581~590条

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第五八一条 「もし人の尊敬を受ける事があったなら、これは功徳の光であって、全くわが身に受けるべきものではない。ちょうどたとえて 見ればぼろの着物を着て通ろうとして、通してくれなかった所を美しい立派な衣を着て行ったら、通してくれたようなもので わが身の力と考えぬのがよろしい。」


こういう風に、いつも功徳と言う事が、人の光になるという事を先生がお考えになっとる。「まあ村木さん、何じゃなあ、ここに面白い事が有るぞ、村木さんよ。功徳というのを字に書いたらなあ、人の喜ぶ徳というのが本当の功徳、ところが又、苦毒って、苦い毒をまく人が有る。その功徳のお陰で悪言われて、それで村木さん、わしは、ほめられる事ないけれども、ほめていただいたら、ああ、わしの功徳が 人様に通ったと言うて、わしは喜ぶんじゃ。人のきらいな事するのも、これも苦毒、苦労の毒ですから、同じ功徳でも二ツ種類が有るなあ」と言うて、先生がお笑いなさった事がございます。これを五八一条に書いたのでございますが、なるほど話が上手でなくても、格好が悪うても ボロ着とっても、その人に功徳が積めとったら、何となしに重みが有る。なあ、これ村木さん大事ぞ。とおっしゃった事を、私が先生に承ったので、いかにもそうじゃと思いました。もし、ほめてくれても、功徳ほめてくれるんでなかったら、子供に譲れん。財産は子供に譲れるけれども、功徳は子供に譲れん。積んで、その積んだのを、神さん仏さんが、子供に分けよるんじゃから、精一杯積まないかん。こういう事を私考えましたので、これを書いたのでございます。あんた方も、どうぞ親先生がおっしゃったように、功徳を積むという事を考えておいでると、必ず家の運が良いのです。功徳にも種類がようけございます。人が喜ぶ事が功徳でございます。
まあ、通る道に穴があいていても、ああこれ馬が足踏み込んだら、馬の足が折れる。目の不自由な人が踏み込んだら又、けがをするというので、何か持って行って、それを埋めて、ご自分は知っとるけれども、他の人が知らんとはいるのを防ぐ。これも功徳です。礼を言おうが、言うまいが、そんな事はどうでもよい。人に苦労をかけない。そういう人が有ります。これ功徳です。誠に先生のおっしゃる事は、こう考えてみますと、先生ほど功徳を積んだお方は少ないです。ほめたら、わしが功徳を積ましてくれたお陰じゃ。わしはつまらんのじゃ。わしは寝言を言いよるんじゃ。だから、皆がほめてくれたら、これは功徳のお陰じゃとおっしゃった。どうぞ、まあ神さん拝む人も、拝まん人も、ございません。目があいたら、今度寝るまでの間、功徳を積むという事だけを考えとれよ。と先生がおっしゃった。いかにもと、私は感心しとります。
そら功徳を積むという事は、人間同志ばかりではありません。私が屋敷の蔵を造作したのに、へびが沢山出ましたが、私は、ことごとくタゴの中へ入れて、日なたでぬくめて、こごえんように、そして新しい石がけが出来た時に放したのです。まあ私はかわいそうにと思うて、したんでございますけれども、先生は、それをちゃんと知っておいでる。「村木さん、大勢をたすけたなあ。この功徳は必ず目に見えるぞ。」と言われました。「明後日が来たら、お前様とこの子供しが、はしかをする。熱が出るぞ。その時分にお前さんの功徳をもろうた、慈悲をもろうた人が、大勢出て行って助けるぞ。」とおっしゃったのです。 私は、先生のお話しはよくわかりましたが、子供が、熱が出るやいう事、先に言うと、家内が心配すると思うて、黙っておりました。そして一日、二日たった時に、にわかに熱が出たのです。四十度に余る位の、まあお医者さん呼んで、見てもろうた所が「さあ、はしかになるか、何になるか、今熱が出だちだから、しっかりわからん。まあ、この薬上げとくけん、又明日見ますわ。」と言うて、お帰ったのです。その子供は六ツになるのです。「ああ、おとうさん、あれ見な、ようけ出て来た。」「何が出て来たん。」「へびじゃ、ぐっちんが出て来た。あしこも、ここにも、あっふとんの中へもはいって来た。」そんなに言うて、目を丸うにしていますから、「こわいか。」って言うたのです。 「こわくない、皆、お熱食わえていんでくれよる。」「そうかい。」私には見えんのです。へびの姿、見えません。 子供がそう言うのです。熱にうかされて、こわくなかったらよろしいと慰めておいたのですが、あくる日になりましたら、熱がスーツと下がってしまって、常の通りでございます。先生のおっしゃった言葉に、三日目がきたら熱が出るぞとおっしゃった。なるほどなあ。その時に積んだ功徳が光るぞ。とおっしゃったが、私は功徳を積んだんではございませんけれども、かわいそうなと思うて、たすけた。そうしたら、その人がたくさん出て来て、子供の熱を食わえて帰った。功徳の光というのは、まことにありがたいものだと私は感じました。今から、四十何年前の話でございますけれども、実に功徳の力というものは、人間の想像の出来ん恐ろしい力の有るものです。
こら病気の直った事でございますが、家の運もそうでございます。家の内が朗らかに、家族が笑うて日を暮らすという事も、これも功徳のお陰です。これも必ず、おとうさんか、おかあさんか、じいさんか、ばあさんか、四代の内に必ず功徳を積んだ人が有るに違いないのです。それを調べたらわかります。先生は、これをちゃんと知っておいでるのです。誠にまあ、私が話しすると、功徳という話でごさいますけれども先生は、それを日に日になさるんじゃから、大したものです。ちょっと見たらわかりませんけれども、先生のお心の内には、ああ人間が無事にいて、極楽世界をこしらえるのは功徳の力じゃなあ、村木さんよ。とおっしゃった言葉が、今に耳に響くように思います。
(昭和四十年四月三十日講話)
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第五八二条 「信仰するのに、いろいろの行や戒はあるが、まず第一に、信ずる心が無ければ何もならぬ。」


これは先生がおっしゃった。「村木さん、信心という事は誠に良い事では有るけれども、信ずるという事がもし間違うていたら、魔が付けるぜ。」とおっしゃった。これをよく覚えていただきたいと思います。信心の無い人には不思議は起こりませんけれども、その信、信ずるという事が間違ったら魔が付けます。まあ、これをお話しするとついご不礼するかわかりませんから詳しい事は申しませんが、信ずるという事には神仏が、たすけてくれますけれども、魔が付ける場合がありますから、どうぞ先生のような誠の信心を、ご信仰下さる事をお勧めいたします。
(昭和四十年四月三十日講話)
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第五八三条 「もし心に慾心が起こった時には、今すぐそこまでとらが追いかけて来ていると思うこともよい。悪念消散するであろう。ちょうど死刑囚が美食ものどに通らぬのと同じこと。」


「心に欲が起こったら、じっと考えてみないかんな。とらが追って来よると思うたら、どうぞい。」「そら、先生こわい。」「ところが欲心が起きて、こわいと感じる人が有るか。」って先生がおっしゃったのです。
ところが、こういう絵が有りました。がけの端に一本松がはえとるのです。とらが追って来よるからって、その松へのぼり、そして下を見ると、下には又、大きなへびが口張って待っとる。とらとへびのはさみうち。「村木さん、これ困るなあ。そんな時、どなにするぞい。」とおっしゃったのです。こらむつかしい質問です。「先生それ仕方がない。」「そら有るんじゃ、そら有るんじゃ。へびでも、わが子を大事にする。虎でも、わが子を大事にする。その時分に、一心に神仏に頼んだらどうぞい。」なるほどなあと、私は思いました。とらに追われて木にのぼって、下を見るとへびがおる。と「こういう事、常に考えなはれよ。」と先生がおっしゃった。
あの弘法大師さんが、高野でまつられておいでますが、あのご祈とうする時分に、管長さんが出て来てお唱えする。そのお唱えをよう聞きますと、こういう事おっしゃりよる。無魔成就をお願い申します。というて、お大師様に念じよる。魔がおらんように、事が成就するようにお願い申します。こういう言葉が管長さんの言葉から出るのでございます。そら、この度の一千百五十年には、五十日の間、毎日おいじゅっさん(僧のこと)行なさって、そのお唱えの文句の中に無魔成就という事が、入っとらん事はないのでございます。
ところが人間には、魔が付けようと、こぞっとるものでございますから、慾心が起こったら、とらが追って来よると思え。そうして、念じたら消える。どうぞ、念力という事を間違わんように、いつも神仏に念じるという事を、忘れられんでよ。と先生がおっしゃった。お大師さんのような偉い人でさえ、先生のような偉い人でさえ無魔成就という事をおっしゃる。魔というのは、どこから出て来るんならと言うと、わが心じゃと先生が、おっしゃった。魔はわが心の中におる。その魔をけり飛ばしたらいかん。念して、出て来んように、魔を伏せ込んで、一生をわたりたいという事が大事じゃなあ。村木さんよ、とおっしゃった。
なるほど、随分よう考えとる。偉い人でも魔が付けるという事がございますから、その魔がおらんようにするのには、どうしても功徳を積んで、念力を始終持っとらないかんと先生がおっしゃったが、なるほど先生は、お師匠さんなしで、あれ位成就なさった人ですから、先生のお言葉の中には、実に不思議な有り難いお話がこもっとるのです。 それで後々先生を念ずる我々は、どうぞ、先生のおっしゃった事を中心に置いて、行きたいものじゃと思います。
(昭和四十年四月三十日講話)
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第五八四条 「願をかけるという事は信仰上大切な事である。しかし一旦願をかけた以上望みばかり考えていてはならぬ。その運びをつける事が肝要である。それなれば願はかけなければ、福をえられぬかというと、そうではなく願が無ければ、常に行うことに念力がたらぬようになるから願をかける方がよい。この願も、人のためにするなら尚更よくかなう。」


これはどう言うことかといいますと、こういう歌がございます。「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても、神や守らん。」という山中鹿之助がつくった歌がありますが、これは考え方によりますと、とんでもない事になります。
泉先生がおっしゃるのは、願をかけよと言う事よくおっしゃったのですが、神様にお願いする願という事は、そんなに簡単なものでないのでございまして、言い換えると望みという事です。自分の望み、それをかなえていただきたいとこういう事が願でございます。泉先生は、望みが無かったら、神様も助け様がないでないかと、お笑いなさったことがございます。ですから、将来に対する願い、これは心に持つ事は必要じゃとおっしゃったのです。願をかけたとすれば、ちょうど、これは自分の望みを神さんにお願いしたのじゃから、望みがかなうように自分がせねばいかんと、こう又おっしゃっております。 ちょうどこれを今日の日雇さんにたとえて見ますと、金が欲しいという事は親方にわかっとります。ところが、仕事せんと、賃をくれと言うことは、無理でありませんか。ですから泉先生のおっしゃる願をかけなさい。願をかけんと望みがわからん、この望みをかなえていただくには、どうしたらよいかと言う事が信仰なのです。ここ勘違いいたしますと、祈らずとも神や守らんと、ほっておいてもかまわんということになりますから、間違うのです。
山中鹿之助の言う事は間違っておりません。心だに誠の道にかないなば、と言うのが先にあるのです。祈らずとも神や守らん。その心だに誠の道に、誠の道という事は、神さんの教えに従うと言う事です。それが出来とったならば遍照金剛言うて頼まんでも、祈らずとも神は守ってくれとる。しかし誠の道ということの中に、自分の望みと言うのがはいっとりますから、この歌を勘違いせんように。
今、鳥取県の鳥取市へ入りますと、停車場降りると、大きな額が(額って広告板みたような、大きなたたみ何枚敷もの)かかっています。それに山中鹿之助の、あの人が詠んだ歌を書いてあります。歌はそれでよく出来とりますが、心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神や守らんですから、誠の道という事が、信仰の道を自分がしておるならば、遍照金剛頼まなくても、守ってくれとると言う事ですから、誠に結構な歌ですけれども、ひょっと勘違いすると神さんに頼まなくともかまわんのじゃ、それでいけるんじゃと勘違いしますから、先生が間違うなよと言う事を、お話し下さったのです。
ですから、この五百八十四条に書いてある事は、願はかけなさい。神さんに望みは言いなさい、しかし教えの道は自分がせないといかんと言う事なのですから、よう似とるけれども、祈らずとても神や守らんじゃから、ほっておいたらよいのじゃではいけません。私が聞いたのですが ある人が こういう事言うた。仏さんには、おいじゅっさん (僧のこと)がついとる。神さんには神主さんがついとる。その人が祭ったら自分は関係せえでいいでないかと、こういう風に間違うと、その人は神仏の縁が切れたのですから、運が悪いのは、あたりまえです。それを先生が注意して下さって、願はかけないかん。お頼みはせないかん。それに対する代償は、自分がせないかんのじゃ。ちょうど、水を流すのに自分の方へ流してもらいたいのなら、みぞを掘って、自分の所へ流れるように低くしておけば、ひとりきます。ひとりくるという事を、山中鹿之助が詠みなさったのですから、それには水源地より自分の方が低うなかったらいかんという事は、自分がせないかん事ですから、お間違いの無いように五八四条に書いたのでございます。
(昭和四十年五月十五日講話)
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第五八五条 「人を喜ばせる事は大変よい事であるが、神仏のご恩を悟らして喜ばせるほど大きな功徳はない。」


「人を喜ばせる事は大変大事な事であるが、まず自分は何をせないかんか。人を喜ばすより前に、自分は何をせないかんかというと、神仏のご恩を自分が知って、そのご恩を人に伝えると言う事が、これが功徳でございますから、人を喜ばせるためには、自分が神仏のご恩を知って、その天地のご恩を知らせる位、大きなおくりものはない。」と先生はおっしゃった。物をあげる、金をあげるという事も良い事じゃが、それは小さい。天地のご恩を人に知らせるという事は、これが一番人を喜ばせる大きいもんじゃとおっしゃいました。なるほど、先生のお考え方は立派なものです。人を喜ばせる方法は、どういう風にするかと言うと、天地のご恩を、それを知らせるという事が一番大切じゃとおっしゃった。なるほどこれほど大きな事はありません。
(昭和四十年五月十五日講話)
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第五八六条 「まけぎらいの心は、自分が人より優位におりたいという考えから生まれる。このような考えを持つ人は、必ず人からきらわれる。そして運がわるくなる。そうすると優位に居ろうとするには、自分に力が足らぬから人の方を弱らすより、外に方法がない。そこで人のよくなることをかなしみ、人の悪くなる事を喜ぶという鬼心に変わって来る。魔のつけるのは皆自分が神仏のすかぬ心がけを持つからである。」


これは我々大いに注意せなならん事でございます。世の中に負けぎらいというのがあります。勝気な人にある負けぎらい。これはどういう風なものかと言う事を、先生がお説きになったのです。人に負けたくない、負けぎらいという。人に勝ちたいのを勝気というので、その結果どうかと言うと、人に負けまいとするのじゃから、自分が人より高いところへあがりたい。そうすると、力がある人であったなら自分が低い方へあがるのです。力の無い人は、人に負けまいとして、自分が高い所へあがりますから、人を低うにしたいのです。神さんは人を高い所へあげてやりたい。
勝気な負けぎらいの人になると、人を低い所へやりたい。どうですか、こんな違いが起こって来るのです。負けずぎらいな人は、自分が人に負けたらいかんから、人をまずさげることになる。神さんは人を出来るだけ高い所へあげたいと言う。それは反対になって、人を出来るだけ低うせなければ、自分が高いところへ上がれん。こういう結果になりますから、信心の上で負けぎらいという根性は、どうぞ使わんようにしてくれと先生がおっしゃったのです。その訳は、人を低うにせなければかなわんから、低うに見る。わがでに高い所へよう上がらんから人を低い方へやる。こういう事です。ちょうど、たとえてみますと、あの学校の徒競走でございます。鉄砲が鳴ると走る、だれでも、よく走りたい。ところが、自分が、足が遅かったら、前へいってる人の着物引っ張って、その人をおくらすより手が無いんです。どうだろう、こういう事になるんじゃから、気をつけて自分を早くするのならば、自分がつとめて自分の体を強くしたら良い。競走じゃから、人に勝ちたいという根性を持っとる。だれでも勝ちたいに違いないけれども、そういう徒競走で、自分が勝とうとするならば、人を引っ張って、あとへやるより手が無い。そういう事は、誠に人をかわいがれと言う教えであるのにかかわらず、人を後へ引っ張って、自分がそれより手が無いようになるのを考えて見ると、大分注意せなければ、いけんぞと先生がおっしゃった。
いかにも考えて見ますと、その通りでございまして、そこに魔がつけるのです。人より勝ちたい、負けるのはいやじゃ。それはよろしい。それまでは良いのです。ところが自分が負けんようにする力をこしらえる。そうして、人を痛めないとこういう風にしませんと、人を痛めてでも、自分が上へあがりたいと言うと、魔になります。悪魔になります。この魔というのは、自分の心から出て来るのでございますから、どうぞ負けぎらい根性せんように。
そうすると戦争でも、打ち合いやります。これ負けぎらいです。その戦争が、果たして天地に合うた戦争ならよろしいけれども、いたずらに人に負けまい、勝ちたいという戦争ばかりならば、これは悪魔の戦でございます。どうぞ争いという事は止めてくれ、人引っ張らんと、自分が先に立っていかないかんぞと先生はおっしゃった。 いかにも、私これを考えると、おかしくなるほど先生は面白うにたとえた。我々にも、わかりよいように教えて下さいましたから、どうぞ、負けぎらい根性という事だけを出したくないもんじゃと思います。わがに力が無いのに、 人引っ張るより手がないのですから、そういう悪魔の所作はすなよと、先生おっしゃったのです。悪魔とおっしゃいました。わがはえらいように思うていても、悪魔でございますから、よろしくない。いかにも先生のたとえたお話しが、しみじみとよくわかります。
負けぎらいがなぜ悪いかと言う事は、ここでわかる。勝気なと言う事もそうです。勝気という事もいりますけれども、それがへたに考えると、人を弱らして、わがが勝ちたいと、こうなるのです。神さんの反対になります。悪魔になります。こういう風に先生は、わかるようにお教え下さっとるのですから、どうぞ負けぎらい根性は出さん方が、誠の信心じゃと私思います。これを五八六条に書いてあります。
(昭和四十年五月十五日講話)
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第五八七条 「人間はえらい人で信仰心がなかったら、ちょうどよくきれる刀を無法者に持たせたようなもので、人を害し身をそこねるもととなる。」


五八七条は、人間と言う事と、人間性根と言うことと、信仰の上の性根と言う事とを比べた問題です。この五八七条は、人間えらい、いう人がありまして、必ず神様の方から見てええかというと、そうはいきません。人の中で、知恵を使うて、じょうずに話しをして、そうして暮らしておりますが、その人の言葉や、行いが信仰と反対であった場合には、たとえてみますと、自分は刀を使う術を知らんのに、よう切れる刀を持たしたようなもので、人を害する事になります。えらい人は刀抜かなかった。抜かずして勝ったという、えらい人もございます。人を痛めてから自分が優位に立とうという事は、誠に悪い事ぞ、と五八六条に言うてありますが、五八七条はそれを受けて、人間えらいのは、いかんぞと先生がおっしゃったのは、誠に行き届いたお話です。
人間えらいと言う事は、信仰が無いと言う事です。それで先生は、人間えらいのもいる。それから神様の教えを守るという心もいる。この二つのわらを同じにない合わしたのが、おしめじゃ。神様の前へおしめ張ってない神様はない。どこでも張ってあるが、あれを人間えらいと片方だけ太うにして、そして片方なかったら、縄になりません。そんなおしめない。人間の方におつきあいするのに、又いやな事言うてならんから、人間という性根と信仰という性根と、つい反対する場合がございますから、先生がこれを戒めたのです。人間の方も交際を考えなならんが、交際を太うにして、信仰が無かったら、片もじのなわになる。おしめにならん。そんなことは神さん、すかん。こういう事を先生がおっしゃった。ですから、人間の方も、だれから見ても、無理のない心を持っておるが、しかしそれは、やはり信仰心から割り出したのでないといかん。人間えらいのはいきません。先生は人間えらいと言う事は、無法者に刀持たしたようなもんじゃとおっしゃった。
なるほど、ひょっとしてほんま(真実)かいなと思います。なに向こうは、自分を利する為に上手な言葉を使うとんじゃから、こらあぶない。これを見分ける力は、どこから出来てくるのかと、これはついて行ったら、あぶない。
こりゃいかんという事を見分ける力は、必ず神仏の教えを守ると言う人でなかったら向こうが見えない。盲です。
だから、まず神仏の教えに従うて、日常暮らして居ったら、この人、人間えらいばかりか、信仰心から言いよるかそれがわかるぞと先生はおっしゃった。
まず、大事なのは神仏の教えを守るという事が一番大事なのです。これが無かったら、人間えらいでは食えません。
キリスト教で、これも相当信者が多い宗教でございますが、キリストがおっしゃった「人は、パンのみで生きられる動物でない。」こういう事はバイブルの中に書いてあります。日本でも、弘法大師もおっしゃっています。泉先生も おっしゃっとります。お釈迦さまもおっしゃっとります。食い物だけではいけんぞと。もうひとつ言い換えたら、自分は暮らす上に食う物ばかり集めるだけではいかんぞと言う事はなんぞといいますと、自分の腹の中に神仏の教えがはいっとらんというと、それはつまらんものになります。ですから、人間の方は、人間えらいで集めていますけれども、これにはごじゃ(間違い)があります。
まあ世の中をずうっと見ならしてごらんなさい。徳島県には沢山の人口数十万の人口がございますが、私が戸籍調べた時分に、千年続いとる家が無いのです。それは、子や孫に別れて、方方へ行っておりますけれども、一軒の家系図がとおっとるうちがありません。ところが、たった三軒あったのです。そしてその家を調べて見ますと皆、神さん仏さんに関係がある家柄です。そういう事を考えてみますと、まず一番家で子供や教育する上にも、自分が職業従事して働く上にも、一番大事な物は何かと言うと、まず祖先大事、先祖大事、神仏大事という事です。そうすれば家が続きます。大きくなる、小さくなるは別ものです。家が続きます。そういう事を考えると、いかにも、ほんに先生のお言葉はやさしいお言葉であるけれども、これは考えなならん。神仏の言う教えを一番先にやれ、それから職業の方の事考えていけ、こういう事おっしゃったのです。それを五八七条に書いたのであります。
(昭和四十年五月十五日講話)
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第五八八条 「人間の心を水にたとえたら、聖人の心、水と凡夫の心、水とは質において同じものであるが、凡夫の胸の中には、迷いの風が吹きあれているから、これに従うて心水は静止する事がかなわず、あだ浪がたつ、そこで、ものの実相を写すことが出来ぬようになる。この魔の風がなぎさへすれば、そのままに写るはずである。そこで慈悲心をもって、人を助ける事が出来るようになる。凡夫がたちまち聖人でないか。この因縁を知って心の風をながす方法を真の信仰といえる。」


これはたとえ事でございまして、人間の心を水にたとえてある。もと人間でございますが、えらいお仕事なさったから、神に祭ってある。人間の心を水にたとえたら、この水というものは、なかなか鏡のようにならん。映った物が動きます。これは神さんの心のうちもその通りであって、もとえらいお方の元は人間ですから、あの泉先生のお堂の中に書いてある額に、伏し拝む、いがきの中は水なれや、心の月の澄めば映るに、と言う歌がございますが、自分の心が水じゃ。若しそれに波が打ったら、お陰が来てもビクビクします。動きます。又、日に日にの暮らしも、波が打っていると迷います。もしそれが、きれいに風が吹いておらず、静かに鏡のような水であったならば、すっかり神仏のお陰というものは、よめるようになる。まず自分の心を水にたとえて、動かんようにしとらなければいけないと、こういう事でございますが、なかなかそれはむづかしい事でございます。すぐ動くのです。水ですから、心水と先生おっしゃいましたが、心の水です。風が吹けば波が打つ。石ほり込めば波が立つ。こういう風になりますけれども、 どうぞ、神仏を念じておるならば、水は鏡のようになりやすいのです。 そこで先生はおっしゃいました。どうぞ水をたらいに入れて持っているようなものだから、うごかすなよと。いつも動かさんようにするのは、どうしたらよいか。それは神仏にすがれ、そうするときれいに澄み切って来る。もし神仏にすがらんと人間の方の知恵に動いて行くならば、つまらん事におちいる。こういう事をおっしゃいましたが、なるほど自分の心が澄みきっていたならば、外の事が映ってくるのです。これをお経文には、実相を見ると書いてあります。ありのままに、わかると言う事です。どうぞ自分の迷いを去って、もう神さん仏さんの教えを、一生懸命自分が踏み行うという事です。神さんの名にほれたらいきませんよ。神さんの名はいきません。その神さんに成っとるお方の、生きておいでた時の、その行い、それが人を喜ばせる、世の中を極楽にする。こういう立派な人を神さんに祭ってあるんですから、その通り自分がその教えに従って行くならば、ひとりでに運がきます。幸運が来ます。高い所に水があるのに、低い方へ落とすのは、みぞを自分の方を低うして、溝を掘ると、ひとり来ます。と同様に自分の心さえ教えに従うとるならば、ほんとに思いがかなう。それを運と人が言うとりますが、運はひとり来ない。自分がやはり教えに従うた心におるならば来る。もし心がうつろであったならば、せっかく望んでも、から望みであって、夢みたようなものです。まずせないきません。そういう事を五八八条に書いてあるのですが大事な事でございます。
(昭和四十年五月十五日講話)
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第五八九条 「理屈のかたい人は信仰の悟りは出来にくいものである。たとえば、食物の味をよくするのに、塩を使うと美味になる。そこで理屈をいう人は、この美味になった元を塩にあるか、ものにあるか、どちらかに付けたがる。いずれも迷いである。昔から偉い人が教えてある。『鐘がなるのか、しゅもくがなるか、鐘としゅもくのあいがなる。』」


理屈を言うなという事です。堅い理屈を言う人がございますが、理屈を言うという事は、これは人間くさいです。理屈というのは人間です。人間の性根です。ただ、一心に神様に従うと言うならば、理屈は無いはずです。これだけお参りに 行きょるのに、うちは運が悪い。それは、おいでる事は、お出でたのだろうけれども、さあ、それは神様の意にかなっとるのがおかしい。先生がそれをお話しなさった。
こういう事をおっしゃった。「ある所に八幡さんの前の家に住んどってな、そこのおじいさんが、まことに信心なんで、ほうきかついで、朝々、ご殿の前の庭掃除に行く、お手洗の水かえる。これはよい事です。良い事じゃが、その家を出しなに「ばあよ、早う、起きいよ、おら今から掃除に行きよるけん、いつでもとろくさい、わしがもんても、まだうとっとる。そんな事でどないすら。」こういうように必ず、おこっといて、そして掃除して帰って来る。その人を先生が拝んだのです。先生がどんなにおっしゃるかと言うと「おっさん、おまはん、よう出来とる。日に日に、お神さんのお掃除して、神さん有り難うというて、礼をおっしゃるけれども、まだ届いとらんわ。良いかたはしとるけれど、 朝出しなにおばあさんを、がいに、ぼろくそに怒っといて行きよる。これ止めてくれんと、わしはつらいわ。」と、 こう先生がおっしゃった。「いや違いございません。もうこれから、ばあが寝ようが、寝まいが、私の事は、私がします」「ああ、そう、そうじゃ。」と先生が、そんな事おっしゃったのを私聞いた事がございます。
どうぞ理屈は抜きにして、神様の庭掃除したらきれいになる。理屈は抜きにして、自分が家の中で人を喜ばしよるか、むつかしい事言うとれへんか、それを考えてくれよと、先生がおっしゃったのを横で聞きよりました。
なるほどなあ、理屈はいかんのじゃ、まず自分が行なわないかんという事を考えましたので、五八九条に書いたのでございます。これはよくあります。怒ってでないと行かん人があります。それはええ事です。神さんのお世話する事ですから、ええ事ですけれども、片方で、おばあさんが泣きよったのでは、それは具合いが悪いという事を先生がおっしゃったのです。だからやはり、神さんと人間との道は、ない合せがふとほそなしに、同じでないと、運ようにいかんぞよとのお教えでございます。
(昭和四十年五月十五日講話)
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第五九〇条 「人の苦をわけると二つになる。身苦と、心苦である。身苦は、偉い人でもまぬがれぬが、まことにわずかなものである。えらい人は、心苦はないものである。人間の苦の大部分は心苦である。この苦さえなければ大安楽である。」


こないだは、あんた方、高野へおいでたというお話しを承ったのでございますが、その後に私が聞きましたのには、どうも光明院で泊った時分から、小坊さんが手伝いに来ての話しに「わしは、日本中の人を相手にしていると言うても、かまわんくらい何万人の人を「まかなって」来とるが、この三宝会の人くらい静粛な、礼儀の正しい、頭が下がる人は扱った事がない。三宝会というのは、だれを祭ってあるのですか。どんな事言っているのか、それが聞きたい。」と言ったそうでございます。あの小坊さんというのは、学生がお寺へ手伝いに来とるのでございまして、誠に目も見えるし、耳も聞えるし、相当磨かれとる人の目にとまって、三宝会がほめられたと言う事は、私は無論嬉しゅうございますが、さぞ泉先生は、お嬉しい事であっただろうと思います。
話はこれ位にしときまして、今日お話しするのは、五九〇条からです。これは泉先生がおっしゃるのに、人間に苦労はたくさんあるけれども、身体の苦労と、心の苦労と、二つに分ける事が出来る。仕事をしたら身体が疲れる。これを身苦と言う。ところが心に苦労がある人を心の苦、やはり心苦という風に二つに分ける事が出来るが、大部分は大方の人は、心の苦労に難儀なさっとるのでございます。ところが泉先生は、その心にある苦労を、抜いてあげようと思うて、どんなに苦労なしたかわからんです。色々ご苦労のお話しは承りましたが「わしはなあ、村木さんよ。 この世を極楽にしたいんぞ。極楽にしようと思うたら、人の心に苦労無いようにしてあげなんだらいかん。それでこそ極楽の世界が生まれるんじゃ。わしの苦労もあるぞな、村木さんよ。」と言ってお笑いになった事がございます。
ところが、その心の苦労が無いようになった時分を大安楽という。大安楽というお経もございますが、なかなか大安楽にはなれんものです。それを先生が大きなところへお気をつけて、この世を極楽にしてやろう。そのお話しの中に色々不思議がございまして、あんた方は、それとなく、先生のお心をお聞きになっておる。それが、こないだ金剛峯寺へお参りの時に、光明院でピカッと光った。まことに結構な事でございます。
(昭和四十年五月三十一日講話)
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