591~600条

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第五九一条 「施行、忍行、戒行、精進行の四つは人間の行で、信仰にはなくてならぬ基礎である。智行なくして禅行に進めば、神仏に遠ざかる。この六つの行は、どれ一つとして落としてはならぬ。」


先生のような尊い力が出来るのは、どんなにしたらよいのかと言いますと、それは、こらえる、辛抱するという忍行と、戒行というて、教えを守るという行、その次に精進行と申して、皆さんは精進とは、さかなをあがらんのを精進とおっしゃいますけれども、先生のおっしゃる精進と言うのは、精を出して働くという精進の三つと、もうひとつ大事な事は、人に施すという行、施行、この四つが、日に日に、人間はしていたら、いつの間にやら、心がきれいになる。そのあとで、もう足らんものはなにかと言いますと、禅行お参りです。あるいは拝む事です。これが禅行。そうすると、いつとはなしに、自分の心の中へきれいなものがわき出て来る。知恵がつく。これは人間の知恵と違います。信仰から生まれる知恵でございます。この六つが揃うたら、そろそろと神様の心がわかるようになると、先生がおっしゃった。
この六つの行が大変結構でございますが、ひょっとすると、魔というのがおりまして、邪魔するのがあります。今日は、この魔の話は置きまして、この六つが必要である。考えてごらんなさい。わし施行出来よるか、施し出来よるか、施しというのは物あげるばかりが施でありません。人に道教えてあげても、あるいは人が喜ぶ事してあげる事も 施行のうちにはいります。精を出すという事は、たとえ唐ぐわかたいで田んぼのくれを一つ掘るのでも、精進に違いございませんが、一うね掘ったら、いくらもうかると言うのでは、いかんのであって、国がどれ位富むか、いかに人が助かるかと考えて働くのが、ほんとうの精進、わが財布考えて、やった事は精進でございません。働くこと自体は、よく似ていますけれども、心が違います。精進行。それから、この四つです。施行・戒行・忍行・精進行、これは人間が神さん拝まなくても、出来る事です。人間行です。まずこの四つをする事、その次にご先祖を念ずる、神仏を念ずる、それが出来まして始めて、ここに不思議な知恵がわき出てくるのですと、先生がおっしゃいましたが、いかにもそうでございます。
人間の知恵はどうも、わがというのが中心になっておって、さる知恵が多いのです。これは、運の悪い事もございますが、先生の教える、この禅行というのは、たとえてみましたら、先生があれだけ多く人を助けた。お大師様が、あれだけ大勢を助けた。どうしてあんな事が出来たのだろうかというて、そのまねをするのが、禅行でございます。
それだから、あんた方が、こないだ高野へおいでたのでわかりますでしょう。あの大きな山の上に、一里も続いている平地がある。そこへ集って行く人が、あれ位大勢おいでになる。すなわちこれ禅行でございます。それがあんた方お出来に成ったんです。そうして、先生の教えを聞いたり、見たりなさって、それがご自身の身について、何となしに、した事が人を感心させたんです。小坊さんが感心してしもうた。すなわち禅行が一つ出来たんです。こういう風にして行けよと先生がおっしゃいました。すると知恵がついて来る。どういう風にしたらええだろうかと言う知恵が、不思議な知恵が出来てきます。この六行の内の知恵行というのは、なかなかむつかしい事です。
(昭和四十年五月三十一日講話)
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第五九二条 「物には陰があるように、心にも陰がある。心の陰を禍福というている。この陰に迷うて心をあせっている。陰を思うように動かそうと思えば、陰のさしている本元を動かせばよいではないか。このわけを知らずして、陰を本物と間違えていくら力を入れても何にもならぬ。物の陰なれば子供でもわかるが、心の陰には大人が迷うている。」


これは、日が照っとる時に見るとわかります。たとえば、ご自分が立っとる、その影が土地へうつる。腰がかがんどる。その影を直すのは、ご自分が真っすぐにならなければ影は直りません。先生が、それをおっしゃってお笑いになる。かげというのは、本体がゆがんだら、ゆがんでうつる。まっすぐであったら真っすぐにうつる。人間が、一生がい、色々な運にあうが、楽にいける人あり、つらい人もありますが、それは陰です。それを自分のすきに直そうと思ったら、自分が直らなければ、かげは直りません。「村木さん、これ取り違えたらいかんのう。」と先生がおっしゃった。陰を直そうと思ったら、本体が直らないかん。
鳥でさえも、仏法僧と鳴く鳥がある。これ先生が笑いながらおっしゃるのです。「仏法僧と鳴く鳥がある。あれは兄弟を呼んでいるか、自分の妻君を呼んでいるか、友達を呼んでいるかの、なきごえです。ところが聞く人が、それを聞いたら、仏法僧と、尊いことをいうでないかと、いう風に耳に聞えてくる。鳥の声でも、もの言よるように聞えて来ると同様に、信心の六行が出来てくると、風が吹いて物がブゥブゥと鳴って居る。あるいは、かえるが鳴く。これでも意味があって聞えて来る。そういう風になるから、仏法僧と鳴いたのが有難いのではないので、仏法僧と聞いた耳が有りがたい。勘違いせんようにせないかんなあ、村木さん。」とおっしゃったのです。なるほど、鳥は仏法僧の三宝師と歌っているのでないので、友達を呼びよるか、兄弟呼びよるかに違いない。ところが聞いたその耳が、なるほど、仏法僧という、鳥でさえ仏法僧、こういう風に聞いた人が神仏に好かれるんぞと先生がおっしゃいました。
こういう風に、えらい人と、えらくない人と、どこが違うかと言うと、心が違うのです。ここでひとつお話しせんならん事は、偉い人と偉くない人と、どこが違うかというと、余り違わないのです。よう似ているのです。こんな事言うと相すみませんが、お大師様や、先生と我々とが、あまり違わないと言うと、相すまん言葉でございますが、聞きようが違う、見ようが違う、僅かです。僅かの違いが、わが身を中心として考えたり、言うたりしている人は、えらくないのです。こうしたら人が助かるか、あの人が楽になるかと、それを中心に考える人が偉い人というんじゃ。「村木さん、偉い人と、偉くない人とは、近いのぞ。」と先生がおっしゃった。いかにも、その通りでございます。 それは心一つで、そうなるのでございまして、ここで一つ面白い話がございます。私は生まれながら、人に好かれる性質がある。つまり魅力がある。うちは有り難いことじゃと、こう言うて喜んだら、喜ばれるのでございますが、その魅力という、生まれつき持っとる人は、人が好きます。好くのと同様に又、魔がつけますから、わしは大勢の人に好れる、魅力があると、ところが魅力が自慢になると、つい悪魔がついて、そうして誘い神がつきましたならば、誠に気の毒な汚名を、後世に残すという事が出来てくるのですから、たとえ魅力がありましても、その魅力をどこから人に好れるんだろうかという事を考えて、ああ、なるほど神仏の教えに、わし合うとる所があるから、人が好いてくれるんじゃと、こうなりませんとご先祖有り難い、神さん有り難いという事に、もとづかんと言うと、いけないと思います。それをご先祖のご恩とし、神仏のご恩として、有り難いなあと、わがでに喜ばんというと、いけないと思います。人のようにきたない事言えへんは。こういう風に、わがが慢心した気になると、必ず悪魔がつけるのです。 さそい神(悪魔)がついて、甘言を使うて、その人を悪い方へおびき出すのです。魅力があるのですから、人に好かれた、その好かれた人について行く場合があるのです。そうすると、心にもない汚名を、後の世に残す場合があります。これをどうぞ、祖先のお陰で良い性質に生まれた、あるいは徳じゃという事がありますが、よく考えて、そうして、その恩返しを祖先にする。神仏にすると言う考えが、村木さん大事じゃなあと先生がおっしゃった。
私よく考えてみますと、なるほど人にまさっているという点があるという事はうれしい。しかし、それで大勢に交じっていっきょると、ちょうど若木に、きらり(あぶらむし)がつけるように、いつの間にやら、きらりが繁殖して根が枯れるという事が出来てきます。その時には消毒薬を使う。そして根を助ける。その消毒薬になるのは何ぞ。
虫を殺すのであるけれども、自分を害する物をおさえる。それ何かというと、信仰より外に無いのです。祖先大事、神仏大事と言いよる者には、悪魔がつけんのですから、どうぞ、こういう事をよく気をつけないかんのうと、先生がおっしゃったのが五九二条でございます。
これはしよいようですけど、むつかしい事で、大勢の中にきらわれる人があります。好かれる人があります。きらわれる人は、なぜきらわれるかという事を判断して、自分が心を立て直す、好かれる人はそれで、ああ、ここじゃと言うことを神仏中心に考えて信仰にはいれよと先生がおっしゃったのです。
(昭和四十年五月三十一日講話)
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第五九三条 「鳥でさえ、仏法僧とあがめたたえるものがある。人と生まれて三宝の尊きを知らずしては、喜べるわけがない。聞いてなるほど、それでは自分はよろこびたいから、三宝を供敬しようでは本当のものではない。形や理屈はぬきにして、心の真底からお礼がわき出て来るような気持ちにならねばならぬ。」


釈尊の時代から、仏法僧の三つの宝に帰依することが、信仰者の根本的な心掛けとされていました。ごくふつうの解釈では、「仏に帰依する」とは、完成された人間としての仏さまを心から敬い、あがめ、心のよりどころとすること。「法に帰依する。」というのは、仏さまの説かれた教えを、絶対的な人間の指針として仰ぎ、それに従って生きること。「僧に帰依する」とは、同じ信仰をもつ人びとの集まりを神聖な結合として尊び、それを心のささえとすることです。この三つは、いちおうは仏弟子となる人びとの、心がけのように思えます。また、そのとおりでもあるのです。けれども、その奥の奥を探ってみますと、釈尊は、たんに仏弟子たちのために、これを説かれたのではなく、広く人間全体がよりどころとすべきものを、示されたのではないかとおもわれるのです。
もっと深い意味の仏とは、宇宙の大生命であります。この世のすべてのものを存在させ、生かし、動かしている根源の力であり、真理であります。ですから「仏に帰依する」というのは、無我の気持ちとなって、根源の大生命に直入し、それと一体となる境地をいうのです。次に「法に帰依する」というのは、我というものをまったく投げ捨てて、宇宙の真理法則のまにまに生きるという心境になることであります。宇宙の真理法則のまにまに生きるならば、それが一番正しい、まちがいのない生きかたです。まちがいがないから、罪を作ることもなければ、迷うこともありません。いまの人間社会は未完成の世界ですから、真理にしたがって生きる人が、いちじるしく不幸な状態に陥ることもありますけれども、それは、みかけだけの不幸であって、ほんとうは不幸でないのです。この世が正しくなっていくための礎石となる人ですから、これまた人間としても価値ある高貴な存在といわなければなりません。宇宙の真理法則に従って生きることは、たいへんむつかしいようですが、正しい宗教を信じ「我」をまったく捨てさる境地に達すれば、ひとりでに、そんな生き方ができるようになるものです。
最後に「僧に帰依する」ことは、和合ということを人間社会の最高の美徳としてあがめ、心のよりどころとし、全身全霊をあげて、その実現に努力することです。お釈迦様は全人類が美しく結合せよ。」という広大なものであったことは、いろいろお経の内容からみても明白です。全人類が美しく結合するー。ひとつに和合して永遠の向上の道をたどるー。これは、心ある すべての人の夢であり、理想でありましょう。そういう夢と理想を実現するには、まずいちばん小さな結合から、美しくしていかなければなりません。まず、家族、友人、同僚といった人間関係から、美しいものにし、だんだんと、それをおしひろげていかなければなりません。そのためにはどうしても、すべての人が和合の徳というものを、もたなければならないのです。個人個人がよくならなければ、その共同体は、よくなるはずはないのですから。
以上、仏法僧の説明をいたしましたが、鳥でさえ仏法僧とあがめたたえるのに、人たる万物の霊長が、三宝の尊さを知らずしては、幸福にゆけるわけがないというのです。最後に、自分がよろこびたいから三宝を供敬するというのでは、我が強すぎて社会衆生を助ける為のものとならないので、それでは本当のものでないと教えられたのです。
(昭和四十年五月三十一日講話)
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第五九四条 「えらい人と、えらくない人とは、そんなに違いはないもので、えらくない人は、知恵をわが方ばかりに使うから、人の身の上に使うあまりがない。えらい人は知恵を人のために使うから、わが身の上に使うひまがない。ただ、これだけのちがいしかないのが天地のちがいを生み出すようになる。慈悲の力は人間の知恵ではわからぬ。」


この教えで、世の中で立派な人と、そうでない人とのちがいは、自分のことばかりに知恵を使い、他人のことにはかえりみないという利己主義者か、その反対に自分のことよりも、他人のことに知恵を使う慈悲者であるかによって違うのだという教えです。それだけのことで、天と地のちがいを生ずるのです。かしこいえらい人は、運がよく、天地の力をかりることができ、神のお手伝いが出来る人となり、一方えらくない人は、凡夫の欲の世界で終ることになります。慈悲心があり、人助けをしようという心掛けがあるか、ないかが人間の勝負所であるということで、ほんとの人間としての生きる道を教えた尊い教えであります。
神や仏は慈悲心の象徴です。近く例をみれば、「山は焼けても山鳥とばぬ」のことわざのごとく、親鳥は、わが身の生死を考えず、子鳥をかばおうとする親心、慈悲心、鳥類にして神の慈悲をたれている尊い姿であります。又、子どもに対する母親の愛情のごときもそうであります。たこという動物は、自分の家を大切にしすぎて身をほろぼします。家をすてたら身が助かるに、という教えがあります。人間が家を大事にしすぎて、そうして家を滅ぼすことが、よくあるわけです。家を大事にするとか、わが身を大事にするとかいうことは、我欲ということに属するのです。
こうすればもうけになるとか、こうすれば都合がよいということは、わが身を大事にすることでありますから、我欲がじゃまをして、世の中からきらわれるようになり、次第に運がわるくなるのです。これを反対に、家を大事にすることも、わが身を大事にすることも結構ですが、世の中が大事じゃ、人が大事じゃということを中心にするならば、わが身もよくなることになるのです。
又、忠臣蔵の四十七士の仇討の行為を見ても、主人のご恩の為に、家や妻子を捨てて、一念でかかったあの当時の義士などの行為も、人の為に自分の生命を投げすてた行為です。その忠臣蔵の四十七士の子孫の方々のお家は、立派なそうでございます。これは家を思わずして、わが身を思わずして、人を思う、主人を思う、こういう事がありましたために後々の人は、たいへんご先祖の働きのご恩をうけて、今に立派な系図が残っており、家が続いていることになっておるのです。
それから、こんな事例もあります。かにの足をつかまえると、かには、自分の足をぬいておいて走りのがれます。 くももそうです。つかまえると、足ぬいて走ります。えびもそうです。とかげも尾をきって、すばやくのがれます。 どれも足や尾を、すてたくはありません。かといって足を大事にすると、自分の生命があぶなくなる。足が大事か、 生命が大事かということになる。あんな虫けらでも知っておるわけです。にかかわらず、人と生まれて、自分を大事にしすぎて、この理を悟れぬ人があります。こうした、わが身を大事にして、自分が自分がと、自分本位な生活をやっている人は、後から生い立っていく子や、孫に信仰でない。わが身息災を、教えているようなものである。神仏のありがたさというものは、人間の知恵ではわからぬものであります。自分を捨て、他を助ける仏神の心に生きないと神の慈悲はわからないものであります。
(昭和四十年五月三十一日講話)
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第五九五条 「物の色というものは、その物の実の色ではない。光に照らされて、その光の一部を反射して居るのが色である。いいかえれば 光を分解すれば、多くの色となる。その多くの色の中から物自身がすきな色を吸収して、すかぬ色をはねかえしているのである。そのはねかえしている色を、その物の色というて居る事になる。これと同様に、物の声にしてもそうである。声というのは、物が動いて空気を動かせる。この震動する空気のかたち、そのかたちのとうりに、耳の機械を震動させる。この機械の震動するかたちが声である。それであるから、震動が起こっても 耳の機械が受けねば、声は起こらぬ。これであるから、耳の外からでなくして、内部から機械を震動させるような縁が出来たら、外の物は動いておらいでも、声は起こる。又物の味にしても同様に、舌の上の変化が味となるのであって、物そのものは一定の味はないものである。このようにすべてのものには、一定不変の自性はないものである。それを早がてんして、ものに 一定の自性あるもののように考えて、何ものにでも理屈と差別とを付けたがるのが、凡夫の根性である。そうなると、心の融通を欠いで、心の安静を失うようになる。これと反対に物には自性ないものすべて自心の変転なる事を覚り、円転融通無礙の生活に入る事が肝要である。これを大安楽金剛不空真実三昧という。」


白い物を日なたに出す、たとえば白壁塗ったとしますと、まばゆいあの色なんぞというと、白じゃと、こうおっしゃるでしょう。なるほど白でございます。ところが本体言えば白い物はすべて光を、皆わが方へとらずして、ほうり出しとるのです。だから白いという物は、本体は黒でございます。どうですか。黒いという物は何もかも色を吸収して太陽の七色をすべて吸収しとりますから、反射しませんから、人間の目で見ると黒です。ところが、その裏を見ると皆吸収しているのですから白です。これを面白い句によんだのがあります。「世の中に雪程黒い物はない」と。雪は白いでしょう。ところが、白い物ばかり見るというと、外の物は黒う見える。これくらい人間の目は違いやすいものでございます。それからね、青の色と、赤の色と黄の色と三つをコップの中でまぜると、無色になります。色なしになります。妙でしょう。
そこでお大師さんがおっしゃった。青というのは心配する性が青じゃ。鬼でも青鬼というのがある。怒って興奮した色が赤、そら赤鬼という鬼がつきます。ところが仏様の色は黄です。金箔の仏様といいますが、あの黄がまざるというと、青鬼も赤鬼も皆逃げてしまうて、おらんようになって、無色透明の、こうこうたるきれいな透き通ったものになるのでございます。これはあんた方が、お寺へお参りしたらわかりますが、台座の上に花を祭ってあります。
赤・青・白・黒・黄と、これ五つの光になっとりますが、赤と青と黄と交ぜると無色になる。これは大変不思議のように言うけれども、本体いえば黒という物は、皆吸収するから黒うに見える。その裏から見ると白じゃ。白という物は、すべての色を反射するから、人間の目には白う見えるけれども、本体は黒なのじゃ。こういう事を教えてございます。台座の上の花ごらんになってもわかります。
こういう風に人間は、自分は、たしかと思うても、たしかでないのです。裏をみているのです。白う見えるのは、皆の色反射するから、白うに見える。黒は皆吸収するから、黒う見える。本体は白じゃと、お大師様がお教えになっとりますが、泉先生もそれをよくおっしゃった。わが心、中心で行くと、白を黒う見たり、黒を白う見たり、間違いが起こるぞ。神仏、ご先祖大事という事を第一に置いて、そうして、いつとはなしに自分の心がお陰の知恵がついて来て、そうして、その間違いが起こらんぞと先生はおっしゃいましたから、私それを書いたのでございますが、これはよくございますからためしてごらんなさい。
それから人間の目玉というものは、不思議で、一つの物をぢっーと見つめていて、ひょっと目をはなすと、あとが残っています。五月のお節句が来ると、こいのぼり立てています。あのこいのぼりをちっと見つめているのです。 そして横へ向くのです。何にもない空に鯉が泳いでいるのが、ひょっと残ります。それと同様にいつも、すべて神仏を中心とし、ご先祖を中心とした事思うていると、それをのけても、あとへ残るのでございますから、それは何かと言えば癖をつける。自分の心の癖をつける。その癖をつけるという事が、一番大事じゃから覚えとけよと先生がおっしゃったのを書いたのでございます。ためしてごらんなさい。よくある事です。だから自分の心次第になるのぞというような有り難い先生のお話しですから、これを間違えるというと、こういう事がございます。 あの大阪の九条でございました。銀行から金を出して、かばんに入れて お帰りの途中、後から悪魔がつけたのです。そうして、ものを言っていたら面倒くさいから、後から刀でぐさっと一刺しに殺してしまうたのです。そうして かばんを取りあげて走った。その刀を警察で調べられたら困ると言うので、天井の上へかくしておいた。お金は使うたのです。ところがそのつき刺した時分の、その瞬間の何といいますか、非常な「激動」が、その悪い人の腹の中へこもって、うつって、その人の葬式がすんでいるのに、つけ回るんじゃそうです。その悪い人に、つき回って、夜も寝る至る所に刀で突き刺した模様がうつって、仕事にならんのです。そうして調べられた時に無論、証拠がなかなかわかりません。寝てもさめても、付き回るものですから、仕様がない。そうして白状して、こういう悪い事いたしましたと言うんで、それから、その夢みたようなものが消えて、くつろいだという事が新聞に出ていました。 これはこういうようなので、良い事を始終ご先祖が有り難い、神仏が有り難いと言う癖つけるのです。そうすると、いつとはなしに心の中へ立派な神仏がくれる知恵が出来てくる。それが人間の運を増して来るようになる。 「村木さん、癖ぞ。すべて癖ぞ」と先生お笑いなしておっしゃったのはここです。どうぞ癖つけるように、それが大事と思います。
私とこの前へ、安という、お遍路がつえついて来るのです。二本ついとるのです。一方は前へ出す、一方は横へ出 す。そして、ちょうど私とこの前へ来た時分に「今日は」とあいさつする。あら、あれ盲じゃのに、わかるの、そして、「おまはん、安さん、どうしてわかるんぞ。」と聞いたところが、この土地でも、つえにあたるひびきが違うそうです。粘土と石がはいっとんと違います。それに風です。吹き回しが、何やらここに門口があるということがわかるそうです。目のある人が、かなわん位によく知っていました。これも癖です。そういう風に、いつも仕事をしても、どうぞ六行の施行、戒行、忍行、精進行、禅行、智行、是を忘れなかったら、そういう知恵がついて来る。「これ、つまらないようなことだが大事な事じゃのう、村木さんよ。」と先生から言われた事を今に覚えて居ります。
いつも癖つける事です。それが大事でございます。先生はこういうような風で、朝から晩まで色々な人におつきあいする。そして自分のご自身の心の中へ、それを刻み込んで行きなさったお方です。お師匠さんがあって教えてもらったのでございません。そういう行の仕方でございますから、ああ言う立派な偉いお方が出来た訳でございまして、どうぞ先生のおっしゃる事は簡単ではございますが、意味が深い事でございます。そういう事が五九五条に書いてあるの でございます。どうぞ、これをお忘れにならんように。
お経文に大安楽金剛不壊真実というお経文がございますが、こういう事をお大師さんがお残しになっとります。先生のお言葉とは違いますが、よう似た事をわかりよいように子供が聞いても、わかるようにおっしゃったのが泉先生です。それだから、どうぞ先生のお話がありました事は、そういう深い意味があるのでございますから、どうぞ、お互いに良い癖つけませんか、それが大事と思います。
(昭和四十年五月三十一日講話)
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第五九六条 「慈悲は光明である。慈悲心のもえたった所には闇は消えてあかるくなる。慈悲が消えたなら、真に今までの光明世界も、くらやみとなり、魔の世界と一変し智恵も精進もたちまちにして、魔の道具と早がわりするものである。大切なのは慈悲の力である。 慈悲には我をふくんでは慈悲でない。我が含まれたらすぐに魔が働く。この我を含んで居らぬ慈悲を大慈悲という。」


今日は慈悲心という話でございますが、この先生が慈悲心というのをお話しになった時分におっしゃるには、慈悲心というのは、いろいろあって、五尺のからだを大事にするというのがあり、これも慈悲心でございますが、それは、わがを大事にする、それは小我と先生はおっしゃった。ところが、その五尺のからだが、この世で生きておるという上に、水から、火から、草から、星から、月から、お日さんという風に大きなお陰を受けて居る。そうして暮らしておるのであるから、その大きな お陰の中で暮らしておると考えるのが、大きな我じゃと こういうことをおっしゃった。なるほど我というのが二つあるようでございます。
これを見ますと、信仰というのは、小さい我から、大きい我に移り替わってゆくように見えます。まあ、ご覧なさい。縁の下にはえとる草、周囲がまっ暗です。その草が生きておる目や耳を持っておって、はえて来るように、節穴が一つあいておる穴から首突き出して来る。これはあなた方ご覧になるでしょう。ところが天地は、縁の下にはえた草をかわいがって、日の当たる方は伸びないのです。日の当たらん、かげの方は、よく伸びるのです。これはあなた方ためしてご覧なさい。よくわかります。たとえば、ふきがはえて来よるのを紙か何かで伏せて置くと、ふきは、だんだん伸びて、軟らかいふきがずうっと伸びます。そういうように、日の当たらんところは、よく伸びます。これは、あなた方が苗木を養成しても、よくお分かりになるでしょう。日が当たらなければ、よく伸び過ぎます。徒長といいます。その徒長という天地から来る恵みが、その縁の下に、はえている草にあたる。そうすると、穴から光が当たる方は伸びない。光のかげの方はよく伸びる。すると自然、草は傾くでしょう。そうして、真正面から光がはいるようになれば、ずーっと伸びてゆく。穴から出るの当たり前です。ただ、縁の下に一本はえた、かずらでも、このように天地の恩を受けて、穴からはい出す。ちょうど見ていると、目があるような感じがいたします。こういうのが天地の恩、それを始終考えておる時分には、自分というのがひろがってゆくのです。
広い大きな我になる、先生は小さい五尺の体を我と思うているのは、間違いぞとおっしゃったのは、なるほど草木でもその通りで、それをこの五九六条に教えとるのでございまして、人間には慈悲心というのがございます。何ものでも、かわいがるという力がある。ところがそれが、わががかわいいだけになると、ちゃんと横に悪魔が待っていて悪魔がつける。悪魔がつけると大きな我の方へ行けんのです。五尺の体が喜ぶことばかり考える。つまり小我生活をする。そうすると、だれ言うともなしに、人にきらわれるようになってくる。まあ 人間でいうなれば、個人主義というのがあります。個人主義というのは、小さな我で暮らしておる人がやることです。というような非常に大事な問題を先生からお話しがありました。
これをみてご覧なさい。あなた方が稲を作っても、あの稲に花が咲きますが、日が照るというと、すぐにもみがらが開いて花が出てくる。雨が三粒でも降ると、閉じて花を隠してしまいます。これは天地に通う性根を持っているから、ちゃんと知っておる。それから、とうもろこしを植えるのです。とうもろこしは、ご承知のとおり根元に根があって、ひっぱりが沢山でているものです。あれが、その年にしけでもしそうな気候があるということは、人間は知りません。ところが、とうもろこしは知っていて、上の方からささえの根が下ります。風が吹いても、ゆれないように 上の方から根が下りてくる。「今年はとうもろこし、上の方から根が下りとるぞ、しけがあるぞ。」とこういう風におっしゃるのを聞いたことがありますが、草木はちゃんと天地の恩を知っとるのです。ですから、自分に性根は無いように見えるけれども、人間よりずうっとよく知っている。
新町に大火事があった事がありますが、あの南側の新町から通町の方へ、ねずみが沢山、川を渡ったのです。これ、どうしたんかな。ねずみが北へ北へ逃げている。その翌日火事が起こった。そういうように、下等なるのはご精神が 一すじですから、天地に通いやすいのです。その天地に通う性根は、どこから生まれたかというと、天地に恩をうけとるからです。
それからもう一つ、こんな事がございます。大きな木の下にもう一本木がはえてくる。そうすると、上の木が邪魔になる。ところが下に生えた木が大きな木を避けて、ゆがんで伸びてゆきます。それも知っとるわけです。こういう風に天地のおかげを知っている性根を大我の暮らしをしていると言います。又五尺のからだばかりを大事にするところの人からいうと、これは小我の暮らしをしている。先生はこういう大きな問題を、お話しした事がございます。
ある時、先生が 生駒山の坂をのぼって、夜お参りにおいでた事があるのです。そうすると、道ばたの人が先生を アィといって手をたたいて拝むのです。先生、びっくりして、だれが、どこぞ有り難い人が通っているのかと思うてみましたところが先生を拝んでいたのです。先生が「あなた、どこをお拝みなさっているのか。」と聞いたところが「あらッ、あんた人間で。」と言われて、先生がびっくりなさった事がありました。そんな事、先生がお話しになっていました。先生のように 五尺のからだを、わがと思うとらずして、大きな心で生駒山お参りにいかれよる方には、ご光がさす。昔から、ご光がさすということをよく言いますが、先生のようなお方は、何となくからだから、ご光がさしていたわけです。そんなこと先生がお話しされたことがございますが、どうぞ、我々も先生のお話しのごとく、 五尺のからだを大事にするという性根を、もう一つ広げて、世界中を思うようにしたいものじゃと先生がおっしゃった。今、私、先生とお別れして、かれ此五十年になりますが、その事を思いますと、実に先生のお考は大きなものでありました。
要は一口で申しますと、こういうことです。人さんとお話ししている場合でも、わがという性根がはいっとるかいなあ、はいっとらんかいなあ、もし、わがから割り出した話がありました場合には、それは人さんが受けません。何となくきらわれます。先生のようなお方になりますと、おっしゃっている事そのものが、天地に通っております。まことに有り難いものです。ある時、こういうお話が一ことありました。「村木さんよ。台所に掛けてあるくわんす(茶釜のこと)、あのくわんすの中へ砂糖水入れてなあ、そして、ふたを強くし密封して、沖へほうり込む。と何年経っても沖の水は潮水、くわんす の中の水は砂糖水で、それがゆききしません。ところが、そのくわんすの尻へ穴をあける。きりで穴をあけておくと、いつの間にか潮水がはいってきて、沖の水とくわんすの中の水とが同じになる。」
そういうことを先生が(沖にお出でた人ですから)お話しなしたことがございます。これは、よく人のことを考えていると、わが事が抜けるのです。わが事と人のことが入りまじりになる。そうすると太平洋へつけると、太平洋大の我になる。又たとえると、そんなものでしょう。先生は小さな漁師の家にお生まれになったのですが、人のことをよくお考えになる。すなわち、くわんすを沖へはうりこんだようなもので、人の事を、わが身のように考えなさる。自分の事が外へ出てゆく。すなわち自分のことが遊離して、人も自分も同じようになる。そうすると、ああいう立派な偉い人が生まれてくるんじゃと私は思います。先生は何げなしに、そういうお話しをなしたのを、私書いたのでございますが、なかなか慈悲心ということは、むずかしいことです。 お接待をなしたり、皆さんなさいますが、これはお遍路さんを喜ばす誠に結構なことです。ところが、お接待をあげるのに、後の世で、わしが幸福になれるように、こういう願いをこめてお接待するというと、わががこもっています。お遍路さんの苦労なさっているのを、お助けしようとしてあげるばかりであれば、わががこもっておりませんけれども、どうも、人と話しするのでも、わががこもっておるといかんと、こういうことを先生がおっしゃった。なるほどなあと私、感心して書いたのでございます。
どうぞ、なるべく自分から割り出した話は、あまりよくないふうでございます。先生は人の事思うてばかりおいでるのだから、ああいう立派なお力ができたんじゃと、こういうことになるわけで、ちょうど、くわんすに穴をあけて それを沖へほうり込んだようなので、通うとるのです。我々はどうもその力が少いと思います。人は人、自分は自分、自分が困らなかったらよいと、こんな考えが直ぐに出てくる。すると悪魔がつく。運が悪い。悪魔というのは、そのすきを待っているようでございます。どうぞ悪魔は神さまの反対側におる人ですから、その人と組みしないように、なるべく人様のことを考えて、そうして、ゆくのがよいように思って私が書いたのでございます。
(昭和四十年六月十五日講話)
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第五九七条 「人に敬愛せられ楽々と世を渡る人と、またその反対に、いう事なす事ことごとく人の反対を受けて、面白くなしに世を渡る人とある。たとえ、反対せられた時にでも、我を正しいとして、人を悪くいう様では、いつまでたっても喜べる時は神が与へて呉れぬ。このような時には、わが身のこの世だけではわからぬ。 前の世から罪が払へておらぬ事に気を付けよ。もし人に敬せら れた時には、神のお陰、祖先の功徳と思え。これは遠慮した考えではない。真実それに違いない。」


人にかわいがられて、楽々と世を渡る人がございます。反対に人にきらわれて、人に憎まれる人がございます。憎まれる、とこんどは、わしは真っ直ぐなのに、わしを憎むやいうことは、けしからんというふうに、考えることに、皆わがが含んでいるのです。これは最もよくないと私は思いますが、自然に悪魔がつけやすうなるのです。
話がかわりますけれども、この間、仲須さんとこへお出でた八十七才になるおばあさんが「私は若い時から、お医者さんにみてもろうたことがない、ごく達者な人間でございます。この間、こけて(倒れて)首のすじが違うたから今日みてもらいに来ました。」というお話しで、ところがみてもらうのに、着物を脱いで、じゅばん着換えて威儀を正して、みてもろうたということでございます。つまり自分の不体裁なことを、人に見てもらうのは、すまんというお考えです。わがというのがはいっとらんのです。仲須さんがご覧になっていると、「このおばあさん、あばら (肋骨)が違うと言い出して、山本さんが肋骨しらべたところが、一枚、一枚あばらにすじがないのです。ちょうど、おけの胴みたようなのです。びっくりしてしもうて、これが昔からいう桶がわ胴かいなといって、皆が寄っておばあさんを見せてもろうたそうでございます。そのおばあさんが言うことが、あか抜けがしているのです。「私は今年、もうやがて九十になるんじゃが、皆が大事にしてくれて、おばあさん、あぶない、あぶない皆が言うて、心配掛けるから、私は どこへゆくんでも一人でゆきますんよ。」とお話しなしたそうです。 そういう風に一人おいでるんでも、人にやっかい掛けるとすまんというように、わががはいっとらん考えから言うらしいのです。それで聞いてみるのに、お子さんが八人有るという。どれもこれも達者で、二十貫(七五kg)以上あって、皆さんにかわいがられておる。それはそうでしょう。そういうお母さんが育てると、立派な子ができます。
なかなか有名なおばあさんであって、皆、びっくりしたそうです。一枚あばらというのがあるそうです。われわれは皆、あばらが、ちょうちんの胴みたように、すじが入っています。ところが、そのおばあさんは骨が一枚だったそうです。珍らしいお方で、精神もまことに珍らしいお方であったそうです。 こういうふうに、天地自然に恵まれて、日に日に有り難い有り難いばかり言うている。我々は雨が降り続くと、よう降りくさるという。どうも、わがというのを大事にしすぎるのです。そのおばあさんはそうでない、もう何でも有りがたいと言うておる。まことにとくな生まれしょうです。
これは信仰を離れた人間の性質というのを、お話し申すのでございますが、こういうお方が、このあいだお出でたそうです。どこか、あまり遠方じゃない、板野かどこかの近い所の人じゃそうです。わたし、初めてお話し聞いて、一ぺん、こんどお出でた時に、写真をとらしてもらって、見せて下さいと言って私頼んだのですが、たまには、こんな人が出来るのです。まことに、しあわせな人です。皆にかわいがられて達者で仕事するのが、面白い。人に迷惑を掛けまい、掛けまいと、実に考え方に、わがというのが、入っておらんのに感心しました。私が先生のお話しを、あなた方に、お伝えするのも、なるべくお話しの中に、わがというのがこもっておらんお話しをしましたら、きれいと思います。そうして、これは私が書いたのでございますが、もし人にきらわれるような性根をもっていたら、人が憎みます。憎むというと、尚根性が悪くなって、私真っすぐなのに、あんなに言う、はやすぐに魔がつけます。そういうことを五九七条に書いたのでございます。
(昭和四十年六月十五日講話)
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第五九八条 「物がくされば酢が出来る。また出来た酢は物の腐るのを止める薬となる。すべてこの様に何事にでも善悪などの本性はないものである。人の心もその通りで、心清浄なればそれでよい。」


物がくされば酢になります。何が腐っても酢になります。ところが不思議なことには、その酢になったものが、又腐るのを防ぐ薬になるのです。ちょうど人間の一生には、神様が守って下さっている。魔が惑わすというように、ものが腐ると酢になってしまうが、酢がもののくさるのを防ぐというように、神さまと悪魔とは、ちょうど両端です。
神様のことを思わぬと、悪魔がすぐにつける。悪魔がつけると、その人の一生はおしまいです。その人の一生は、 喜べん。それと夏向きになると、いらという虫がわきます。とげを沢山はやした小さい昆虫ですが、刺されると痛い。ところが、そのいらをつぶして、その汁をつけると痛いのがなおる。いらは、あれだけ毒を持っているのに、そのからだには毒を防ぐものが一ぱい入っている。それから、よくあるでしょう。まむしにかまれると大変なことになるでしょう。あのまむしの体の中の液を、かまれたところへつけると、その毒が消える。 こういう風に、一方では悪魔が働いているけれども、その悪魔の裏手が神様です。神様の裏手は悪魔です。こうなっておりますから、どうぞ、わが身ということを考えることが少なければ、神さまに近寄れるのです。わが身というのを、考えるほど、悪魔がつけやすいのです。こういうことになるわけで、先生がそういうことをお話しなしたことがございます。これはあなた方、よくおわかりであろうと思います。むかでの薬というのがございますが、むかでにかまれると痛い毒が入ります。そのむかでを油につけておいて、その汁つけると、むかでに噛まれたのがなおる。 という風に人を益するということと、人を害するということが、裏表になっております。
どうぞ、あなた方が日に日にお暮らしになさる上によく考えて下さい。決して神さまの裏に悪魔がおらんと思うたらあて違いです。神さまの裏には、すぐに悪魔がおります。悪魔の性根の裏手には神さまがおります。こういう風になっているようでございます。ところが私が申す、このお話しはわかりにくいようでございますが、これ皆わが心から出ていることでございますから、どうぞ自分の考えること、言っていること、この自分の心から出ていることに、 毒があり、薬がありと、ご承知願えばどうであろうかと私は思うのでございます。心から憎まれ、心から好かれ、心から悪魔がさすとこういう具合になっているようでございます。心の使い方が、まことに大事なものじゃと私は思うのでございます。先生がそれにお考えをつけて、私にお話して下さいましたのを私が書いたのでございます。
まことに心というのは、大事なものでございます。まあ、我々は心を粗雑に使いすぎていますけれども、心の裏手には、そういう毒と薬とが二つ並んでいるということをお考え願いたいと思います。
(昭和四十年六月十五日講話)
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第五九九条 「世の中のすべてのありさまは、みなわが心の所現とみてよい。それであるから、心がいつも神仏の境界に居れば、何で身が凡夫の体でじっとおろうぞ、たちまち不思議があらわれて、金剛薩埵の身を現する。」


世の中から自分に向けてくることは、こちらがした反射である。こう考えたらよい。ところが、たいがいがそう考えないで、わしはこう真っすぐにいっとるんじゃが、相手はこうしてきたんじゃと、他人を悪くみるのがくせです。
もし人から悪いことしむけられた時は、何か自分に仕向けられるような、原因が自分の方にあるわけです。人の方ばかり見るのをやめて、たとえいかなることを仕向けられても、ああ、これは自分の方に必ず悪いことをせられる因縁をまいているのである。この世でまかねば、先の世でまいとるんである。それでこういうことをせられる。まっすぐこれから信仰を深めて、修養をいたしましょうというのが本当です。日常の生活において、自分に対しての他人の反応が悪いときには、自分のしようがわるいんだと、自分の方をせんさくせよと、泉先生は教え下さいました。
世の中は大勢の人のよりあつまりの生活の場です。自分のしたことを、満足に思うことは少ないのがあたりまえです。しかし他人が自分に悪く、つらくあたるようなことがあっても、これは、わが心の所現と考えて、腹をたてず、 修養すべきであります。しかし、そうはいっても、なかなか実行のできないのが常です。それを実行しようとするには、信仰の力によるべきだと思います。信仰というのは、神仏の教えを身に体し、それを人間界で実行することです。
神仏の心をわが心として、つとめれば、身はたとえ凡夫のからだであっても、神仏と同資格となる。そうすれば、いつまでも凡夫の生活をくりかえすことはない。たちまち、不思議があらわれて、仏の世界に住することができるのでございます。
(昭和四十年六月十五日講話)
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第六〇〇条 「神仏のみ徳は、ちょうど日の光のようなもので、光線は目で見て見えず、空なものであるが、空虚ではない。この光を分解すれば、七色になる七色かと思えば、そうでない。八万四千無数の色にわかれる。またこれを合わせれば、元の無色になる。そして、この光に照らされて、すべてのものは、それぞれの世界で生育する。この光でも七色のうち、どれか一色でも欠けていれば無色にとはならぬ。神仏もこの色のそろうているように、 功徳を円満に具足せられている。人にしても、これと同じように、み教えの通り、功徳が円満に具足すれば、たちまちにして人の境界をそのままに神仏の境界に入り、人我をはなれ、天地融通無礙不可思議の世界を実現する事うたがいなし。この人こそ、生き神生き仏というのである。
南無帰命頂礼
諸 行 無 常  いろはにほへとちりぬるを
是 生 滅 法  わかよたれそつねならむ
生 滅 々 己  うゐのおくやまけふこえて
寂 滅 為 楽  あさきゆめみしゑひもせす」


これが、いちばんおしまいになります。このお話は「村木さんよ、人間の目にうつる色には、青じゃの、赤じゃの黄じゃの、白じゃのと、いろいろあるなあ。」「ございますなあ。」ところが皆一しょにしてしまうと、太陽の光のように無色になる。偉い人は、おつきあいする上に、偉いのか、偉うないのかわからん。無色のように見えるものじゃ。これはまことに結構なことで、いやらしいことをする人は青鬼という。青のいろ。赤鬼というのがあります。
仏さんの色は小判色で黄色、この三つの色を一緒にしてまぜますと、色が無いようになる。無色になります。
こういう風に世の中には、お日さまの光の中には、七色あるというが、これは分けているのであって、その中には赤もあれば青もある。仏さんの光もあり、何でもあるのです。それで、人はこれは青いとか、赤いとか言うが、それは一部分言っているのであって、ほんとうは七色はお日さんの中にこもっている。その事を先生がおっしゃったので、いかにも色というのは、光の反射であって、青の色は青の色だけを反射している。青の反対は隠れていると、こういうふうになっているようであります。
どうぞ、あなた方の、ご信仰なさる上に、まことに信仰ということは結構でございますけれども、わがが含まないようにせんというと、裏手が毒になりますから、先生は六○○条の一番終りに、そういうお話しをなさって下さいましたが、まことに、お陰というのは有りがたいけれども、お陰を受ける中に、わがというのがはいっておると、悪魔がつけて、惑わされますから、どうぞ、その点をご注意していただきたいと思うのです。
これで私は長々とへたなお話しをして、先生のお話しを六〇〇もいたしましたが、これでしまいますと、書き落ちになっている、落としている分がまだ多くございますので、それを又、皆さんに聞いていただこうと、そんなに思います。それから、又、教典の中にあるそのお話しも、申したり、六○○ヶ条をはなれてお話ししたいとこう思うことが沢山あるのでございます。お話しは又、日を変えてお話ししたいと思いますが、実に先生はまことに、色であれば無色透明なお方でございます。おつきあいはしよいし、何やらもう慕わしい気のするお方でありましたが、そういうお話しを私にして下さいました。どうぞ、わがというのは、悪魔がつけやすいものでございますから、なるべく、わがということをのけた、天地に通うたお話しをするということが、まことに結構なことじゃと思います。
天地に通うということは、どんなに通うんなといいますことをお話しすると、めんどうなことになりますけれども この親の恩ということは、これは最も大切で、ご先祖をお参りすることは、結構なことでございますが、天地の恩ということを考えてご覧になると、今日農家の人のなさっているお仕事でも、もし天地の恩を受けんのであれば、出来ません。そういうような大きな恩を我々は受けとるのでありますから、我々は出来るだけ、そのご恩に報いるようになるべく、わがと言う性根が使わんようにせよと、先生がお教え下さった事だと私は思います。
どうぞ、その意味で先生は、まことに人におつきあいする上にでも、ご自分のことというのが、ひとつもはいっておらん、実にきれいなお心もちの人でありました。ですから人の悪口を言うたり、理屈もおっしゃることもなく、怒りなさるや言うこともございません。私は四年間、先生にひっ付いて、お世話になったのでございますが、四年間に先生がおおこりになったのを見たことがございません。実に不思議な生き仏というようなお方でありました。
今日はこれで六〇〇巻を終りましたのでございますが、その後は先生の書き残しておるところをお話し申し上げ、 又教典の意味をお話し申し上げて、共に勉強したいと思います。
(昭和四十年六月十五日講話)
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