心をすこしでも心に宿しているとことにあたって乱れを生ずる、濁をこしらえます。
いつも生れ姿の仏心を使ってたが見ても、よい生活を営みたいものぞとの教えとをお示し下さっております。
(昭和三十四年四月十五日講話)
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