561~570条

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第五六一条 「神仏に通じているお方に、教えを受けて、もの事をするのは悪いことでないが、たとえてみたら、ちょうど目くらの人が目の見える人に手を引いてもろうて道を行くのと同じことである。 結構ではあるが、手を離すとあぶない。それよりも、目をひらけてもらうように頼むことが必要でないか。この目をあけていただく仕方、頼み方が信仰である。又目くらの者の目を見えるようにしてやりたいのが神のご本意。」


この教えは、信仰の極致をのべられたものである。それは、信仰とは目をひらかせていただくことである。目を開かせていただくということは、悟りを開くことである。又、神仏の慈悲として、衆生に対して目を見えるようにしてやりたい、すなわち神通の力を持たしてやりたいとのお心が、神仏のご本意であるという教えである。我々の肉眼で世界が見えているが、その肉眼で見える物は、迷いの世界であり、教えの世界である。それをめくらといったのである。迷えるものを彼岸に導びいてやろうとなさっているのが神仏である。第百四十五条に「信は力である。信ずる通りになる。」と教えられている。
これに二通りありまして、人間的に信ずるということと、他の一つは、自分というものを心の底から信ずるという二つのわけがある。専門的にむつかしくいうと、八識にしみ込んでいるか、ただ上つらの人間根性だけで信じているか、この二つの種類なのです。深く信じこんだことは力である。信じ切った場合には、思う通りになるということ、そのことを泉先生は申されております。めくらが目あきになる方法として、教えられていることは、一つには、貪・ 瞋・痴の三つを離れ、六波羅密行をなせば真の人である。この人こそ神の器である。すなわち肉の体で神の力を持つことになり、即身成仏したといえるので、ここにおいて始めて悟りの境地に至ったといえる。
「人が知らん間に取ってやれ、人より先に集めてやれ、こういうことを欲という。どん欲という事の根になるのです。そうして、自分が取ろうとしとるものが、人にすっかけられると怒って、こんどぶりは、いろんな方法であだうちをしてやろうと、これが瞋です。痴というのは、無知ということです。知恵が足らんということですから、色々愚痴をこぼして、いらんことを考えて、自分も悩み乱れるのです。大体この三つが、人間の一番毒になっております。
仮りに離欲しますと、人々は奪い合いはないでしょう。そうすると怒るということも減ってくるのです。このよう に「欲」ということが中心になりまして、貪、瞑、痴の三つが生まれてくるのでご座います。この人間には、生まれながらにして、生きものはすべて欲があるんだ。その欲というものが原因になって、そうして、これを余分にむさぼる。人の分までむさぼろうとしてこういうことが争いの種になる。怒るとか、又愚痴をこぼすとか、こういうことになる。つまり、欲が中心じゃと泉先生は申しております。欲というものをなくしたら、これが誠の真人間じゃとおっしゃいました。
なるほど欲がないと、従って怒ることもないようになる、愚痴をこぼさなくなる。しかしながら無欲であっても慈悲心がなかったならば、これは神様のご用には立たんということになります。あの人はよい人だ、えらい人だという位のことで一生すんでしまいまして、慈悲の働きがないというと、神仏のお手伝いが出来ませんために、まず宝の持ちぐされということになるのです。なるほど欲がないということは、まことに結構なことだけれど、慈悲心がなかったら何にもならないことです。つまり六波羅密行が出来ないと、神仏のお手伝いをすることができない。
六波羅密行とは、施行、忍行、戒業、精進行、禅定、智行です。この中で最も大事なのは、施行といって、人に施すということが最も大事なのです。たとえば、朝あんた方が仕事においでになる、その道でバラの枝でもあらば、道ばたへ寄せるのも怖行になります。もし信仰するのに施行がなかったら、食うて寝ているようなものです。毎日の生活において慈悲の生活をしながら、禅定をすることによって、始めて心の目が見えるようになります。すなわち、仏知が働き、少なる人間の心が宇宙大に広がり、時所のいかんにかかわらず、わかるようになる。それが目くらの人が目がひらいたということになります。
(昭和四十年一月三十一日講話)
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第五六二条 「いかなる場合でも、自分を助ける為に、うそをいうてはならぬ。
このようなうそは、神仏のきらいな事、ありのままでよいではないか。これが人を愛する道、神をおしたいする道である。」


信仰の上に、うそを言わねばならぬ場合もあると思います。ところが、うそは自分が助かる為に言うのは、大抵皆いけないのです。うそでも、人を助ける場合は立派なうそで真実より尊いという事があります。たとえば、ここにある人がよそで悪い事をしておる。家族が家で留守守りをしておる。その時分に通りかかった人が、その家族の人に向けて、こういう悪い事したんですという事は、あまり感心しない事なので、そういう場合には人を助ける為に、ぜひにうそを言わねばならぬ場合もあります。それは、善良なうそです。
たとえば、もう一つお話しますと、お釈迦様がお在りになった当時。お経文に書いてありますが、ある大きな長者の家に、子供を連れて、お参りに行ったところが、その子供を道で見失って、迷い子になった。それで、色々尋ねたけれども中々見つからない。それから年経て、王様の門先へ通り掛かった若者が有るのです。長者は、その若者を自分の子に違いないとは思うたけれども、その時、自分の子だと言うたら、向こうがびっくりすると思い、名のらなかった。一方子供は、長者の門へ入って、のぞいて見て、「こら、キョロキョロしていたら怒られるやらわからん。」というので逃げ出した。真実言うたら子供は助からん。そこで家来に言うて、うちに便所掃除する人間が欲しいんだ。それで給料は、普通の人の倍あげる。お前さん長者の所へ行って、お勉めせんか。そう言うて、その子供を連れて来て そして、肥くみや便所掃除をさした。そうして、便所掃除しよるうちに色々教育して、立派な人間に育てた事が、法華経に書いて有ります。このうそは善良なるうそです。人を助ける為に、うそを言わなならいで言うた。本当は王様の子なんだけれども、わしの子じゃと言うても、昔から、俗に言う遍路三日すりや遍路根性じゃ。というもので、心がなりはてていますから、本真が通らんのです。こういう場合のうそは、人を助ける為のうそを言うたんだから信仰の言葉という事になります。これをあんた方よく注意して欲しい。自分の便利の為に、うそ言うのはいけないのです。
人を助ける為に、言わなならん場合が、こら良い方のうそになる訳です。これを先生が、うそでも人を助けるのは良いぞ。本真でも人を殺すのは、悪いぞ。とおっしゃったのです。それをここへ書いたのです。
(和昭四十年二月十五日講話)
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第五六三条 「神仏の慈悲深いお心が、何事か裏手にでも見え出したら結構である。これが真の信仰である。ちょうど子が、親のありがたみがわかったのと同じで、それから、真の孝行が出来るのである。 たとえば、やぶれたぞうりにも礼を言える人でなければ、神に通じぬようなものである。」


皆様が朝起きて晩寝るまでの間に、色々な事に会う事なのでございますが、これは神様、仏様のお慈悲である。有り難い、その有り難みを感じたならば、まことに信仰の道に合うとる。先生がそうおっしゃったのです。
例を上げてみますと、ここに魚に、アンコウという魚が有ります。皆さまご承知か知りませんが、ほおたぼの大きい、たたいたらポンポンほうたぼが鳴る魚です。そのアンコウは、自分の額から、ずっーとつりざおみたような物がはえ、その先に、てぐす付けたような糸が付いている。それでえびのような小さい物が付くのです。そうすると小さい魚がえびかと思って、そこへ寄って来た所をガブッと食うていく魚です。そのえびが付いとるさおみたようなものは、だれがこしらえたか、無論魚はようつくりません。これは、やはりアンコウが、口すぎしていけるように、そんな物がはえて、そうして寄って来た魚を食う。そうすると、アンコウが考えた。こら有り難いこっちゃ、これが無かったら、わし食えんのに、こんな物はえて、そうして寄って来てくれる。こう言うてアンコウが喜ぶのに違いない。
ところが、ひるがえって人間が考えますと、これは神さん、仏さんのご慈悲である。有り難いと思う事が沢山有ります。それを感じたなら、信仰が届きやすいという事を先生がおっしゃったのです。つまり、天等はんに対して、喜びということを感じるようにならんと誠の信仰でない。こういう事です。
たとえてみますと、ここにあんた方が、お医者さんに手術受ける場合に、そのままでしたら、痛うて痛うてたまりません。針で突いてさえ痛いのに、あちら切り、こちら切りしてご覧なさい。それこそ痛い痛いで、目をまわして死んでしまう。ところが、知らんような具合に薬でするのです。今、お医者さんに手術受けるのに、麻酔と言よりましょう。あの麻酔の薬は何から採ったかと言うと、土地から取れた草の汁でございます。けしの汁から製造したのが麻薬です。それを注射しますと、眠ってしまうのです。切っても痛さ知らんのです。その間にお医者が、じょこじょこと、 いらんもののける。そして縫いわしたら、それで治ってしまうのです。そういう時分に、ああ、ほんに神仏のお慈悲は有り難い。こういう薬がもし無かったら痛いので、目を回して死んでしまう。ああ、ほんに天等さんのお慈悲はここまで届いとるか有り難いと、こういうのが天地の恩を知るという事です。沢山有りましょう。あんた方が、土地の上へ種を蒔いて、はえて来る。これ、はやそうと思っても、人間がはやすことできません。天地の力で、水気と、 お日さんの温度など、それがスクスクとはえて来る。ああ、ほんに有り難いなあと、これも有り難いと言わないかんのです。そういう風に天等さんのお慈悲を受けて知らん顔しとるのではいかん、と先生がおっしゃる。
こんなことは沢山有ります。あんた方のからだには、血が通うとります。その血を送る為に、ポンプの代わりをしている心臓があります。その心臓が血を端から端へ送って、そして肺臓できれいに掃除をして、新しくして、又心臓の方へもどって来たのを、それを送る。ところが、あんた方のうちに、心臓動かそうとして動かしますか。心臓止めてやろうと思っても、止まらんでしょう。もう自然にほおっておいても、その血液を順々とじゅんかんさせてくれる心臓という器械が付いている。ほんに有り難いもんじゃなあーと思いませんかな。これ、ちょっと止まったら人間死んでしまいます。ところが心臓動かしてやろうというようなこと思ったとて、出来はしません。つまり天地が動かしてくれる。言い換えると、神仏が動かして下さっている。ほんとに有り難いもんじゃなあと、こう感じるのです。
その天地の恩、神仏の恩という事を有り難いと感謝する心が起きなければ、信心はだ目じゃと、先生はおっしゃったのです。先生は、偉い良い事をおっしゃっております。実に尊いお言葉です。
それからもう一ツは水です。この水が高い所から低い所へ流れるでしょう。高い山の上などは、さっぱり水が流れぬばかりで、水気がありませんから、草木が育ちません。ところが、自然に空気中に水分を発散させて、雲が出来ます。水が蒸発して雲になる。その雲が風に吹かれて飛んで行く。その雲が冷えて雨になる。そうして、いかな高い所でも、雲の行く所は雨が降ります。だから土地の上へ全面的に、じょうずに水を配ってくれとります。考えたならば ああ、ほんとに至れり尽せりじゃ、こりゃまあ、有り難いこっちゃなあと、思わなならんのでしょう。草木が山の上に又、野に立っとるのでも、そういう事考えたら、神仏のご恩というのは、有り難いなあと思わなならん。それを思わんようでは、恩を受けて知らんのだから、神仏にかわいがられる訳がないのです。ほんに有り難いなあという事は、それでも言えるでしょう。
それから、こんなお話していたら、いつまでたっても、はてきりがありません。沢山な事ございます。あの竹ですが、竹がはえとります。長い竹になると、四間も、五間も伸びております。その竹を調べてみると、外側に固い皮が出来とりまして、間に節が有ります。あの節がなかったら、長くよう伸びんのです。すぐに割れてしまいます。あの節だれがこしらえたのですか。人間がこしらえたのでも、竹がこしらえたのでもありません。天地の働きで節がひとり出来てくる。あの節が有る為に、竹は長く、高く伸びられるのです。割れもせず、折れもせず、高い高いところへ伸びられる。それで自然自然と上を細うにしてある。ほんに神さんは、まことにおじょうずじゃなあ。こういう事、 なさっとる。というような竹一本見ても、有り難みがわいてくる。こういう風でないと、ただ天地に有る物は、当たり前のように思うとっては、神仏に、天地の神さんに、お礼を申す心がなかったらいかん。先生そうおっしゃったのです。実に先生のお言葉は尊いお言葉です。
今、あの鉄筋で建てて、高くやりますが、大きな塔など建てて、高い高い所へ鉄筋を建てます。その時分に、ちょうど、竹の節みたように継ぎまわって風に折れんように継いであるでしょう。あれが竹の節の用事をしとる。そういう事を人間が悟って、竹のまねをしとるのが今日の塔です。
こういう風に天地の神様は、実に有り難い事を人間が、暮らして行くのに便利なように教えて下さっとる。ああ、有り難いもんであるなあ。こういう心が出来たら、一人神仏に通じるようになるぞ。と先生がおっしゃったのです。
それで私は、ここへ書いたのでございますが、そういう事を、あんた一ツ考えてご覧なさい。沢山あります。それから草木が、人間の薬になる。その薬を含んでおる、それを使うたならば助かる。こういう風に有り難い。もう生物が生きられるように、出来とるのが草木です。米麦は言うに及ばす、その他の草木でも皆、生き物が助かるように出来とるのです。これを思うと、有り難みが起こります。
それから、川におるあのふな。あれを料理して腹を見ますと、袋が入っとるでしょう。ひょうたんのような袋が、 あれで、このぐるりに筋肉が付いておりますが、ふなが空気を吸い込んで、あの袋へ詰めております。前の方を強く絞ったら、頭が重うなるでしょう。すると、ずーっと下へ向いて泳げる。後絞ったら、今度ぶりは後が重うなります から、魚、さかさに向けるんです。そういう風に、あの水の中におる所の魚が、上へでも下へでも、どんなにでも行 けるような、あんな袋が出来とる。あれは、ふなが造ったのでも有りません。こしらえるといったとて、出来やしません。いわゆる天地の恵みがふなへ及んでいて、ふなが助かるようにこしらえたのが、あの袋です。ふなばかりで有りません。袋持っとる魚沢山有ります。こういう風に、水の中に住んでおっても、上へでも下へでも、どんなにでも行けるように、体の中に道具付けて下さっとる。有り難いでございませんか。
人間から考えたら、実にこれは神さんの仕事で有ると言わないけません。それを喜んで、こういう風に泉先生は何を見てもお喜びになるのです。ああ、有り難いなあ。それであれだけの人間に、生まれて、神さんの仕事が出来たのです。それでそういう風にする事が、信仰の中でも最も理解のある信仰という事になる訳です。
(昭和四十年二月十五日講話)
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第五六四条 「己に勝つものは、よく敵にも勝てる。己に負けるのは、我慾が強いからである。敵に勝つどころか、神仏にも見すてられる。」


戦争する時分に切り合いをする。敵に勝つ。それは、しよい事じゃが、「己の心に勝つという、けい古せよ。」と先生おっしゃった。それはどんな事かと言いますと、ごく寒い寒い時に、おかあさんが、かき欲しいとおっしゃる。
さあこれ、かきある所へ、寒いけれども、走って求めて来んならん。その時、寒いと思う心と、大変な用事じゃと思う心との争いがおこる。その心に勝って、自分が走って行く、買うて来る。そうしてお母さんに上げる。そういう風に、自分の心に勝つという事です。
それから、これもたとえてみましたら沢山ございます。仕事して、もうけるのは面倒くさい。苦労なしにする工夫ないかなあ。それは、よその人がためとる銭を、戸開けて黙ってお貸り申してくるより道はない。そうすると盗人です。そいつ一番もうけが早いなあ。こらもう働かないでも、苦労せずとも、すぐにもうかる。一つやったろうか。
こういう心が出来てくる。いやいや、そらいかん。人がためておる物を、黙って取って来るという事は悪い。そら止めた。それは信仰の上では、最も悪い事だ。そういう風に、自分の心の内に、こうしたい、ああしたい、と思う心が出来ます。そのとき、よい心が勝って、良い方へ進んで行く所の考えがいるぞ。まず先生は、敵に勝つのはしよいけれども、わが心に勝つという事は、中々出来にくいもの。大分信仰せんと、それが出来て来ません。自分の心に勝つという事を子供に教えたいもんじゃなあ。と先生がおっしゃった。それを私がここへ書いたのでございますが、そういう事は沢山ございます。
たとえば、夏の、暑い暑い盛りにお百姓が、汗水流して田んぼなさる。これ暑いのに一ツ昼寝してやろか。ああ疲れたというような心出来る訳でございますけれども、これは、自分は健康なのだから働いて、ご先祖喜ばしましょう。
世の中の人がいる物作りましょう。いや、この暑いのを、この苦労を、自分の心に勝って働く。あるいは始末をする。こういうように、自分の心で 自分の増長しとる心を押さえつけて、自分に勝つ事が信仰になるぞ。こら大きいぞ。これは簡単なようなけれども、大きいぞ。と先生がおっしゃった。
なるほどそうです。そういう事よく有りましょう。さあ、ひとつ着物をこしらえたいのじゃが、どんな着物にしように、そう考えなさる。女の方がそうじゃなあ、これは、今世間で流行っとる。我々の身分には、これが適当じゃ。
というんで、わがが、欲しいという心を押し付けて、そうして自分の家庭に合うた衣装を買うて来る。それもそうでございます。自分の思う、わがままな心を押さえ付けて、自分の心に勝つ。これをしなければ、信仰する者は脇道へ飛び込むぜ。先生がおっしゃった。それでここへ書いた訳でございますが、泉先生は、よくお考えなっとる方でございまして、こういう事もおっしゃったのです。
先生はよく、天地に受けた恩を返せとよくおっしゃったのです。先生がぞうりをはいて、山へお参りにおいでるのです。そうすると、ぞうりが古くなって、穴あく。もうはけんようになる。その時分に、新しい草履を買って、はき替える。その時に、前にはいたぞうりを、大抵の人は、ピーンとはねるでしょう。先生は、その破れたぞうりを二つ揃えて 人の邪魔にならん所へ持って行て。「お世話になりました。有り難うごわした。」とぞうりにお辞儀するのです。 どうですか、お世話になりました。それ出来ますか。それからげたでも、古うなると、もうこんなに薄うなった、
ふろのたき口へほうり込む。先生は、絶対そういう事なさらん。もうげた、はけんようになったら、「お世話になりました。有り難うございました。」お礼を言うて、塩払いをして、ふろにたくのです。ふろの神さん、けがしてはならん。塩払いして、清めて、ふろ場で有り難うってお礼を言ってたくのです。ぞうりでも、はいたぞうりは有り難う。 それから、よその人がはき捨ててあるぞうりなど、道に落ちています。そうしてそれが、まあ裏返っとる場合もございます。先生は、つえで起こして、お日さんにきたない物を踏んだやらわからん裏を照らすのは、もったいない。そうして道ばたへ返しなさる。
こういう風に先生は、天地の神仏に、恩を受けた事に対して、有り難うございますと、お礼を申さなんだら、それは罰が当たる。もったいない。これほど先生は、日に日にの、ほんの小さい仕事であるけれども、それは天地の神さんにお礼を言うという大きな問題から考えますと、おかげを受けるのは当たり前です。これを、どうぞ、みなさんしてくれよと先生がおっしゃいました。先生のまねしたら、大変得がある訳です。
(昭和四十年二月十五日講話)
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第五六五条 「王者といえども、ひざを屈せず、非人といえども、あなどらずというような人は大人物である。」


王者といえども恐れず、貧者といえども悔らず。先生などは、王様が来ようが余りひざついて屈しません。道ばた におる非人といえども、その前通る時は、手を下げてご免なさいと、心のうちで言うて通ったお方です。どうぞ、これは、礼儀でございますが、信仰なさる方は、お遍路さんが道ばたにすわっていても、前を偉そうに歩くという事はあまり良くない事で、ご免なさいと言わなくてもよろしい。心の内で、ご免なさい位の事を言うて良いと思います。
先生のまねですから。ひどいものでございます。それを癖にするというと、何でもなしに出来るようになるのです。
私の祖母が孫負うて、そして撫養の女学校の展覧会を見に行ったのです。そして色々な物が出とるのを見て、きれいに出来とるとか何とか言うて、それを見ていたのです。ひょっと、うちの孫どこへ行ったんかいなと、捜しているのです。背中に負うているのを忘れてしもうて、一生懸命にあちらを捜し、こちらを捜し、捜しまわって「どこぞ、私とこの子供、居りまへなんだかいな。」ある人が「ばあさん、背中に負うとるのは、あんたの孫さんと違うんで。」
そういう大笑いが始まったのです。これは、かわいくておれん者を背中に負うとるのが、それが荷にならんのです。
重荷が分らんようになるのです。そうしてから、大事と思うとるから、大勢の中で、孫見失うてはならんと思うて、「孫を見失うとるんじゃが、どこぞ居りませなんだかいな。」というて尋ねたのです。そうすると背中に負うとったという事、人が言うてくれて、ああほんに、背中に負うとりましたと言うて、大笑いしたという事です。
このように、あんた方でも、せんならんと思うて、大事に思うていると、天地の恩を返すには、つい知らず知らずの間に、お礼が言えるようになります。有り難みがわかるようになります。孫をかわいくておれんから、背中に負うて 重荷が掛かっとるのを忘れたというような事、それが例です。どうぞ皆様も、先生のお心掛けをまねしようと思うたら、日に日に、ちょっとの事でも、してご覧なさい。しまいには、あまり苦痛でなく、せなおれんようになります。
どうぞ、そういうおつもりで先生のまねをしていただきたいと思います。
(昭和四十年二月十五日講話)
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第五六六条 「あるおばあさんが、孫を背に負うて、多数の中で、物見をしているうちに孫を思い出して、どこへ行ったかと思うて探したが見当たらぬ。そのうちに知り合いの人に会って孫を尋ねたら、 あなたの背中に負われているではないかといわれて、大笑いをした事がある。このように慈悲の重荷というものは、からだに 感じぬものである。」


信仰の真意は人助けの仕事であるといえる、欲が強くては、自分自身は助かるが、他人を助けることは、なかなかできないものです。欲のままに自分に集めようとすれば、苦労が多い。ねても、おきても、欲より生ずる苦は離れない。欲のとりこになって、始終わが身の重荷となって、苦労せねばならぬ。その反面、真の信仰にはいり、人助けようとすれば、これまた心身を労せねばならぬ、慈悲の為に労せねばならぬ。ところか、慈悲の為の苦労はよろこびとなり、自分の身にとっては心の重荷にならない、喜びと変ずる。だれでも経験なさっていることだと思います。 自分をささげ他人の救助の為に活動することは、慈悲心が自分の全心を占領して余念が生じない、そこに苦労を苦労と感ぜず、他人の苦を救うことのできたことを、自分のよろこびと変じさせるものです。親が子供の為に一身をささげ養育するにしても、わがに年波が打ち寄せ、白髪の寿を迎えるに至っても、子供の幸福の為に一命をなげうっている姿も、慈悲の姿であり、子どもの成長をもって、わがよろこびとして満足している。
父をなくし、母子三人ぐらしのある貧乏な家庭があった。父の死後は、母の女のかよわい腕で、家をささえ、子供の養育につとめねばならぬ、あわれな母があった。その母は自分が着る物も着ることなく、食べるものも満腹する時はなく、その愛情はすべて子供の上に注がれ、子供にも他の子供のように、恥ずかしからぬ生活をさせていた。ある 夕食時三人の子供は、今夜お母さんのごはん食べるのを見てみようと、ひそかに相談した。それというのは、毎夜夕飯時に子供とともに食事をしないので、子どもたちは不思議に思い、われわれを先に食べさせておき、お母さんは後で、一人おいしいものをたべているに違いないと思い、その夜三人は、障子をへだてて、母の食べる様子をうかがっていました。ところが、子供たちの思ったこととはちがい、母は子供たちに満腹させ、自分はぜん先に子どもたちが食べ残したものをかき集めて、おとなであるのに、それでその夜の夕食をすませていたのです。そして子供の前に出ては、自分は満腹らしい様子を見せていました。母はどうも子供たちの様子が、いつになく悲しい様子で、はればれとしていないので、たずねてみると、その年上の姉が、お母さん、ゆるしてねといいますと、母はゆるす、ゆるさぬとはなんのことだ、どうしたのだと問いますと、私達は毎夜、夕食時におかあさんが、ともに食事なさって下さらないので、実はお母さん一人が、おいしいものをかくして食べているのだろうかと子供心に思い、今夕、おかあさんの様子を見ましたら、あにはからんや、おかあさんは、私たちの食べ残しをかき集めを少し食べられ、ぜん先をかたずけられているさまをみまして、兄弟は母の愛情にうたれ、自分たちのまちがった考えを恥ずかしく、すまないと思ってないているのです。という一家庭の母の愛情をいう劇的な場面がありました。
これを考えても、子供を女の手で、どうにか一人前に育ててやりたいと思う一念の慈悲心は、母にとっては苦労のかずかずであったろうが、それを母自身は、すこしも苦にせず、雄々しく立ち働く姿には、よろこびこそあれ、苦ということを寸家も感じなかったと思います。ここです、慈悲心は心の重荷にならないということは。このか条は、そういう意味のことだとおもいます。
(昭和四十年二月十五日講話)
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第五六七条 「『わがものと思えばかるし傘の雪』というように、何でもわが事と思うところに、慈悲心がわき出て来るもので、お大師様が 『一大四海是れわが有』といわれたお心をお察しして見よ。 頭がさがる。」


先生のお宮が出来るに付きまして、皆様にお世話になって、大変皆さんはお疲れの事と思います。しかし皆様の信心がいかに世の中へ出て来たか、あの附近の人々の評判を聞きますと、三宝会は人間でないように感心しています。
実に先生の光は、そういう所へ現われています。私もそれを聞いて、うれしいと思うのですが、為す事、する事が、 先生が見ておいでる。先生の為、こういう事がはっきりと仕事の上に現われている事を、津田あたりの人が見て、びっくりしています。先生はさぞお喜びだろうと思います。
これは、先生がおっしゃったのですが、わが物としてする、人の物としてするという事で、非常な差が付くもので す。ちょうど今度の工事でも、いかにも、わが物としてなさった事が現われております。それが為に工事が普通の工事なれば十日も掛かる物が、五日位で出来る。二十日掛かかるものなら、十日で出来る。こういう風に、仕事の上で念が入って早いという事が、論より証拠でございます。
あの鼠小僧という、昔の盗人がありましたのご承知でしょう。あの鼠小僧が言うた言葉に、ああいう仕事をしよる人でも、わが物という事には、不思議に「わが物と思えば軽しかさの雪」という言葉を、鼠小僧が言うとります。ちょうど鼠小僧が武家の屋敷へ入って、少し借ってこようと思うて出かけた所が、雪が降って来て、かささしておると非常に雪が積んで重いのです。重いけれども、鼠小僧は、これはわしの物じゃと思うたら、雪でも軽いもんじゃなあ と言うて笑うた事が、昔の話に残っております。「わが物と思えば軽しかさの雪」と鼠小僧が言うたように、わが物としてするという心は、実に不思議な力の出るものです。あの人が常に金持っていませんが、いると思うたら、ああ今晩、どこそこのお屋敷へ行って、ちよっと拝借してこうかって、こういう事言う。そして、そういう仕事するのでも、その金を方々へばらまく。困っとる人を助けたい。そういうつもりで入るのですから、人の物、わが物と思うとるのです。まあ こういう人でも、ああいう歌を歌うた位に、何でも、わが物としてするという事は 大事な事です。これが信心に合うのです。
お大師様がおっしゃった言葉にも、「一天四海、これ我が有」とおっしゃったのです。世の中の物、皆わしの物じゃというと、何やら言葉が大きいようですけれども、わが物じゃというような気でするから大事にするのです。粗末にせん。人が困っておるのを見ると、ああこれ、わが兄弟じゃ、わが子じゃ。こういう思召しでおいでるのですからどこへ行っても、わが子や兄弟が居るのです。「一天四海これ我が有」とおっしゃった言葉が残っております。
このように、わが物とするという事が大事な事です。お宮へ行って草を抜くのでも、お掃除するのも、手水鉢をきれいにするのも、これわが家の物じゃという気であったならば、実に立派に出来るし、行き届くというような事をお大師さんがおっしゃっとるのです。どこへ行ってもわしの物じゃ。これは自慢した言葉ではありません。どこへ行っても、そのお心でなさる事が、現われとるのです。「一天四海これ我が有」世界の物は、わが物じゃとおっしゃっとる。鼠小僧のような人が考えても、お大師さんのような偉い人がお考えになって一緒です。わが物をしよるんじゃ、盗人しても、わが物というような気でしよりますから、他の盗人より偉いというのは、そこにあるのです。
(昭和四十年二月二十八日講話)
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第五六八条 「益あるものでも、反面に害あり。益の方面ばかりさがしてもこのようなものは、神様が作ってない。水でも火でもその通りで、使い方が大切である。世の中すべてのものに自性あるものとてはない。使う者の用心次第で毒にも薬にもなる。」


我々がよほど考えねばならぬ事を、先生がおっしゃっているのですが、ある日、こういう事をおっしゃいました。 「村木さんよ、世の中に益のある物という事は沢山ある。所が益ばかりと思うたらいかんな。その裏には、毒があるという事悟さないかんな」と、こんな事おっしゃったのです。たとえてみましたら、あのきれいな花の咲くケシです。
ケシには花が散りますと、ケシボーズというのが出来まして、出来ると今度は、ずっーと首が曲って、うつ向くの です。これはご承知でしょう。あのケシボウズが出来た時分に、ちょっとつめがた入れると。白い乳のような物が出て来ます。あれは、あの液から取れた物が麻酔薬です。なるほど、ケシが咲いとると、きれいなあ。ああきれいな草やなあいうても、恐るべき人を眠らしてしまう所の毒が入っている。今ケシは作らさんでしょう。どこにでもケシ作ったら、しかられるというのはこれです。
たとえば、お医者様へ行って大手術をする。その時分に、眠り薬を注射します。あのケシから取る所の、眠り薬が無かったら痛い痛いと言うて、心臓まひ起こします。切ったり、色々にするので、目を回して死んでしまいます。
そういう、あわれむべき人間を助けるのに、あの麻酔薬が無かったら出来ません。これは、お医者が手術するのに 注射するのでよくご承知でしょう。あの麻酔薬がある為に、眠ってしまって、切っても知らん。その痛さを知らん間にお医者さんが、悪い物のけてしもうて、縫ってしまう。一面から見ると非常な毒ですが、一面から見ると、人間にはなくてはならんものです。それで今日は、ケシはあまり作らさんというのは、その毒の方を心配するからです。
又、人間を助ける上から言えば、これが無くては、人は、かわいそうなものです。手術が出来ません。それを先生がおっしゃったのです。「なあ村木さんよ、毒があるある言うても、それを使い方によったら助かるなあ。」こういう事を先生がおっしゃったのです。必す毒の裏には薬がある。薬の裏には毒があるものです。
たとえば、水でも舟をあちら、こちらにやるし、又水を使うてする仕事には、水がなくてはならんものです。所があり過ぎたらどうですか、今度大きな津波が来て、大変海岸の人が難儀しているが、これも水です。水は一面から見ると、人間にはなくてはならぬものです。魚も水の中に住んでおります。水というのは、非常に大事なものである代わりに、又非常に恐ろしいものです。地も二間堀るか、あるいは三間堀るかしたら皆水です。水に浮いとるようなものです。これ、もし水が無かったならば、地震で拾ったら、地球が割れて、こわれてしまいます。それ位水というものは大変な用をしている訳です。ちょっと重い荷を積んで、自動車がサッーと走り出しますと、地響きがします。家の中でも土地が踊っとるのがわかります。ああいうように、響きを他へ伝えんようにして、土地が割れんように防いどるのは水が防いどるのです。水の効用というのは大変なものです。又恐ろしいのも水です。それを先生がおっしゃったのです。益の裏には毒がある。毒の裏には益がある。心して有り難いと思うて使わないかんぞという事を、先生がおっしゃったのです。使い方が大事です。
(昭和四十年二月二十八日講話)
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第五六九条 「神まいりする時、身を清めるのは、神様にご無礼せぬためである。それであるのに御庭のちりが目につかぬようでは、まことが通わぬ。お棚の上のくものすにも心をくばれ。」


神参りをする時分に、これは、行者はんがよくしております。滝に打たれて、身を清めとるのです。それから神参りするのに、色々な行をしているのを見ます。穴をくぐって、向こうへ出るとか、何とかいうて非常な危険な事をしております。これは、心を清め、身を清める為にするのだ。こういう教えになっております。私等もよく滝へ入ったものでございますが、その時分に先生がおっしゃる。これ清めるんじゃから、水に打たれいでもかんまんぜ、心を清めるという事が一番大事じゃ。もし水かぶって、お陰が受かるもんならば、食用蛙なんか大変なお陰が受かる。と言うて、先生がヒヒヒとお笑いになったのです。まず滝に打たれるのでも、私の体のけがれを、これで払っていただきますと言う気になって、滝つぼで拝んで、水をかぶって、有り難く心を清めて、お参りなさい。こういう事をおっしゃった事があります。
所が人によったら、清めるというのを間違えて神様の前へ塩ぶちつけて、自分は平気でおる人がある。塩払いして神さん塩払いする、これは間違うとります。自分の心を清める為にするのです。そうするなれば、汚れはないと先生がおっしゃったのです。大変そういう事にはよく気を付けとったお方です。
先生がよそへ行く時分に、細長い柳ごうりをふろしきに包んで持っておいでる。私は先生のお供して、先生あれ何を持っておいでるんかいな、お弁当かいな、何だろうぞと思って気を付けとったら、先生がそれを開けて「村木さん、これ見い。」といって見せたのです。針に、糸、ハサミ、そんなもの入れとるのです。そうして着物が破れたとか、 何とかいうと、先生すぐにそれで、ああ直してあげる。そういう風に先生は、自分の心を清めて、人も我も一緒だ。
そういうおつもりで、いつでもこうり持っておいでるのです。一尺位の細長い柳ごうりです。中へは、そんな物を入れておいでるのです。チリ紙も入れております。なかなか先生は注意深いお人でありました。
(昭和四十年二月二十八日講話)
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第五七〇条 「ある所に屋敷神さんに、新調のおのぼりをさし上げた。所が喜んでくれると思うた反対に、しかられた。そのわけは買い求めて来た白木綿の反物の中で、最初ふんどしを切り取って、その残りで、のぼりを作ったのであった。その人が恐れ入ったので 神様は喜んで受けた。罪はかたちにない、心にある。」


これは私が参っとる時に、西讃岐の人が拝んでもらっている横におりましたのですが、先生が帰命天等といって、拝みなして「おばさんよ、お前さんとこの屋敷神さんの前へ、ふんどしつってどなにするんなら。」「先生、ふんどしやつれしまへん」「ニッつっとんでないか。」「いやあれは、私とこのおやじが病気しとるので、おのぼりを上げようと思うて、おのぼりの新しいのを二筋、屋敷神さんの前へ立てました。」「おばさんそうか、そら立てたんはええが、白もめん買いに行く時分、一反買うたなあ、おばさん。」「ええ、一反買いましたんじゃ。」「その白もめん、一番先に何を取ったか。」「先生、おやじのふんどし取りました。」「それみたか、ふんどしの余りを、お神さんの前へつったでないか。」「恐れ入りました。」という話を私横で聞きましたのですが、それは先生のお心では、まず差し上げる所のおのぼりを二ツ取る。余った物をいただいて、ふんどし取る。こうすればええんじゃ。つまり自分の 心を清浄にする。「おばさん、ふんどし一番先に取って、後からのぼり取るけん、わしはふんどしつったんじゃと言うたんじゃ。」「先生恐れ入りました。」「いや、恐れ入らいでもええ。神さんはいつでも、まず先へ差し上げる物取った後にしなさいよ。そうせんとなあ、神さんが大事なんか、おやじさんが大事なんか、わからんでないかい。」
そうしたらおばさんが苦笑いして「恐れ入りました。」と頭を下げました。
このように先生は、いつでもそうなさるのです。まずあの子供しの弁さんが物買うてきても、まず神さんへお供えする。その後でいただく。こういう風に教えられていました。これらがつまり、自分の心を清浄にするという事になるのです。先生は面白い事おっしゃいました。拝んでもらいに来る人に、ふんどしの旗立てたかとおっしゃった。先生はいつも面白くお話しをなさいました。
(昭和四十年二月二十八日講話)
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