51~60条

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第五一条「人は皆、それぞれの心の世界に住んでいるから、自分の思う事と違うからとて、にくむなよ。」


人はそれぞれ前世の因縁によって生まれてきているので各人、心の住所がちがうものであります。それであるから自分がそうだと、これは正しいと思っても、他の人はその通りでない場合があります。そんなときには決して人が間違っていて、自分のが正しいのだと思って人をにくみ、そねんではならないということです。
自分の思いと違うからとてその人をにくんだり、そねんだりするということは、我が身を強いと思っているからであります。わが身が強いと思うようになったら、その身の滅びる時が、近づいていると思うべきであります。常に自分は弱いんだ、けれど先祖のおかげか何かであるとつつましげさこそ尊いのであります。ところが我が身が強い、意地悪い、向ういきが強い、こんな人になったら神さんにたよることが少ないわけです。中には神にたよっている人でも強い人もあり、強く思うている人もあります。けれども、これはまれであって真に人間的に強いと思っている人に限り神さんの方へは感謝の念がうすい。
今までの日本の歴史の上で、偉いと人にたたえられている人はどういうことをしているかと調べてみますと、親鸞上人は「しょせん、わしらのような心の者は、極楽へはいけないのじゃ、わしは世間の人に比べてみると世間なみじゃ。そこで、神仏にたよっておればこそ、わしはよろこんでいけるのじゃ」とおっしゃっております。そのことは、ありありと、ご自分が筆をもって書きのこされております。しょせん我々の如きものでは、極楽は望めない。南無阿弥陀仏と唱える神仏のご加護によって、自分がよろこんでいけるのだとおっしゃっておいでるのです。
それから日連上人さんは、向ういきの強い人ですが、ご承知の通り「真言亡国禅天魔念仏無問律国賦というふうに他の宗旨を非常に非難しております。その方が、どんなことをおっしゃっておるかといいますと、「我はせんだらの子」であるといっております。「せんだら」というのは、非人ということです。わしは、非人の子みたようなものである。この法華経に書いてあるところの、仏の功徳が、なかったならとても、我々は、よろこんでいける自分でない、み仏の説かれた、法華経の功徳があればこそとおっしゃっております。
このようにみますと、まことに後の世に名を残した偉い方々は、皆ご自分が弱い神仏にたよればこそといって、自分が強いと思っておいでないのです。広い世界で多くの人とくらしていくのには、決して自分が神仏のご加護のたまものであることを忘れ、自分の考えと人の考えと違ったからと言って、人をにくみ、そねんではならぬとのお教えです。
(昭和三十三年九月十五日講話)
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第五二条 「音もなく、香もなく常に天地はかかざる経をくりかえしつつ。」


「音もなく、香もなく、常に天地はかかざる経をくりかえしつつ」という歌なんでございますが、これは音もしない、香もない、つまり目にみえないという事です。目に見えないけれども、天地はお経文をきかしてくれているのである。こういうような意味の歌でございますけれども、言葉に直しますと、天地は、いつも人間に教えておるんだ。
こういう意味でございます。そんならどういう事を教えているかといいますと、赤ん坊が生まれますのは、どんな偉い人でも食料は持たないで裸で出てきます。ところが、天地は、ここに食料を先にくれてある。生まれる先にくれてある、お母さんの乳がはや先に出よります。こういう風に考え方によりますと、天地は、必ず生き物を助けとる訳でございます。
それからえんの下に草がはえます。そのかずらがふし穴かどっか光線が射している所をみいだして、スーとまっすぐにのびてついにそのふし穴から外へはいでる。こういうのをごらんになった事があるでしょう。これは、草があの光っておる小さなふし穴をしっておるのじゃなくして、天地が教えとるのです。これはどういうわけかといいますと草木は、日のあたる側はのびないのです。かげの方がよく伸びるのです。これは、あなた方が温床をお造りになった時に経験がおありになると思いますが、上をふせて、光線があたらんようにしますと、どんどん伸びるのです。けれども、日をあてて風を通しますと、あまり伸びないのです。強い木になるわけです。それで、今ゆか下にかずらがはえたといたします。ふし穴から光線がはいってくる。するとその光線のあたった所は伸びない、かげの方は伸びるこうなりますと、どうしても、そのはえたかずらはゆがんでいきます。そうして、光のはいってくる方へと、ゆがまなならんようになっておるのです。ついに穴から出る。こういう訳でございます。それを泉先生がああいうお方のお考えからすると、天地はその草をあの穴から導きだしておるのだ。こういう風にごらんになるのです。全くそうみてよろしい訳です。こういう風に、天地の教えそのままに心を受け込みますと必ず人は助かる訳です。それを、自分勝手な考えでいきますと、失敗するとこういう事になるのです。ところが人間には、我というのがありまして、自分がええように、ええようにとしじゅう自分のよい事ばかりを考えとりますために、天地の教え、すなわち書かざる経です。
五十二条にかいてあるとうり、文字でかいてないお経文、言葉でいわぬお経文、すなわち目にみえない、声もないけれども、天地が教えとる事がわかるのです。人は我というのがありますために、その天地の声がきこえない訳です。耳にきこえるのでありませんぞ、目にみえるのでありません。しかし天地の助けというものが、自然に自分の心の中に浮かんでくるのです。これを歌によみまして音もなく香もなく常に天地は、かかざる経をくりかえしつつとこういう風に歌でよめる訳です。
それから、くわの木などの枝に、ちょうどかれとる枝がはえたようにみえる。つい二寸ぐらいのものが上へ向いてひっついている。それはしゃくとりむし。というて虫がやすんでいるのです。ちょうど人間がみると、くわのかれ枝かなんかがあるようにみえる。北陸方面へいきますと、あのしゃくとり虫が指くらいの太さのものがあるのです。
それが木にしりの方を木にひっつけて、口から糸をだしてスーッとひっぱっておいて木の枝のような格好をしとる。
するとお百姓が、いっぷくにあがろうとしてお茶をもってくるのです。そのどびんを、ここに枝があると思うてかけますと、それは虫であってどすんと下へおちてひっくりかえる。どびんわりという名がついておるわけです。
これは何を教えとるのかといいますと、人間の目というものは木なら木と同じ色をしとると、ほかの虫がおるのがみわけがつかないのです。ちょうどその木の枝のような格好しとる、その色がそういう色をしとる。これは敵からみて同じ色であったならばみつからない。こういうのが天地の教えです。ちょうど、兵隊さんが、枯れ草の色の服を着て、戦争に、行きましたが、満州あたりであれを着とると遠方からわからないそうです。すなわち、色がその付近と同色であれば見つからないというのが、これが天地の真理です。
虫はそういうことを教えてもらったのではありません。しかし、自分の身の保護をするのには、どうしても周囲の色と同じ物でなければ、鳥かなんかにみつけられるといけないというので、自然とそういうことをわきまえとるわけです。これなども、今の歌のように「音もなく、香もなく、常に天地はかかざる経をくり返しつつ」すなわち、虫が天地のこれを知っとったわけです。
そこで自分の身の保護ができると、こういうふうに虫とか、けものとかいうものは、人間のように知恵がありませんから、我心がないのです。ただ生きる、食う、そういうことばかり思っているために我心というのがありませんために、天地の声がよくわかるのです。人間がどうも、利口すぎて、我の性根を使いすぎるために、天地の声がわからん。すなわち、神仏の声がわからん。こういうことになるわけです。
だいたい、人間は土地から生まれたのではありません。自然にでてきたのでございますから、それがそろそろと、 何億年かたっているうちに、自然に我が身息災の根性がついて、それが我になった。我心というものができたのでございますから、信仰いたしますと、欲を離し、怒ることをやめ、ぐちをやめるということになります。すると、しぜんに、我がのいて神仏の教えが心の中に自然に通うてくる。こういうことになるわけです。
泉先生はそういうことをお考えになって、信者の人に、我心をのけたら必ず天地の声が、神様の声が、自然と聞えてくるとこういう教えでございます。
それから天地の声というのはいろいろございますが、ここにもう一例あげてみますと、軽い物は上に上がる。重いものは下がる。こういう事になっています。それでお湯をたきましても、かまが先にぬくもるのです。そうすると、 かまの底の方のあついぬくもった水は上へあがる、そうすると上の方の冷たい水が下へまわってくる。あのごはんたく時にふたをあけてみてごらんなさい、米が水が動く通りに動いております。これがすなわち、てんとうさんが軽い物は、ぬくもった物はあがる。かるくなって上がるのです。冷たいものは重いから下へさがるという、あれは天地の声です。そんな事を知って我々の生活に何の用があるのかと、こういいますけれども、もし、このぬくもった物が上へあがる、冷たいものが下へさがるというのがないのでありましたならば、生き物は死んでしまわなならん。
なぜといいますと、今日、今、雨が降っていますが、この雨がふりますのも、どうかと言いますと池や海のあの水からじょう発した、すなわち、お日さんがあたってその水じょう気になりましたら軽うございますから上へ上がるのです。水をふくんだ風がぬくもって上へ上がる。これが遠方へ飛びます。そうして今度は山とか、大きな陸地の冷たい空気の所へいきましてそれにあいますと、今度はひえて、ひえると重うなりますから雨となって降るのです。
こういう風に高い所へ水をもっていく作用がおこるのです。もし、あたたまったものが、軽くなって上へ上がるのでなかったならば、とうてい山の木は育ちません。高い所のものは育ちません。雨がふりませんからこういう大仕事をしとるのですけれども、泉さんのように、そういう事に気をつけていなかったならば、天地の法がわからんのです。ですから泉さんは雨がふってもありがたいとおっしゃっているのは、なぜありがたいかと、ただ今お話するようにあたたまった物が上へ上がるこういう事をちゃんとお考えになるのです。それで雨が降ってもありがたい、ああ天とうさんが雨をふらしてくれる。こういうようなお考えになる訳です。ことごとく先生は、信仰からわりだした生活をなさっておるのです。ここに有り難い所がある訳です。
それから、天地の声という事については、いろいろお話がありますが、空を飛ぶ鳥あの鳥の骨をみますと、むぎわらのようです。土地の上をあるくところの牛とか、馬とか、ねことか、犬とかいうものの骨は非常にじょうぶにできております。馬は重い物をひかんならん、あるいは背中に重いものを積んで歩かなならんために強い骨でできております。牛もその通り、犬でも、ねこでも、陸を歩くものは、すべてじょうぶな骨を持っておりますが、鳥は空を飛ばんならんから、できるだけ軽い骨が必要です。ですから、鳥の骨をおってみますと、ちょうど麦わらのようです。
けれども、それなら細くしたら軽いんじゃないかとこういう議論がおこりますけれども、これは学問の方では、あの竹が非常によくできておるのじゃそうです。中がすいております。竹の節があります。あの節をぬいてしまい、その竹の両はしもつとポンとわれてしまうのです。節があればぶが薄くて丸いとこれが強いのです。鳥の骨はそうなっております。それから、鳥の羽なども、じくをみてごらんなさい。これなども、ほとんど紙で作ったパイプのようになっております。これはご承知でしょう。こういう風に体を軽くするためにそういう骨と羽とをそなえております。
これは何も鳥が作ったのではありません。空を飛ばんならんから骨をからっぽにするなんて、そんな事鳥が考えたとてできるはずがない。すなわち天が、そういう風に生み出して下さってあるのです。 これを考えますと、つまりこれが先生がおっしゃる天地の声でございます。我々が生活する上に、軽くとも強いもののというならば、パイプのような物が強いのです。竹なんかは最もよくできているので、あれがもし実が入っとるのでしたらすぐおれてしまうそうです。けれど中がからっぽだと、あるいは節があるというので、あの七、八米もの長い所の竹が、大風が吹いてまっすぐ立っておるという風な事を、人間の生活の上に応用もできるわけです。
ちょうど神様は、自然にそういう物をこしらえてござる。そういう事を人間の心に欲心がなく、またおこりっぽうなしに、愚知をこぼすような性根をのけてしまえば、自然とそういう学問が人間の心の中に自然できるのです。学校へ行かなくても、そういう事が自然にわかる。あの人は器用な人だ、何でもこしらえる、というけれども自然にできてくるのです。
弘法大師は、これはごらんになった方があるでしょうが、讃岐の善通寺あるいは、生駒さんの宝物館、高野の宝物館、こういう所へ行きますと、弘法大師がこしらえられたいろいろな仏像、あるいは、道具、そういう物がございますが、実に専門家がとうてい及ばないようなうでをもっております。これは何かといいますと、ちょうど泉先生が、五二条におっしゃってありますとおり、天地の声をちゃんとおさとりになるのです。天地の声をさとるというと非常にむずかしい言い方のようですけれども、何もむずかしい事はないのであって、欲心をのけて、我心をのけて、そうして自然にこう考えると、自然に自分の心の中へこれはこうしたらええ、ああしたらええという考えがうかんでくるのです。だから非常に器用にもなるし手ももとるとこういう風になるので、弘法大師のごとき聖者は、楽々とおけいこできとる訳です。泉さんなども非常にご器用でありました。左ぎっちょですけれども、たいへん器用でございました。
この五二条などは簡単な事ですけれども、どうぞ、常々の生活の上に我心というのを、できる限り使わないようにするならば、田んぼをしても、商売をしても、いかなる事業をしましても自然にその人の心の中へ成功するような考えがうかんでくるわけです。その事を先生が五二条におっしゃってあるのです。
あのアヒルが卵からかえりますと、はや水の上へうくのですが、あれに後の尾のきわにちょっとふくらんだ、何といいましてよろしいか、小さいもちをつけたような油つぽがあるのです。これは、ご承知の人があると思います。
アヒルつかまえて尾の根つけの上の方を一つ調べてごらんなさい。油つぼがあります。生まれながらに油つぼがあるのです。その油つぼの上へちょっと女の人の乳ぶさのように、ちょっととびあがったものがありまして、それをアヒルが口ばしでくわえるのです。そしてなめるのをみますと、口ばしの先へ油がつきます。そのついた油を羽に一枚 一枚油をひくのです。そうするとあのアヒルの毛がちょうど油をぬった舟のようになるわけです。それで、水の上をういて楽々と舟のようなかっこうをしてすべっています。
それを こんどこういう試験をするのです。石けん水をこしらえまして、その石けん水のいっとるたらえの中へ、アヒルをうかせるのです。そうすると、毛についている油が石けん水にとけてしまうのです。するとズーッとアヒルがみるみるうちにどうが沈んでしまいます。それは、羽についている油が石けん水にとけてしまうて、ズーッと体へ水がしみこむから沈むのです。そういう試験をしてみるとよくわかります。するとアヒルは急いでとびあがって毛をふるうて油をつけ直します。そうしてまた浮くのです。
これは天地がアヒルにかぎりません、水鳥はカモでもそうですが、水鳥は始終水の上で浮いて、そして魚をとり、「も」をたべると、こういう苦心をしておりますために、これは水に沈まないように教えてやらにゃいかん。アヒルは自分でにこしらえたのではありませんが、くちばしのとどく所にそういう油つぼが自然にできてきたのです。 それを口ばしでとって羽にすりつけるとみてごらんなさい。アヒルが上へ上ったら、あの尾のきわをちょっと口ばしで、どんなにかこうごりごりとやっています。そしてスーッと羽を口ばしでふいております。みてごらんなさい。
そうすれば立派な舟になるわけです。こういう風に、アヒルは人間にくらべますと我心が少ないです。自然に自分でこしらえたものではございませんけれども、そういう芸能を覚えて立派な水鳥として生活できるような事にめぐまれたわけです。これはアヒルもたくさんこのあたりにおりますから、よくみてごらんなさい。感心しますよ。
それから、我が運命というてもよろしいのですが、あなた方、映画かなにかでごらんになり、又小説でごらんになっただろうとおもいますが、ねずみ小僧というて法を使って、人の前に姿を消して、そうして、城や豪商のうちへ忍び込んで金銀財宝をとる、非常に上手なねずみ小僧という有名などろぼうがありました。こういう悪い事は続かないで、ついに、とらえられて所刑されたのでございますが、今その人のお墓がありますが、お墓を人がくくりに行くのです。。ものをとられるとか、あるいは失った時分に、それが出てくるようにと「ねずみ小僧さんひとつあなた、あいすまんけんどくくっておきますけん、あれ出してつかはれ、出てきましたらといてあげます。」というて願をかけるのです。あの人は今になわでくくられています。天とうさんは、なくなった後でもそういうような風にみせておるのです。これはかかざる経です。これは、おまいりなした人もあるだろうと思いますが、盗人にとられるとか物を失うた時分にお墓をくくりに行くんじゃそうです。そして、ねずみ小僧さんにたのんでおくと出てくるという言い伝えが残っております。これなども泉先生のおっしゃる、かかざる経、すなわち、天の声です。ああいう事しているとこのくらいまでいつまでもくくられますぞ。だからそういう事せぬのがよろしいと、こういう天とうさんの声がきこえるような気がするわけです。
それからいろいろ、この天とうさんの声という事についてお話すれば、いろいろございますが、あなた方ご承知でしょうな、すいもん草というのがあります。通名は「花かたばみ」といいますが、あれは、はえるとほんとうに困ってしまう草です。どういう風にしてそれが自分の身を保ごしとるかというと、あの葉がでとる所を唐鍬で掘ってみますと、下に米粒くらいの球根が数しれずかたまっとるのです。それから葉がでとるのです。その下にまだ大根のような根がありまして、それにすきとうるような水がはいっております。人にきらわれて、とうぐわでそぎとばされますからそぎとばされると、その米粒みたようなのがぱっと四方に散って子孫が広がるように。またかんそうしましても、一ヶ月や二ヶ月の乾燥では心配ないように、水の袋をもっています。一っペん花かたばみを、ていねいに掘ってみてごらんなさい。そういうような具合いに、自分の身を保ごしております。
これは天とうさんが、おまえは人にむごい目にせられるんじゃから、こういう風にその人がふれたらパラパラッとちるように、また日でりにおちても枯れないように水をたくわえておいてやろう。それでそういうものをもろうております。泉さんはこういう風に草一本みても天のお慈悲とお考えになるのです。
弘法大師もお山へよくおこもりになりましたが、まあえんのしょうかくという方、それからまたお釈迦さんが山へこもったのはよくご承知でしょう。六年もこもっています。そういう寂しい山の中へこもって、どういうことをお考えになっとるかといいますと、泉先生がおっしゃるように天地の声をお聞きになっとるのです。耳にきこえるのではありません。目にみえるのでもありませんが、ただ今お話申し上げるとうり、鳥をみても、あるいは、草木をみても、天とうさんがそれをめぐんでおるところのあり様を、ありありとごらんになって、どうしてこういう風なものができとるんであろうかと考えますと、自分で作ったんじゃない、そうせねば自身の保ごができないというので、天とうさんは、自然と教えておいでる。ああ、やはり人間もこういう風に天とうさんのお慈悲をうけねばならん。この天とうさんの教えを受けるのには、我心というのがあったらじゃまになる。我の知恵が邪魔になって、天とうさんの声が聞こえないようになるから、どうぞ自分の知恵が邪魔にならんようにという事を山の奥でお考えになる。
どうすれば邪魔にならんかといいますと、簡単に申せば六波羅密行でございますけれども、簡単に申すならば、おこる事をやめる。欲な事をやめる。愚知な事をやめる。ともう一つ、これをつづめて申すならば、人のきらう事をしないのと、人の喜ぶ事をする。人の喜ぶ事をしていくならば、この人は信仰のできとる人といわねばなりません。
こういう風に昔の偉い人は、山へこもりましても、天地の声をきいて、自分の身をおさめたのです。学問なくとも立派になれるのです。泉さんなどは学問はありませんけれども、そういう風にお考えになるのでございますから、どうぞ皆さんも天地の声をお聞きになるようにお願い申しておきます。
(昭和三十三年九月三十日講話)
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第五三条 「うそらしい本当まではよけれども、本当らしきうそは言うなよ。」


ややこしい書き方でございますけれども、本当の事はどんな事でもええという事です。どんなにへたに言うても、上手に言うても、本当はいいんだ。うそだけは下手にいうたら、あれうそだという事はすぐわかるけれども、上手に本当らしく言うたら人がのりますから、それでこれをとめただけの事でありまして、あまり深い意味はありません。
かえってこのうそという事が、逆に人を救う場合があります。しかしそれは、事実においてうそといよるのですけれども、その結果が人を救うという事になれば、それはうそでないのです。 たとえば、あの忠臣蔵の問題でございますが、あの大井川のわたし場で大石公が討入りの道具を長もちに入れて、そうして赤垣源蔵さんその他の四、五人が江戸の方へ出かけたところが、あそこはご承知の今では鉄橋がかかりまして、人があの大井川をわけなくわたれますけれども、あの当時ちょうどこちらで申すと、よいやしょうのようなものに人をのせまして、そうして向こうの地へ運んでいったものです。ちょうど大石さんもその大井川へ通りかかった所が、雲助がそのよいやしょにのせて侍さんをみな運んだ。ところがその長もちが非常に重い。これはどうもややこしいぞ、近ごろ評判の赤穂浪士が、あの吉良上野介を討とうとしとるという評判があった時代でございますから、これはどうも、人相といえば、立派だし、いかにも偉そうなというて、この長もちの中に入っとるものは、どうもその武器らしいとこうみたのです。
そこで向こうの岸へ着くことは着いたのでございますが、その中の雲助の一味の親分らしいのが、勘定を受けとる時に、これは少うございますとやりだしたんです。で大石公は、前もってだいたいそこのわたし賃はわかっているのですけれども、無理言うのはこれはたぶん何か赤穂浪士というのに目をつけたんだと、こうご覧になった訳です。
そこで、こいつはこれ一芝居やってやらにゃしかたがないとじっと心の内で思うておいでた。ところが、その雲助の親分が金をたいへんねだってきたわけです。そこで赤垣源蔵さんは非常に気が短い。おのれ、不都合なことをいうというのでたいへんしかったところが、その雲助の親分が「いやこれは、普通の荷物なら、そりゃあなたの言うとうりやすい。しかしこれには、わけがあるだろうと思う普通のものじゃない。この中へは、たぶんあなたのお腰のものや、いろいろなものがはいっとるんだろう」と、こういうことをいったために、大石公がもう定めこちらが考えたとおりだろうというので大石さんは、腕を組んでじっとごらんになっておる。赤垣さんがおこりまして首すじひっつかんでトンとぶちなげた。ところが、ウーンと足踏みのばしてしもうて、死んでしもうた。そうすると、ますますそのくも助が寄ってきて、これはただことではないうちの親分やりつけた。ただではおけんと、いうてまるでけんかごしになってきたわけです。
それというのも、そうして、問題をおこせば、一方では、かたきをうつために江戸へのぼる道中であったら、けんかにまけて金出すだろうというところをねらっているわけです。大石さんじっとご覧になっていたが、さすが大石さん、その金出せ出さんのもんちゃくのときに、死んでおるべきはずの人間がどうも死んだそうがみえない。生き生きとしとる。これは死んだまねをしとるんだと、よしそんならひとつこちらにも芝居やってやろうと言うので「赤垣源蔵さん、あなたはこの間新しいあらみの刀をお求めになったというのじゃが、どうぞいなあ、それ向こうがいうとおり買ってやったらどうでしょう。それを赤垣さんはがてんしたわけなんです。「おまえら、何ぼいると言よるんか」
「百両なかったらことすみません、これは家内もあれば、子もあるんでございますから」「ああ赤垣さん、ほんならそれこうてやんなさい」というので、ふところから百両の金を大石さんが出すのです。するとその金受けとった。
そこで大石さんがそばへ寄っていって、ゆうゆうとおっしゃることには「赤垣さん、これ百両で買ったのだからこちらのものじゃ。先刻いうあんたそのあらみの刀まだ人をきっとらんのだから、どれくらいきれるぞいっべんきってごらんなさい。」「ああ、それはよろしゅうございます。」 さっそく三尺二寸の大きな腰の刀をひきぬいた。それをみたところのその雲助らの家族の連中「ああもうちょっとお待ち下さい。」そうすると、死んだと思った人間が目をあけとる。ほらきられたら大変、まあ早速その金をおかえしする。そうすると死んどったんが生き返って向こうへ走ってしもうた。大石さん大笑い。「ああ皆さん、そう走らんでええ、まてまて、まあそらこうしてうちなげたんも気の毒じゃ、まあこれは今晩一杯のみなさい。我々はおまえさん方がうたがうようなものじゃない。だからこういう事をやったんだ。まあ、今晩みなくたびれ直しに飲みなさい。」というて小判をだしてやった。ところがたいへん喜んでおじぎの数々をして帰った。その後、ゆうゆうと長もちを同勢がかついで江戸の方へ上ったという話があります。
これは全くそのうそなんです。大石さんがなさった仕事は、本当にきるんじゃなしに、むこうが金を百両だせというから出した訳です。そこでこれをきるというたら、いかに貧困で金がほしいとも、命と金とは、ようひきかえにせんという所に目をつけたわけです。うそにひとつためしにきってごらんなさいとやったところが、果たせるかな、向こうはそれにのって「まあまってくれ」というので金をかえしたわけでございます。
それはほんとうらしいうそなんで、ここに書いてあるものと違います。本当らしいうそは言うな。で本当らしいうそをおっしゃったのです。けれどもそこがこの本当という事の意味、うそという事の意味です。
これが信仰にかなっていたならば、本当らしいうそで、むこうをしばいをうってやる。そうして、自分の本当は、かたきうちという事が本当なんです。だから本当らしいうそという事にはなっておらんわけです。うそらしい本当なんです。これが、こういう所でまごつきますから五三条はそういう風にごらんになったらよろしいと思います。
忠臣蔵では、これは有名な話でございます。うそらしい本当をなさったわけです。本当はかたきうちがしたい。うそらしい本当をなさった。けれども、しばいは本当らしいうそをした。そういう事になる訳です。
これはよく世の中では、うそをいうのに下手な人がある。うそをいったら、それがとうらんから、うそらしい。
本当らしいうそをいうなと、こう泉先生はおとめになっておるのです。
ただ今申したように、誠にそれをせんじつめていきますと、自分の心に信仰があり、人が感心する事は、本当らしいうそをいわんならん場合がある。けれどもこれは本当らしいうそではないんであって、うそらしい本当なんです。
こういう事になりますから、ここの所をご注意を願いたいのです。
(昭和三十三年十月十五日講話)
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第五四条 「たこという魚は、自分の家を大切にしすぎて身をほろぼす魚である。家を捨てたら身が助かるに。」


泉先生は漁をなさいよりましたから、こういう漁の上のお話で、いろいろ教えて下さったものですが、この「たこ」をとりますのは、粟津の沖などで、つい五、六立いる赤いつぼです。大谷焼きみたようなつぼです。あのつぼのそこに穴をあけて、それになわをとうして、さかさまにつって、沖の中へほうりこんでおくのです。そうしますと、たこは、ああ、ええ家ができたというので喜んで、その中へはいって、もう自分の家としとるのです。そうして、今度は漁をする方が舟にのっていきまして、そのつなをしゃーッとひきあげると、たこがびっくりして家につよくつかまえつくのです。この家も、こわしたらどんならん、たいへんじゃというのでしっかりとその家へつかまる。そうしたらつるつるっとそのなわの上へひっぱりあげられていけ舟へ入れられるわけです。それを先生はおもしろうにおっしゃって、たこは家を大事にしすぎてつかまえられてしまう。家を捨てたら助かるのにと、こうおっしゃったのです。
これは、たこにたとえておっしゃってありますけれども、人間が家を大事にしすぎて、そうして家を滅すことがよくある訳です。これはあなた方がよくごらんになるかと思いますが、この家を大事にするとか、我が身を大事にするとかいう事は、我欲という事に属するのです。
たとえてみますと、これはお年よりの方を悪う言うようになって、私お話ししぬくいのですけれども、お若い人と年よりとが仲たがいなさる事がだんだんあるわけですが、これには若い人は働くのに勢いが強うてこうしよう、ああしようという意見もあります。年よりはまた昔働いていますから、巧者ですから仕事をする上にも、こうしたらよかろうああしたらよかろうという事をよく知っております。そこでわかい衆が仕事をしようとする事を、年よりがそらこうした方がええ、そないしたらいかんとこういう風に考えるのです。そこで意見の衝突ができて、家が不和になるというような事になります。
すなわち、お年よりは家の事を考えよるのです。こうすれば家がくらむ、これはまあ考えの悪い事ではないのですけれども、そこです、泉先生のお考えになる事は、こうすればもうけになるとか、こうすれば都合がいいとかいう事は我が身を大事にする事なんでありますから、そこを家が大事じゃと、うちの家が大事だという事をいわずして、そうして、世の中のためになるのはこうした方がだいぶ世の中のためによけいなれへんかと、こういうように申せば、わかい衆によくわかるのです。けれども、自分は仕事ができんのにごじゃごじゃいうと、こうわかい衆がとりやすうになるのです。ここが大事な所なんでして、家を大事という事は、まあそれも結構でございます。結構ですけれども、本当いえば、家が大事なという事よりも世の中が大事じゃ、人が大事じゃという事を中心にするならば、したがって家が結構になってくるのです。
これも先こくお話しましたあの忠臣蔵をごらんなさい、みな自分のお家を考えずして、主人公の恨みを晴らす忠義をする。こういう事で自分の家の事なんか考えておりません。それが今日、皆にもてはやされて、忠臣蔵といえば、いかな人も芝居をみにいくという事になっておるのでございます。しかも、あれは元録の時代でございますが、ただ今から三百年、やがて四百年にもなりますけれども、その忠臣蔵四十七士の子孫の方々のお家は、立派なそうでございます。これは家を思わずして人を思う、世の中を思う、主人を思う、こういう事がありましたために後々の人は、たいへんそのご先祖の働きのご恩をうけて、今に立派な系図が残っており、家が続いておるという事になっておるのです。
私が先年鞍馬の山へお参りにまいりましたが、あの鞍馬の山の西の谷、そこで忠臣蔵の方々が二、三人あそこへおはいりになってくらしておいでたというかくれ家があります。今にその系図が続いております。その四十七人の方は切腹なしたけれども、その後ご家族の方が今に人に尊敬される。また子々孫々にあたる方は自分の先祖は、こういう立派な人にほめられる先祖をもっとるんだというために、たいへん立派な子どもしができて、そうして、あの谷で三げんありますが、今に大きな家でありませんけれども、きれいにくらして人からは尊敬されております。そういう風に自分の家はよかったらええという事になれば、人はどうでもええという事になるわけでございますから、そこの所を泉先生は、たこにたとえて教えておられます。
それからまた、こんな事もおっしゃった事があります。泉さんが「村木さん、かにつかまえて足ぬいといてもにげるぞなあ」「ええ、そうですか」「くももそうじゃ」こんな事をおっしゃった事がありますが、なるほど、かにの足をつかまえると足ぬいといて走ります。くもつかまえると、くもでも、足ぬいといて走りますが、これはもしあの足をぬいて逃げなかったら、体をやられてしまうのです。えびもそうです。だいたいこれは後から足がはえてくるのです。
けれども足はぬきたくないでしょう。いたいから。けれども足が大事か、自分の一生がだいじかということは、あんな虫けらさえも知っておるわけです。にかかわらず、人と生まれて、家をあまり大事にしすぎて、たこがいけ舟の中へっかまえられて、しまいに煮て食われるというようなことになるのをみながらも、自分がそういう間違いをしておることがあります。
これは、あまり私は言いたくありませんけれども、世の中には、家が大事じゃ大事じゃというて、後からおいたっていく人に、信仰でない我が身そくさいを教えておるようにきこえるのです。私の耳には。そういうことになりますと気の毒なけれども、そこのお若い衆は、頭が下がらんことになるのです。ここを泉さんはじょうずにたこにたとえておっしゃられたのですから、ここは、たこということに考えずして、人というとさわりますから、それでわざわざ、たこにたとえて先生が、おもしろうに教えたのでございますから、どうぞそのおふくみで五十四条をごらん願います 。
(昭和三十三年十月十五日講話)
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第五五条 「天地には、始まりも無ければ終りもない。神は この天地のすべての法をつかさどる。人は、この間に生まれ出て悪行を尽くして、法に触れて苦しむ。神はこのあわれむべき者を救い導く為に、生神をこの世にくだして神の大慈悲を示させ給うのである。」


この人間が、住んでおる世界と申しますのは、たびたびお話し申し上げます通り、始めも無ければ、終りも無いのです。始めが無いとはどうなのだろうかとお思いになる方もありましょうが、これをただ今からずっーと何億年、何十億年とさかのぼりますと、次第と土地は形が変わりまして、火の玉という訳になるのでございます。
月にしましても、日にしましても、星にしましても、皆そういう具合で出来ておる訳です。そうして、それが冷える。冷え切ってしまうと又何かの都合で衝突して、それが新しく火の玉になる。こういう事が、今日のすべての学者の唱えておる一致点でございます。そういたしますと、この天地すなわち、字宙というものは、始めが無いと言える事です。又そういう風にしきりに変わって行くのでございますから終りが無い。始めが無ければ終りが無い、という事になる訳です。ところが、その火の玉になり冷えて、ぶつかって、又火の玉になる。 こういうその間がとてもとても口で言い切れぬところの長い月日がたっている訳です。
最初は火の玉でございますから、その中にはまず字宙というものの大きな事はさて置きまして、我々が住んでおるこの土地の事を考えますとよくわかるのでございますが、火の玉の中には、生物がおるはずがありません。我々が今日申す生物はおれんはずでございます。ところが火の玉でございますから、月日がたつに従って、それが段々と冷えてまいります。丸い玉がしわがよってくる訳でございます。冷えてしわがよる。そういう風になりまして、そのしわの高い所が山になる、低い所が谷になってずっーと落ち込んだところが海になる。その低い所に水がたまる。それが今日いうこの地球の出来た有様でございます。その最初冷えました時に、始めてここに出来たものは草木も無かったと思います。又生物としても、目に付く様な大きな物は、無かったと思います。あろうはずがないのです。
そこで始めて出来ました生物は何かと言いますと、肉眼ではむろん見えない。顕微鏡で千倍に見てもまだ小米粒位にしか見えないという様な小さな単細胞動物、すなわち細胞が一つしかない動物、これが恐らく我々の最初の大ご先祖と言わなならん訳です。
ところが不思議な事には、この単細胞動物は親も無ければ子も無し、家族も無ければ兄弟も無いという不思議な生物なのです。なぜかと言いますと、この単細胞動物がふえていきますのは、顕微鏡で見ますと丸い一ツのゴム手まりのような又玉の様なんですが、千倍に見て米粒位しかない。その細胞を顕微鏡で見ますと、中に核と言うて黒く丸く見えている物が中にあるのです。鶏の卵の中に黄身がある様な具合に。それを核と言うておりますが、その核が、細長くお蚕の繭のようにしぼれて来るのです。次第次第と、そのしぼってあるみぞが深くなって、二ツにち切れるのです。そうしてち切れた両方ともが生きておって元の単細胞動物と同じようにふくれて来るのです。すると又ち切れて来るとそういうようになりますから、一ツが二ッになり、四ツになり、八ッになり、十六になりとこういう風にふえていきます為に親が無い訳です。従ってそれは女であるとか、男であるとかいうものがないのでございます。
これを分裂繁殖と言うております。すなわち二つに分かれてふえていくのです。こういうふえ方しておりますから 私が先刻申す、親も無ければ子も無ければ兄弟も無いというのはこういう訳なのです。これが我々の一番の大ご先祖と言わなければならんのです。そういう事になりますと、この分裂繁殖いたします為に命が無窮にあるという事ができるでしょう。年いくらと言えないのです。生まれていないのです。分かれているのです。生まれていないのであるから死なない。死ぬはずがない。ニッニッに分かれていく、それが皆若やいでいき、分かれて二ッになりするんですから年というのは無窮に永続するという訳です。これが我々ご先祖の有様なのです。
これをお経文にはどう書いてありますかというと「不生不滅、不垢、不浄、不増不減」と書いてあります。どういう事かといいますと、生まれていないのだから死にもせんのじゃと、これふやすのだとか減らすのだとか言うたとていくらでも分かれていくんだからふえるんでもなければ、減るんでもない。これが地球の上に全般に渡っていると、こういう事になるんですから、これをどうする事も出来ない。そうしてそれであればどういうわけかと言ったら、生きている、生きているのだが、今日の我々のごとく、争いというのがない訳です。又争いがあろうはずがないのです。雄もなければ雌もない、親もなければ、兄弟もない。自分というものさえないといえる位のものなんです。ところがこの清浄なる争いのない、きれいな世界が、次第と生物が進化して次第次第に形が複雑となり、今日動物が十万種類からもあるような形になってきた訳でございます。最初はそういう訳で、大ご先祖は、争いはありませんけれども、後々天地自然のこの働きによって、恵まれて複雑になればなる程食物の争いが出来ます。又、雌雄と申して陰陽の二ツの身体になっとります。為にこの間に争いが起こります。又その間に強い者もあれば弱い者もありまして、強い者は弱い者をいじめてでも、自分が繁殖しようとするところの闘争が起こります。それが為に強い者が勝ち、弱い者は滅びていくとこういう事になる訳です。たとえば、この頃土地から掘り出したり、あるいは、海の底からあがって来たりするところの、あの熱帯に住んでおる、マンモスという、大きな体が、千貫もある様な大きな動物がありますが、あるいは龍、今日絵に書いてある龍、あれは、は虫類の種類でございますが、ああいう偉大な体を持っとるものが、小さいものにやられたのはどうですか、今日マンモスはおりません。なぜかといいますと、人間のような小さな動物の方が知恵がありまして、色々飛び道具で、あれをやりつける。づう体が大きい為に食料もたくさん取らなならん。そうはいかない。と、そういうような訳になりまして、あれは、地球の上から葬られた訳です。形の小さな知恵のある人間が今日は全世界に勝った訳です。
その間に生存競争が起こった為に、必ず悪い事をしておるのに違いないのです。弱い者かみたおすとか、あるいは人の物奪い取るとかこういうような残虐な、誠に気の毒な事が顕われて来るのです。
ところが今日になりますと、人間同志が大変な争いをしとるのをご覧になりましょう。いちいち申しますに及びません。あの刑務所に入っている人等は人間の歩くべき道をあやまって、ああいう所へ押し込まれて日を過ごすというお気の毒な生活をしておるのです。その事をこの五十五番に書いてあるのでありまして、悪行を尽くせば法に触れ苦しむことになる。法に触れるというのは、天地自然の教え、すなわち神仏の教えにそむくことをいうのです。
この神仏の教えの法に触れますと必ず滅びてしまいます。あるいは押し込められてしまいます。これは、神様の目から見れば、皆これ子なんです。すなわち単細胞動物の時代から言うなれば、岩も、木も、石も、水も生きとるものも死んどるものも区別はない訳で、神様の目から見れば皆これ子です。その子が悪い事して苦しんでおる者を、何とかして助けてやろうとこういうお思召しが、親心にあるのに違いない。
そこで、これを導くために天地自然の法というのがある。けれども、それを知らないのであるからして、やはり同じかっこうをした人間を救うのには人間でなければ教えられない。そこで天地大御親が人界を救う為、生物を救う為に、ここにその理を悟ったところの偉い人を土地の上へ生まれさせて、そうして天地自然の慈悲はこのように深いものであるぞとお教えになる。そして我が子の如く育てるのだ。この親心を察しましょう。
なるほど、その通りで、津田に泉さんという人が生まれたとか、あるいは、屏風ヶ浦に弘法大師という方が生まれたとかいう事は、すなわち今申す様な具合に、天地大み親が後々生まれて来よるところのものが、知らずして踏み迷うて天地の法に触れて苦しむのがかわいそうだ。というので教える為に、そういう人を生まれさしたという風に見えるのです。泉先生はその事をおっしゃっとるのです。でありますから、その神様の代理として生まれた弘法大師等のごとき方、あるいは泉先生の如き方は、ご自身はどうでもよい、我が事を考えずして、ただ助ける一色の一生を終えた方です。こういう天地自然の大きな成り行きを泉先生はお知りになっていた訳です。 このように生神、生仏としてこの世に役割を果されている方は、実にお気の毒なお仕事ぶりなんです。ご自分の身を考える余地がない。その親神の心を自分の心として、そうして迷って、悪業を積んで、われと我がでに苦しんでいる者を助けておいでる訳なのでございます。これが五十五番でございます。
この五十五番に書いてあるものは土地のはじまりから実に大きな舞台を書いているのでございます。せっかくこの世に生をうけた我々がどういう考えで暮したら良いかという事を教えている訳です。
(昭和三十三年十月十五日講話)
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第五六条 「禍は、得んと欲するところに生じ、福は、譲るところに生ずる。」


人のあやまちはどういうところから生まれて来るのであるかと言えば、わざわいは得んと欲するところに生じる。
さすれば福はどういう訳ならといえば、福は譲るところに生じる。こう泉先生はおっしゃったのです。
人間のわざわいというのは、何でも欲しい、欲しいという性根から生まれて来るんだ。幸福というのは、人に譲るという性根から生まれて来るんだとこうおっしゃっております。実に考えれば考える程まことに尊い言葉であります。
この五十六条に書いてあります事は、お釈迦様の教えによりますと、これは四締と申しまして、糸ヘンに帝という字を書いてあります。四締まあ仏教では四締と読みますが、すなわち苦、集、滅、道、この四ツでございます。その苦というものは何処からできて来るのならと申しますと、好きな物を集めようとする所から出来て来るのだとお釈迦様はおっしゃっとる。それならその苦痛というものを無しにする。幸福への道はどう行くとよいかと言いますと、それは教えの道というのがある。その教えの道を歩いていけば幸福が得られるんだと、こうお釈迦様はおっしゃった。
泉先生のおっしゃるのは、苦というのはどこから生まれるんならと言えば、欲しい物を集めようとするところからじゃ、幸福というのは、どこから生まれるんなら、人に譲るところからだ。よう似ておりましょう。こういう偉い方のいうことは言い方こそ違いますが、よく似とるものです。これは私が達者な時に、あなた方の前でお話し申しましたあの苦、集、滅、道の四締この事でございます。
それでは人間の苦というのは、どんな苦があるのかと言いますと、四苦とか八苦とか言います。四苦という四ツの苦とはどんなもんかと言えば、生、老、病、死です。生まれる、年がよる、病む、死ぬ、生、老、病、死、これが四苦でございます。その上へ、四つ加えたのが八苦になるのです。その四ツは、何かと言いますと、愛、別、離、苦、
これは自分が好きなものを離すのは、きらいだという苦です。たとえば、財産が欲しい。そして、財産が出来たとして、その出来た財産を無くしてしまうのは惜しい。あるいは、自分のかわいい子であるとか、あるいはかわいい人で あるとかいうような人に別れるという事は実に人間の苦痛だ。愛別離苦です。愛する者に別れる苦労。
その次が、怨憎会苦というのがあります。これは怨憎と言うのは、憎む、憎しみと言う事なんです。怨憎会苦と言う事は、きらいと思う人、憎いと思う人その人と一緒に暮らさなならんという所の苦です。かたき同志が一緒に会うてこの世で暮らさなならんという苦です。これもつらい苦です。世の中にも、家の内にでもありますよ、あの人きらいだ。好かん、好かんと言うたところで、これ家族の一員として、どうする事も出来ない。その人といっしょに暮らさなならん。怨憎会苦です。憎しみを発した人と一緒に暮らすというのは、つらい話です。これは、つぶさに皆さんは、多少にかかわらず、味わっておいでる事だと思います。
それから、今度は「求不得の苦」と言いまして、欲しい欲しいと求めておる物が得られん場合にはこれも苦です。
あれ欲しや、これ欲しやと、欲しい物が沢山ありましょう。それ得られたら満足か知りませんが、得られなかった時は苦痛です。これを求不得の苦と言うております。
「五蘊盛苦」と言いまして五蘊と言いますのは色、受、想、行、識を五蘊と言います。すなわち色と言うのは、目に見えるものすべてのものです。それから受といいますのは、自分の目に映ってくる、耳に聞こえて来る、受け身になる方です、受、想というのは、その目や、耳から入って来たんで刺激せられておもう事なのです。想と言います。
行は人間の行動、識は人間の心で知るという心です。この色、受、想、行、識の五蘊です。五ツが非常によく動くのです。人によりまして、あんまり見たり聞いたりしても、心が動かない人がありますけれども、中には取り越し苦労までして大変苦しむ人があります。まあ、これを医者に言わすと、神経衰弱とでも言いますか、そんなに考えなくともよい事を考えて苦労している。これを五蘊盛苦と言うのです。この四ツですね。愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦、求不得の苦この四ツと、生、老、病、死の四ツを、合わしまして、八苦と言うとります。
人間は、四苦八苦して暮しているというのはこの事なんです。それをかわいそうに思って、偉い人、すなわちお釈迦さまだとか、お大師さんだとか、あるいは泉先生だとかいう方は、この人間が、四苦八苦の苦しみをしておるのを導こうとして教えたものが宗教なのです。
それなら何によってこれを助けるか。今のはこの四苦八苦ができるのは、何かと言うと物を得ようとするから出来る。欲にかまえて自分の欲しい物、どれもこれも集めようとするから出来た。今度それを助ける。幸福の方へ向いていくのはどんなにすると、良いかと言うと、八正道という事を教えとります。これお釈迦さんが教えております。
すなわち正見、正思、正念、正語、正命、正業、正精、正定。上に正月の正の字皆付けてありますが、これは正しく見るという事を、正見と言います。正しく考える事を正思と言います。正しく念ずる事を正念と言うております。それから正しくものを言うという事を正語と言うとります。正命、命という字を書いてありますけれども、これは命と解釈するのではなしに生活とみるのです。正しく生活する、これが正命です。それから正業という、業と言いますけれども、これは業の字書いてあります。正しく日に日にのなりわいをして行く。自分の事業が色々ありましょうが、それを正しくしていく。商人ならば商売、農家の人ならば農業、そういう事を正しくする。それから正精と言いますのは、これはお務めです。正しく務めていく。世の中に務めていく。社会的に務めがありましょう、それを正しく務めていくそれを正精と言っております。それから正定と申しますのは、定の字を書いてありますが、これは信仰の方でございます。信仰にも間違った信仰もあるのです。けれども、弘法大師とか、お釈迦さんとか、泉先生とか、いうような正しい教え、その正しい教えによって、信仰を進めていく事を正定、正しい信仰と言うのです。
この八ツでございますが、しかし口で正しいと申しましたところで、まことにわかりにくい言葉でございますが、この八ツの八正道の正の字を書いた意味はどこにあるかわかりやすく申しますと、私心がない。もう一言い換えますと、我心がない。もう一ツ言い換えますと、我が身を中心として考えていくのでない、それが正しいという事なのです。考えてご覧なさい。大抵間違いは自分を中心として考えるから人が邪魔になるのです。そこで自分のする事が 人に害のある事をやります。もとの起こりは自分を中心としとるから、そんな事になるのです。
それで、その正の字を付けた意味は、自分というものをのけてしまって、そうして人にお付き合いをする。そうすると、その人は正しい人なのです。もう一ツこれを言い換えますと我心、我心というのは自分さへ良ければよいという事を我心と言います。どうですか、あんた方のお家はそういう事は恐らく少ないと思いますが、この我心というもので暮らしている人同志が、集まった家庭であるとどうなりますか、五人あれば、五人ながらが自分がよかったらよいというのであると必ず衝突する事受け合いです。我心というものが無しに自分中心の考えはのけておいて、人と人とが丸く喜んでいこうという事になりますときれいに納まるのです。
これについてこんな話があります。ある農家で若い衆が馬を追い出して田圃を耕作する。細君はそれについて唐鍬で掘る、又お父さん、お母さんもお手伝いする。家族が皆田圃へ出ていた訳です。後にお爺さん、お婆さんが留守もりをしておったのです。そのおうちでは、ちょうどたくあんを漬けようと思うて、家のすぐ裏の畑へナル(棒)で大根を干してあったのです。ところが田圃から馬が放れて飛んで帰って来たのです。そしてお爺さんお婆さんの知らぬ間に、裏の畑につってあった大根を馬がみんなこぶって下へ引張りおろしてしまった。そこへ息子さんが戻って来た。
その時に「ああ、お爺さんお婆さん、悪い事しました。私が馬を離したために大根も、裏の畑も踏みこじゃにしました。私が悪うございました。」するとお爺さん、お婆さんが「いやそうでないわ、留守しとる者が家におってからキョロキョロしていたので、こんな事になった、わし等が悪いんじゃ。」又嫁さんが、後からもどって来てから「いや、そらどなたも悪いのではございません。私が馬を守っていたらよかったのに、私がうっかりしていたので馬を離してしもうたのでございます。」こういう風に悪い事の責任のうばいあいで、皆が我心がありませんから、その家は、非常にきれいであったという話があるのでございますが、このようにどうぞ責任とか悪い事は、自分が負うとこういう風になりますと、つまり我心がありませんからきれいになる訳です。その事を泉先生がおっしゃってあるんでございますから、五十六条はどうぞさようにご承知願いとうございます。
(昭和三十三年十月三十日講話)
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第五七条 「おとなえは、神に向かいてのごあいさつ。」


おとなえと申しますのは、六波羅密のうちの禅に当るわけです。施行、忍行、戒行、精進行、禅行、智行と、この六波羅密行です。この禅行に当るわけでございます。あるいはご真言をくる事も禅行です。又お称えする事も禅行です。あるいはお念仏言うのも、神様の前で何か申し上るという事もみな禅行なのでございます。これは、神様に向かいてのごあいさつであると、こう先生が、おっしゃったのです。
この神様の前でおとなえをいたしますのを、形の上あるいは、心の上でそれをわけてみますと、神様に対してお礼を申し上げる、あるいはものをお頼み申し上げる、あるいは又、おわび申し上げる懺悔です。こういうような、色々な意味が含まれているのですが、単にお称えと申しましても、おとなえするのには必ず意味が有る訳でございまして朝おとなえをして其の日の安穏をお願いする。あるいは晩におとなえして、その日のお礼を申し上げる。こういう風におとなえには必ず何か意味が含まれている訳でございます。主にお礼を申し上げる。讃岐の方では、おがむことをよくお礼するお礼すると言うておりますが、これ等もその一例でございまして、お礼を申し上げるという事が、ずい分おとなえの中には多い事になります。
それからお頼みする、こういう事です。所が、このおとなえと申しますのは、三密加持のうちには入っておりまして、六波羅密の禅でございますが、これをわけますと三ツになる訳でございます。其のおとなえをしている人の姿体です。それは泉先生が拝む時は、左手を上に重ねております。体でそうして、きちっと座って、行儀正しく、神様の方へからだが向いて居ります。それから、口には帰命天等は、あるいはご真言のおん、きり、くうぎゃくうんそわか 」、まあ外の事でも宜しうこざいます。光明真言でも結構でございます。すべて口に唱えております。それから心ではお礼言う時には、お礼を言う気で居ります。又お頼みする場合には、お頼みする気でおります。この体と口と心と三つが合いますと、これを三密加持と申しております。
「それでこの加持というのは前にも申し上げました通り、加というのは加わると書いてあります。力の字の横に口の字書いてある。ものが加わる、これは、神様の方から人間の方へお陰が加わって来るという意味です。加持の持というのは手へんに寺という字を書いてありますが、持つという事です。持つ、すなわち神様の方からお陰が加わって来ているのを、自分の体で持つ、受けるとこういう事が加持の意味なんでございます。それでこのお称する時分には三密加持、すなわち体と口と心、この三ツの働きを神様の方へ差し上げて、神様の方からお陰が我がからだへ加わってくる。このように念じます時に不思議に心が大変力強く動くのでございます。これは言葉の上で体で型をして、口でおとなえして、心で思うと、こう申したら何でもないようですけれども、これがむつかしいのです。
どうがこうでもお願いせねばならぬ、もうどたんばである。どうがこうでも命がけでお願いせねばならぬと言うた時分の、この身、口、意の三ッの働きというのは、写真にさえ写る場合があるのです。念ずるという念力は、写真にさえ感光する場合があるのですから、目にこそ見えませんが、人には非常に感ずるのです。
これは私にこういう場合がございました。これはどうしても神さんに聞いていただかねばならぬ、かわいそうだ。
どうしても聞いていただかないと、このままにして置くとまことにかわいそうだ。こう思う事がありましたのです。
そうしてそのかわいそうな人、私の隣家では一ヶ月の間に(家庭持っとる人なんですが)先ず四、五千円生計費が足らんのです。なぜ足らんのかと言いますと、ご主人が、つい、お遊びになる為に、金が家へ入らない。それをやかましく言うと益々ご主人は乱暴を極める。というて、その人は馬鹿かというと馬鹿ではありませんが、一種の悪魔につけられとる訳です。わたしは非常にかわいそうに思うた。子を育てている人ですが、何もその細君には悪い所はありません。けれども、何とかして、この場をこぎ抜いて子供を養育してやりたい。別れるという事も、子供の為には将来かわいそうだ。わたしが犠牲を払って何とかして、この金をどうにかして工面せんというと子供が大きくならない。
それでわたしは、それを見兼ねまして、これご主人に何とか一つ聞いてもらい度いと思うたけれども、私からそういうような事をご主人に話したくないのです。それは、口の上で言う事でありまして、向うさんが何とか、わたしの心掛けどうしたらよいでしょうかというご相談があるんならば、わたしは力を入れて、お話し申し上げたいけれども向うさんが悪魔に付けられて、ほとんど酔いしびれとるという姿でございますから、いかにわたしが力を入れましても、あるいはその効果は逆の効果があるかも知れないと、こういう事を私は考えたのです。
さて、こういう場合にどうしたらよいのだろうか。私から、物でお助けしたのがよいのだろうか。そうするというと、その為に悪い事もある訳です。そこで私は一晩考えたのです。これは、ここの五十七条に書いてあります。お称は、神に向いてのあいさつ、泉先生は、こうおっしゃったのですが、私は、おとなえはいたしませんが、前へ座りまして、何とかしてという一生懸命の気持になったのさえも、自分が知らない位になっていました。
そこで私の心のうちに浮かぶ事は、金を与えるのはしよい事だ。これはわたしがためてある金を、その人にあげる事は何でもない。しよい事です。しかしながら、これはわたしの行にならない。金は多額でないから何でもない事であり、てっとり早い事でありますけれども、私の心が通わんと、ご主人の目がさめない。それを何年わたしが運んだところで、それ益々向こうは、それになれてしまうかも知れない。こういう事を考えました。今ためてある所の物は 一切手を触れられんという気持になるのです。わたしが今からこしらえて恵んでやれとこうなんです。しかしながら私は、皆様もご承知の通り何を働いてどうするという事は、それはかかってすれば出来ん事はありませんけれども、もう隠居している身分であって、今更事業する事も出来ませず。
そうした所が不思議な事には、酒のにおいもきらいになってしもうたんです。酒屋がそんな事言うと、おかしな話ですけれども、それとたばこの匂いまでもきらいになってきたのです。これはわたし妙な事になってきたなあ、先ほどからあの人の事、かわいそうに思うた為に、ころっと気が変ってしもうた。そこで考えた事には、こういう風に気持がなったのは、これはお前いらん事でないか、酒呑んでも我だけの楽しみ、お前が酒飲んだところで人が喜ぶか。
お前がたばこ吸うたとて人が気持がよいか、それは、お前さん一人の楽しみであって、人には何ら益がない事だ。
こうわたしは考えたのです。ははあ、これは、今までわたし一人楽しんで、人には何もあげてない。そこで考えてみました事は、それを全然やめてしまうという事になりますと、一ヶ月後には何でもない事です。止めた所で、それだけ使わないのだから、その人にあげたんじゃない、あげた事じゃない。
私がやめたのが、風で飛んでいったというような事でしょう。これこそほんとうのもうけた金じゃない。お天道はんから降ってきたのが、向かいの屋敷へ降っていったんじゃと、こういうような考えをいたしました。これがすなわち神様の。お称えはしておりませんけれども、ごあいさつしよるような形になってきた訳なんです。そうして日がたち今日になりまして、約一ヶ月位になりますが、不思議やそのご主人が、何を思うたか、今まで家庭へ入れなんだ金を、何、寝ぼけたのか持ってかえって、細君に渡した。あり余るほど渡したという事をわたし聞いたのでございますが、実にもうこれは、お陰があったのを不思議と言うなと泉先生のお教えでございますけれども、なるほど、不思議とは言われませんが、ここでわたしは始終あなた方に申すんですが、何か願がある、お願があるというた場合には、別にこういうお願いよろしくお願いしますなんて言わなくても、心で思うとったら、向こうさんご承知なのですから、それに対する代償です。自分の体を責めるか何かしてここに代償を払って、そうして、それを神様へおまつりする。すると、神様がそれを回して下さる。こうなるようにわたし思うのでございます。
まあこれは、私の実例でございましたのですが、あのおうちならば、よい方に向いていかれるだろうと思うて、わたしは喜んでおるのでございます。何も私は、つらい事も何もない、寂しい事も何もない、手間が掛からないでよくなりました。これを泉先生は、常におっしゃっておいでる。わたしは、あなた方にお話し申しながらも、ただ言葉でわたしが申しよるのでございますが、ありありと自分の目の前に、これを体験したという事は今回ほんとうに痛切に感じた訳で、この事をあんた方にお話し申して、このおとなえというのは、神様に対するごあいさつなのだから、体と口と心で思う事と、この三ツを揃えて神様の前で一生懸命になれば通るという事だけを、お話し申し上げたいと思うのです。これは泉さんもご生存中によくお話しがあった事でございますから、さだめし、あなた方も私から何回もお聞きになった事だろうと思います。
(昭和三十三年十一月十六日講話)
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第五八条 「神様はすべてのものを同じように愛せられる。低い所のものは高い所へ、高い所のものは低い所へと入れあわせをつけられる。 我々は、常に低くいるのがよろしい。」


神様はすべてのものを同じように愛されると書いてある。それならば、悪い事するものでも愛するか。田んぼにわくうんかでも愛するか、こういう事に、まあ理屈の上から言えばなる訳なんでございます。これはつぎのように解釈願いたいのです。
神様という方は自性がない。ご自分に都合がよいから、これをかわいがる。自分に都合が悪いから、これを退ける。ご自分を中心に考えて、愛するのではないのです。自性がない。すなわち、あれをかわいがってやろう、これを憎んでやろうという考えがないのが神様です。人間がかわいがるのとくらべますと大変違います。人間は、自分に便利だからかわいがる自分に便利が悪いからいやだと排斥する。こうなります。神様の愛というのは、そんなのではないので、善とか悪とかは人間がわけているのです。神様は蚤も、うんかも、それを育生させておいでる。
そこで大事な事は、この人間が生活する上に置きましては、不便なものと、便利なものと、ある訳でございます。 同じ虫でありましても、蚤や、しらみや、蚊や、はいや、うんか等は、これは人間の生活には不便なんです。所が人間には知恵というものをくれてあります。自分の便利の悪いものはのいてもらう。薬品を製造して、それを除いてもらう。こういう事になっておりますから、神様はすべてのものを愛しておるのでございますから憎まないように、自分の人間生活に便利が悪いのは除いてもらうと、こういうような方法でいくのがよろしいと思います。
そこで我々は、常に低くおらねばならないというのは、その事なのです。高くおるというのは、これは便利が悪い、不都合なやつじゃとたいへん憎んでむごいめにします。これは良くないと思います。人間生活に便利が悪いと思えばのいてもらえばそれでよいので、憎んだらいけません。これについておもしろい事があるのです。
わたしが撫養の店へ行っていました時分に、あの店の横に河原がありました。あすこへは、まむしが沢山でてくるのです。折に若い衆が見付けまして「はみ(まむしのこと)がでてきましたぜ」って、わたしの所へ言うてくるのです。すると、わたしが飛んでいきまして鎌で頭押えるのです。そして首つまみます。そうすると、口はります。あのはみというのは、上あごに二本管針があるのです。歯の先に穴があいとるのです。かみ付いたら、その歯の先から毒が出て、体の中へ入るような仕掛けになっとるのです。まむしの首つまんでいると、歯が二本見えるのです。そうすると、若い衆に毛抜きを持ってきてもろうて、「おまはんは、この歯は、生活にはいらんはじゃ、人を噛む歯じゃから、なくてもおまはんは暮らしは出来るんじゃから、これ預かっておく」と言って、その歯を二本抜いてしまいました。あなたがたの友達に「あしこの河原へ出ていくなよ、歯を抜く人がおるぞ、そう言うて皆に言うておいてくれ」 そう言うて、とらえて齒抜いて、放し放ししていたのです。不思議な事には河原へもうさっぱり出てこないようになりました。
このようなもので、泉先生のおっしゃるのは、我々は常に低くおれ、低くおるということは、向こうを相手どって憎んだり怒ったりしないという事なのです。けれども、人間に害があるものをかわいがる訳にはいきません。蚤がわけば のみ取り粉ふるのがよろしい。そのようにのいてもらう。人間は強いのぞ、お前等には負けんぞと高う居るのでなくして、済まんけれどものいてつかはれ、こういう風な気持ちを持つ方がよろしい。と泉先生は虫けらに至るまで、そういうように非常におだやかにおっしゃっとります。
般若心経に「空」という字を書いてあります。観自在菩薩が深般若波羅密多行を、行しなさった時分には、五蘊を空と照見する。そして一切の苦厄を度すると、こう書いてあります。五蘊というのは、色、受、想、行、識の五ツを「ごおん」 五蘊と言いますが、ご承知の通り色というのは、目で見える物皆色、即ち物質です。受というのは、耳とか、目とか鼻とかが受ける、外の物を受ける。耳から音が入って来ます。目から色々な物が映って来ます。鼻からにおうて来ると、こういう風に受けるのを受と言います。それから想というのは思う、心で思う。行はそれを行じる、識は知ると、こう言うのです。だから五蘊、色、受、想、行、識、の五ツ、これを物質と心の働きと、この二ツにわける事が出来ます。深般若波羅密多を行した時分には、体も心もすべて空という事がわかってくる。それは空だ。有るように見えてもそれは、実際は無いんだという事がわかってくるならば、すべての苦労が、無くなると、こういうむつかしい事書いてあるのでございます。
この空はなんです。空ってどんなものかと言いますと、神様のお心のうちは人間のように憎んだり、怒ったりは無いのです。無自性と言いまして、自性がない。もう一ツ言い換えますと、空なみ心なんです。そんな空って無いんかと言いますと、無いんではないのです。有りますけれども、人間のようにその極端に動かない。その空というのが自分の体に体得が出来たならば、大変なお蔭で苦労がないとさえいう位の大した所の働きなんでございます。
この神様がすべての物をかわいがるというのは、空のみ心でかわいがっておいでるのです。これは、むつかしい話で、なかなか口では言いにくいのでございますが、空という事が体得出来ますれば、大した聖人なんでございます。この泉さんがおっしゃる所の、神さんのみ心というのは、そういうような意味なんでして、神様も人間に毒になるものまでかわいがって困るなあ、こういう事も言えん事もないけれども、神様のお心は、そういうんじゃなくして、すべての物を育てるという所のお考えなんです。 今ここで毒じゃと言いますけれども、それは使いようによりまして、毒になるのでありまして、たとえば、けし坊主から白い乳のようなのが出ますが、あれはアヘンと言いまして、人をまひさす力があるのです。あれを多量に食べれば、麻痺して失心しますがそれを体へ適当なだけ注射するならば、人が助かる、こういう風に使用の道が違えば毒な物が薬に変じて来るんでございますから、神様はそういう毒とか薬とかいう隔てを無くして、すべての物に慈悲をお掛けになっとるという意味をここに書いてあるのですから、ここをかん違いの無いように。神様はすべてのものを愛しなさる、ここは人間と違う所ですから、よくこの所を間違わないように。
人間は好きなものでなければ愛さないのです。きらいなものを愛するということはありはしません。あんた方そうでしょう。それは人間根性なのです。神様のお心なれば、自分に仮に不便なものであってもかわいがる、又自分に便利なものじゃから、それをかわいがるという事しないので、便利であろうが、なかろうが、すべてのものに対して、慈悲を掛ける、これが神心なんです。人間の性根では、わかりにくい所なのです。
だから、どうぞ五十八条に書いてあるのは、どういう事かと言いますと、これはわかりにくい事ですけれども、一口で申すならば、自分に便利なから大事にする、不便だからきらうというような事せずして、神心のようにすべてのものに対して慈悲心を使う、そうして便利の悪い時には、それをこちらが除けて、向うさんに除いてもらうと、こういつも低くおるのが人間の運がよいぞ、こう泉さんはお教えになっとるのです。
(昭和三十三年十一月十六日講話)
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第五九条「衣食住にわずらわされず、いつもよろこび楽しむ人は富者である。」
第六十条「足るという事を知れる者は、富者である。」


両方よく似ておりますので、いっしょにお話しする事にいたします。これは、どんな暮らしでも不足言わない。結構だ結構だ足る事を知ると言うのです。足る事を知る者は富者なり。どうですか、人間はどうも、その足らん足らんといつも思う癖があるのです。あんた方はそういう事ありますまいけれども、まず、たとえば一万円位もうけたらと思うて、一万円もうけてみると、こんどは十万円と言い出す。十万円もうけると、今度は百万円と言い出す。足るということがないのです。それから、これは金の事ですけれども、衣・食・住・暮らしの上にです、バラックのような家でも建てられたらとこう言うのですが、さてバラックのような家を自力で建ててみると、その時は又こらどうも不便だなあ、これもっと良いのを建てたらなあ。次第と建築でもよいものよいものに進みたいくせがあるのです。食べる物でも泉先生は、お腹がおきたらよいんだとおっしゃって、いつも食べものには、苦情おっしゃらないのですが、一般を見ますとなかなか近時は、食事でも非常に進んできとりますが、まずおいしくない物より、おいしい物が良いとこういう風に人間は、いつも、より良い方へ、より良い方へと、いこうとする癖があります。そこで泉先生は、五十九条と六十条とで、それを戒めまして、こう書いてあるのです。
「分限者というのは、どういう人を言うのか、長者です。それは足る事を知っとる人を長者と言うのであると泉先生はおっしゃったのです。これで結構だ、着物でも木綿の一重物を重ねて、冬でもおいでたんですが、これで結構だ、これで結構だとお思いになっとったのですから、もう不足がないのです。心に不足がなかったら長者なんです。
どうですか、あんた方金がたくさん有るのを長者と言いますが、金がたくさんできたら、まだその上が欲しいのです。家を建てるにも、もっときれいなのがほしい。終りには、苦情の果て死ぬのがいやになっていつまでも生きとうなってくる。人生さえ不足になるのです。一生がい満足する事なしで終えねばならんのが、これがいわゆるお長者なのです。所が泉先生のおっしゃる長者というのはそうでない。これで結構じゃ、あ―これで結構じゃと何事にでも足るという事を知っとる人が、これがほんとうの長者だとおっしゃったのです。これをよく味わって下さい。
皆様、金が多かろうが少なかろうが、家が立派であろうが立派でなかろうが、これで結構じゃと言う長者になりませんか。私はそれが好きなんでございますが、そういうお方こそ、私は共に拝み合うて、泉先生に喜んでもらえるお方じゃと、思います。どうぞ足る事を知るという一生を終える事を望みます。
(昭和三十三年十一月十六日講話)
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