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第四九二条へ 第四九三条へ 第四九四条へ 第四九五条へ 第四九六条へ 第四九七条へ 第四九八条へ 第四九九条へ 第五〇〇条へ第四九一条 「この世で神仏をしたえる人は、皆前生の世に功徳をつんでくれてあるおかげであると感謝せよ。」
これも先生がなかなか珍しい事おっしゃったのですが、この世で神仏に、こうご縁ができるというのは、よく考えてごらんなさい。そのおかあさんが、たいていは神仏に縁のある人です。なんにも、つて(伝手)なしに、はじめから神仏に縁ができるものでないと先生がおっしゃった。先生は、あれは、もんとのお生まれです。もんとの家へお生まれになっとるのです。
こんな事いうといけませんけれども、もんともの知らずといって、信心には、なかなかはいりにくいのですが、先生のお父さんが、石槌山のお先達です。そうして、そのただのお先達ではございません。よほど世の中のたりになったお方です。それだから先生は、生まれながらにして神様仏様にご縁があって、ことに門徒でありながらお大師さん慕うて、南無大師遍照金剛と先生おっしゃいよりました。
こういうふうに、この世で神仏の縁がついたという事は、必ず親ごからゆずられとります。先生は、神信心する人は、前生から功徳積んでおる。それについて先生がおっしゃった事が誠に、私は今に恥ずかしい気がする事があるのです。神様拝むのわすれても、親おがむのを忘れなとおっしゃった。これは先生が妙な事おっしゃると思うて、私こう考えたのでございますが、なるほど神様おがまないでも、さほど人苦しめやしませんけれども、親を拝まなんだ場合には、親泣かしています。それで先生は、珍らしい事おっしゃったのです。神様おがむの忘れても、親おがむのを 忘れられんぞ。これは、なかなか言えん言葉です。私は今、もう親がありませんが、昔の事で、ああほんに、あないいうて親おこらした事があった。ああーと思って、私は今に恥ずかしいに思う事がおりおりございます。
どうぞ皆さんは、幸い親ごがある方が多いでございましょうから、それをお覚えになっとって、ああ、やはり先生は、親大事にしたら神様に届く、と思うておいでるんじゃなあとこういうふうに解釈してもらいたいのです。
先生のご信心はだいぶん違います。
(昭和三十九年四月三十日講話)
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第四九二条 「子供に教育するのは、立身出世させる為教育するのではない。世の中にお役に立つ人間をこしらえる為に教育するのである。 これが間違ったら家をほろぼし、国を亡ぼすもとになる。」
こういうつもりで子供を大きいにせえと先生がおっしゃった。これまあ子供のほうです。どこの親でも、こんな事言ってはいないでしょうか。あそこの学校出たら、どこへつとめても給料がええ、こちらの学校へいったら口過ぎがしにくい。そういうふうに子供を教えよる。ところが泉先生は、教え方が違うのです。子供を大きくするのは、世の中のたりになる人間をこしらえる。学校どこでもええ、好きな学校へやる。どこでも子供の好きな所へやる。世の中のたりになるような人間こしらえる。ちょうど今の、池田首相がおっしゃっとる事とよう似とります。
まず日本の国を治めようと思うたら、この学問も大事であるけれども、人を作ること、人がらを作る、人作りが一番であると、こういう事池田さんがおっしゃったのが新聞に出ておりましたが、誠にこれは適当な事じゃと私は思います。この実業界でもです。若い衆や労働しとる人がよかったら、必ずそこの家は出世します。ほかの人にきらわれる人が、もし実業団体の中にたくさんはいっていたら、それは人からうけません。まず人作りじゃという事を先生がおっしゃいましたが、先生はやはりそういう実業の団体の事でも、お知りでございます。
まず人を作らないかん。立身出世せよと教えるより、人にいやがられんように教えた方が、この出世の上にはよろしいと私は思います。泉先生は子供の教育でも、そういう風になさっています。世の中のたりになる事をせえと、人におこられるような事するなと、こういうような先生の教え方です。
ある時先生が、べんさんに言うた事、私覚えていますが、浜へ網ひっぱってあったのです。船のつなを。それを子供があっちへひっぱり、こっちへひっぱりして遊んでいた。先生がそこへひょっと海岸へ、何か用かしらんが先生が出ておいでになった。それでべんさんがそん中へはいって、つなをひっぱりよるのをみた。「べんさん、ちょっとおいで。」べんさんがはいってきた。「どこのつなかいっ。」と、「あれ何とかいうた、となりの人の船のつなや。」 と、「ああ、それひっぱったらないかんで、たぐって、それ船の中へ入れといたげな。」先生がそうおっしゃったのを私はききましたが、先生はいつも子供しの教育なさるんでも、人が助かるように、喜ぶようにしなはれという事を教えていましたが、ある時べんさんは、なんでもあれ五つ、六っつの時じゃと思いますが、まことに、その悪い根性をもつ時でないのです。ごく子供らしい時分です。悪い事をしても、その時分にこういう事いうたのです。 「おっさんよう、今日いっきょったらなあ。あのお昼ごろに風がでてくるぞ。風が吹くよ、はようもんてこいよ。」 するとその漁師の人が「うん、おまえわかるか。」というと、「わかる、わかる。」というて、そしてべんさんが帰ってきたのです。はたせるかな、昼からしけみたようになってきました。漁夫さえそれがわからなかった。こういう風に、子供の時でも先生の教育は、世の中のたりになる人間になれ、そしてこんな事も子供に教えておりました。
「あのなあ、わしが朝鮮の方へ船にのって行っていると、夜になったら、どこそこやいうのがすっかりわからんもんじゃがなあ。わしの船にのっていた、えらいおじいさんが南無大師遍照金剛と、お大師さんをよく拝む。そして船のともから足突っこんで、ああこれ、どこそこの沖やいうて知っていた。『おっさんどこそこの沖って、どこでわかるぞい。』『いやあの水が足へこうこたえてくるのが違う。』と、こういうような事をいうたおっさんがあったぞ。おまえらでも、夜船の方角ちゅうのはわからんのやけんど、海の水の中へ足突っこんだら方角がわかるくらいになれ。もう世の中のたりになる、羅針盤おとしといても、その人は、けっこう船使うんじゃ、こういう人になれえよ。」と学校で字をよく覚え、やいうて先生は教えんのです。世の中のたりになる人間になれという事を、おっしゃいよるのを私二、三べんききましたが、そういうふうに親ごからすれば、子供は必ず運がええ子供ができると、先生がおっしゃいましたが、その事を私は思いまして、この四九二条に書いたのでございます。
どうぞそういうふうに、もうけを第一において子供を学校へやったり、仕事にやったりせんように、世の中のたりになるようにという教えが、たいへん私はええと思いますから、ここへお話しを入れたわけでございます。
(昭和三十九年四月三十日講話)
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第四九三条 「日本の国はありがたい国で、皆が一つの家族のようなものである。皆がそれぞれすきな道で家をたて、そして互に有無を通じている。ちょうど大家族の国である。そして一人として神仏に礼拝せぬものはない。誠に神仏の国である。」
日本の国は自然環境からみても島国であるため、昔より度々外国からの難を無事にのがれており、又その土地に住む人にも、大和民族といって血統を同じくする国民の集合体である。言葉も、生活風習も大差なく、思想も同じ流れを持ち、温暖な地域に属し、お互いが幸福に暮らしている理想郷ともいえる、ありがたい国である。ちょうど一つの家族的なかまえをなしている。昔からの一過程には封建的な時代もあり、身分的にも、職業的にも差別があり、衣食住にも制限があったが、今では四民平等で、それぞれ好きな道で生計をたて、それぞれの個性を社会に役立てて、互いに職業的に有無を通じ合い、人情的にも相互扶助をなし、あたかも一家族のように、父母が子に、子が親に、兄姉が弟妹にといった情こまやかな生活が国中に広がっている。
明治天皇の御製には、「四方の海、皆はらからと思う世に、など波風のたちさわぐらん」とありますが、明治天皇は日本国内だけでなく、全世界の人々をも、はらからと思われている位である。むろん日本国民は兄弟だという、又一家族であるといった愛民の情を持たれていた方である。
聖徳太子は仏教信者で、尊いお教えをたれられている。それは、「和」をもって尊しとなすと。国中皆の者が兄弟同様、仲良く暮らすことこそ、まことに尊いものであるとおおせられている。又、聖武天皇、光明皇后、空海、その他仏教の教祖といわれる尊き方々が出られ、神仏の教えを説きひろめられ、日本国至るところに神社あり、仏閣あり、各家に神だなあり、仏壇あり、尊き神仏を祭り、それに帰依し、又それらの神事、仏事を行って先祖に対して報恩の誠をささげ、神仏を中心として、国を立て、村を立て、家を立てているのが日本国の姿であります。神仏の国ということは、国民一人々々が宗教に生きる国ということであります。
弘法大師がおっしゃった言葉に密厳浄土とありますが、この世このままを極楽世界にする、世界平和にすることが人類の理想であるとおっしゃられているのです。われわれはありがたい国に生まれ、育ち、成長し、こうしたうるわしき日本の伝統をますます維持発展させ、いかなる末法の世がこようとも、正法の世に復帰させる仏心をもやし、救世の友となるよう心掛くべきであります。それがためには何事をするにも、この世界に極楽世界を造るために働くんだという考えを持っておれと泉先生は教えられている。
それを考え違いして、働くのは金をもうけたいからだというてはいけない。そう考えると、その金の使途は、わが方に使うことになってしまい、人のことは考えなくなる。そうすると世の中は極楽にならない。必ず争いがおこる。
だからして、日に日に働いていることは、極楽世界を造るために働いているのだという風に考えるべきであります。
ありがたい国に生活できることは、神仏のおかげであると思うことこそ、神仏国の民の心でなければならない。
なぜならば、すべての物は神よりの預り物であり、又神の恵みをうけておらぬものは、世の中に一物もないからである。
(昭和三十九年四月三十日講話)
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第四九四条 「何ごとによらず人に喜んでもらう。得心してもらう事が大切であるが、むこうに神仏のご縁がない人であった時は、そう出来ぬ場合がある。このような時には自分の事は神にまかせて、時を待つのがよい。決して自分と考えが合わぬからというて、にくんではならぬ。神から見れば、ちょうど兄弟げんか同様である。親がつらい。」
何事によらず、人に喜んでもらったり、得心してもらうということが大事である。むこうに、神仏のご縁がうすい人が来た時は、そうできぬ場合がある。そのような時には自分の事は神にまかせて時をまつのがよい。決して自分と考えが違うからというて、憎んだりしてはならぬというおことばは、泉先生の日ごろのお考えであって、簡単に先生はおっしゃっておりますけれども、なかなかこれは実行のしにくいことであります。うま合いというのは、世の中にたくさんございます。うまがあうということはよいこともあり、悪い事もあるのです。というのは、欲な人どうしであったらうまがあいます。欲な人と、欲の少ない人とは、うまがあいません。うまがあうということそのものは、ええとはいえないのです。
そこで泉先生は、こういうことをおっしゃったのです。自分がものをいうて喜んでもらえりゃいいけれども、向こうに喜んでもらえん場合がある。それは向こうが、信仰心がすこしもなく、こちらの方が信仰心があるという場合に、自分がいうたことは、向こうへとおりません。たとえば正直ということを信仰的に話すと、信仰心のうすい人は、話した信仰心のある人に対し「あんたは正直をそう思っているが、このせちがらい世の中で、あんたみたようなええ気でおったら食えんのでよ。」このような考えを持っとる人があるのです。合うはずがない。そこで先生は、もしうまが合わんという場合はどうするかという。うまが合わん人を憎んだり、理屈いうてもいかぬ。もしこちらが、いうことがとうらない場合には、泉先生がおっしゃった通り、よけておりなさい。無理に得心せなくてもええでないか。
しかし是非いったげねばならんと思うのなら、慈悲心をもっていってあげなさい。そうすればとどくと泉先生がおっしゃったのでございます。これは日ごろよくあることです。
たとえば、家ごとに方針が違います。金さえあらば、なんにもいらぬという家もございます。金はなくても、家がほがらかに、仲がよければよいという家もあります。どちらがええでしょうか、よく考えてごらんなさい。もう、金さえあったらええという家は長く続きません。子か孫かの代にはつぶれてしまいます。ヘんどもようせんようになります。家の中がほがらかにいくのがええという家は、子か孫かの代には必ず出世します。ごほうびくれます。そういうことを考えると、泉先生がおっしゃったことは、世の中の過去、現在、未来を見通していっていることばですから 気をつけないけません。私は泉先生にお別れして、もうやがて五十年でございますが、先生のことばをおぼえています。年がたつごとに、ああ先生は、よう見通したものだなあということが、よくわかるのです。
「今、高野山のお大師さんが人に尊敬されるということもそうです。千百五十年が今年です。お大師さんのごらんになったその眼力というものは、千百五十年の今日、尚益々光っております。こういうふうに過去、現在、未来を見通して、いうたことがくるっていないということは、確かに偉い人といわないけません。「法がきく」じゃの「拝んだらこたえるじゃ」の、人間の欲をそそるところの宗教がもしあったとしたら、もしでございません。たくさんあります。そうした宗教は、わが身の上はおさまっておりません。わがことができとらんのに人にそれをおすそわけするということはできやしません。まず、物がありがたいという事をほんとうに感じてこそ、人にわけられるものだと私は思うのです。泉先生は、既に後の世に親切な言葉を残しているのでございますから、これは、尊重してよいと私は思うのです。
この四百九十四条にかいてあることを一口で言いますと、ほんとうに腹のあう人は世の中に少ないぞということです。どうして少ないかというと、思う事がちがうからです。ところが、そこで人間は自分と考えが違うたら憎むか、おこるかいたします。そして深い、つきあいをいたしません。「それではいかんぞ。」と先生がおっしゃる。たとえいうことが違っていても、することが違うていても、憎むなよと時をまって、いっしょに手をひいていける時がくるまで、まちなさい。理屈いったり、けんかしたりするのではないぞとおっしゃいました、まことに、ここに先生の偉さがあるのです。
(昭和三十九年四月三十日講話)
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第四九五条 「無念とか、無想とか虚心とか、いう言葉があるが、これは何一物も心にないということではない。心に自分という考えや、自分にひきもつれた種々の考えが消え去った境地をいうのであって、心に何物もない。寝ているようなものとは違って、生々としてこだわりのない心の有様をいうのである。」
どこの宗教へはいりましても虚心とか、無念、無想とかいいますけれども、特に 禅宗でよくいいますが、なかなかできるものではございません。あんた方がじっとすわっていて、なにも考えんようにしてみようとつとめますが、 そのなんにも考えんようにしてみようと思うていることが、もはや考えていることになるのです。無念、無想にならん。ほんとに無念、無想になった時はねとります。そりゃ禅宗でいう、ぜんではないのです。禅というのは、目がさめとって、そうして心になにも考えないという事はできんのです。人間は、私はできんと思います。
ちょうど、たとえてみると、一升ますに米一杯はかっといて、山もりはかっといて、その下へ豆かなにかはかってみいたって、そりゃはかれません。と同様に、自分の心が何か一つの信念にかたまってしもうて、たとえば泉先生とか、あるいはお大師さまとかのありがたい人にしたう心にかたまっておったら、ほかのものがはいらんぞという事が虚心という事なんです。これが、泉先生がおっしゃる大事なところです。で、あんた方が行をなさるのに滝にうたれて、 おんきりくうぎゃくうんそわかって、いくら言っていたとて又、体がこおってしまっても、虚心にはなれんのです。 ほかのありがたいものが一杯になっていて、つまらん事がはいらんという事が虚心なんです。これ、まちがえないようにしていただきたいと思います。
泉先生は、学問も何もない人です。しかしながら、虚心とかあるいは無念無想とかいうことは、ちゃんとしっておいでた。「村木さんよ、滝へはいってなあ、帰命天道を言いだしたら前へ出てくるのは、天ぐがでてくる。聖天さんがでてくる、ありがたい人ばかり出てくる。するとわしの欲な考えがとんでしもうて、何やないようになる。これが無念無想とか虚心とかいう事だろうと思う。わしは、なんにもなしにはならんわよ。」と先生がこうおっしゃったことがある。これが本当の人間の心を、あばいた心です。私はそう思うのです。まあ、ためしに、あんたがすわってごらんなさい。お燈明あげてお線香たてて、じゅずかけて、そして帰命天とうはといったって、なんじゃなしにならんと思います。ひょっとしたら、だんごがくいたいとか、新米のすしが食いたいなど、そんなこと思うやらわかりません。 それでは、いかんのであって、帰命天とうは、にってんがってん、いせには天照皇大神宮と唱えだしたら、前にはもう神様や仏様ざらに出てきて、自分という考えがなしになるのが、本当の無念無想だろうと私は思います。
どうぞ、あんた方が行をなさる時に、滝にうたれる、あるいはおく山で、きねんなさる。その時には、自分という性根のほかに、神様に通うて、神の世界へ出てきて、神様と同行二人になるのが、これがほんとうの私は無念無想じゃと思います。どうぞ、そういう風にして下さい。「私やおかげうけとらんけん、何じゃ思わんようになれんでよ」などおっしゃらんように、もうすわって念じたら、神様仏様がざらに出てきて、自分ちゅうものがなしになるのが、それが本当の座禅でございます。泉先生のおっしゃる座禅でございますから、そこを勘違いのないようにお願いしたいと思います。私がこれは直接先生に聞いた事でございますから、間違いがないのです。
(昭和三十九年四月三十日講話)
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第四九六条 「自分の責任を重んずる人は、前の世からよほど功徳を積んでいる人で、このような人は祈らずとも神仏の縁の深い人である。」
自分の責任を重んずる人は、前の世からよほど功徳をつんでおる人である。このような人は祈らずとても神や守らんというような、ありがたいお陰をもっている人です。こう先生がおっしゃったことがある。あの昔、山中鹿之助と いうえらい侍があります。その山中鹿之助が生まれたのは取鳥市です。その鳥取駅の前に、大きな、大きな看板があります。それに「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん。」という大きな歌を書いてあります。その意味をひょっと信仰の浅い人は勘違いする。「ああ、だれそれは、やあ、今日はなんやらのお祭りやあ、ああ、 なんじゃらの命日や」言うて走りまわるけれども、山中鹿之助のいう通り「心が誠の道にかなったら、そんなに走りまわらいでええんぜ。」と、こういうふうに解釈なさる。それもええだろうけれども、泉先生がおっしゃるのは、そうでないのです。自分が自分の責任を重んずることは、なかなかむずかしいことです。つまり自分は今、家のあととりに生まれてきているが、おやじは年を取っている。わしの責任はこの家をひきうけて、「おやじがなくなっても、 ああ、わしが生きとる時は、うまいこといっていたけれども、わしが死んでから、つまらんなあ。」というような事思わさんような責任がわしにあるのじゃ。おやじがあろうがなかろうが、安心させてやりたいというような責任を重んずる人であったら、神様にたのまいでも、それは神様がきいてくれる。」と、その人は考えている。
その考えは先生がおっしゃっているお教えと似ているようであるけれども、違います。わしは真心でしているのだから、神様に頼まなくてもええということは違います。その人がいう真心というのは、どんなのかというと「悪い事せんからよい」というのと同じです。悪い事せんという人は、世の中にあってもなくても、あまり影響のない人です。 悪い事せんという人は、ええ事もしない人が多いのです。言い換えると、あっても、なくても世の中にそんな関係のない人ということです。それがええ人。わしは悪い事せんのだから、神様にたのまなくてもええという。どうですか、悪い事せなんだらええのだと考えるのは、いかんと思います。泉先生がおっしゃるのは、人間が生まれてきたら 責任がある。
さあ、そこで問題が大きくなるのです。それなら、おまえの責任は何なら、とこういうことをきかれるのです。するとそれを果たして言いつくせる人がありましょうか。ここに、花が咲いているとしましょうか。人間が花よ、おまえなんのために咲いているのかとたずねると、花はどう答えるでしょうか。私知りません。自然に咲いたのですというでしょう。あるいは又、おまえなんしに生まれてきたんならというと、わし知らんわ、わし知らん間に生まれたのじゃから責任やいうんはしらんわ。
ところが、もう一段上のものから考えたらどうです。花を考えてごらんなさい。あれは、きれいな色をして、あぶやはちを呼ぶのです。あぶやはちが、そのきれいな花のところへとまる。花の奥にみつが必ずあります。私は小さい時によくしましたが、あのつばきの花びら、ちぎって吸うのです。そしたら甘い汁がでてくるのです。私はつばきの花のみつをようすうたことがあります。そのごちそうをよばれようと思うて、ちょうやはちがとんできて、奥の方へはいっていくのです。ちょうやはちが飛んでくるのが、よく目に映るようにというので、きれいなかっこうや、きれいな色をしています。そうして、ちょうやはちが、みつをごちそうになろうと思うて、せりこんでいた時分に、花粉が交配して立派な実がみのるのです。その実を結ぶために、きれいな色をしているのです。そして実を結んだら、生き物喜ばしてやろうという、天の任務をもっとるのです。もしあんた方が作っている米や麦も、こういうようなもので生きとるもの皆喜ばしているのです。
もう一ついいかえたら、「この世界を極楽の世界にかえてやる。それがために、わし花咲かしとんじゃ。みつもつくっとるのじゃ」と花がいうでしょう。こういうように人間も、世の中全体を極楽にするという所の任務をもっとるのでありませんか。そこで、先生が人間はわしや拝まいでも、悪い事をしないのだからというて、それで神様の前がとおれるか。」というのです。人を喜ばしとりやしません。「人喜ばすため」という事しか考えない。それが本当の真心というのです。この世を極楽にしようという心が真心というんじゃと先生がおっしゃったのです。
それでは、どうすれば人が喜ばせるかという事になります。神様どうぞ、たのみますと念ずるのに違いない。それが本当の信仰じゃ「わしは悪い考えをもっていないから、神様などおがまなくてもええわ。」というたら、それは間違っているぞと、先生がおっしゃったのです。泉先生は、「この世はおがみあって手をひいて助けあって、そして極楽の世界にするのが、これが人間の任務である」とおっしゃったのです。
どうですか、先生の偉い言葉。今日アメリカであろうと、ソビエトであろうと、表向きはもう戦争をやめようでないかといっている。そして平和な世を作ろうといっているが、それは神仏のいう真の平和を望んでいるのではなく、一発はれつしたら、もう何十万が一っぺんに死ぬという武器が相互にあるからです。神様はそんな事、許してないはずです。そういう考えから、わりだしたところの平和です。しかし人間は、欲のある動物で、なかなかそう思っていても真の平和を作り出すことがむつかしいので、そうした恐ろしい武器を人間につくらせるのです。それが考えようによっては、神の慈悲とも思えます。
たとえば親は、子はかわいいのです。しかし子は言う事きかん。ひっつかまえてやいとすえるなどして、むごいめにする。子は、ああこいつ、いたいからもううちのおとうさんがいうとおりしなければならないと、むりをいわなくなる。そのやいとをすえるということが慈悲ではありませんか。神様は、今日のようなおそろしい、一発はれつしたら何十万という人間が死んでしまうようなものを、人間にあみださす。知恵とりあげてしまったらよいようなものであるけれども、言う事きかん子供でございますから、その知恵で恐ろしいものこしらえさして、やれおそろしや、これで世が地獄になってしまう。もうこれやめんかよといって、授けといて、助かる道を教えるのが、これが毘盧遮那仏の慈悲でありませんか。この人間の知恵で恐ろしい、わずか人間がもてるくらいの重さの薬品で、それで広い所の何十里四方の生き物を殺してしまうという力をこしらえるというほど、人間の知恵は進んでまいりました。それをこんどは皆が喜ぶ方へ使うのが極楽をこしらえる道じゃと私は思う。
あんた方が暑い日や、寒い日に仕事をなさっておりますか、それを神様の目からみたら、極楽をこしらえるために働いているのだ。役に立つ人間だとおぼし召して、そうした人間を栄えさせます。極楽こしらえるのに、邪魔になる人間は滅亡させます。これが神様のお慈悲じゃと私は思うのです。先生は、その事を教えるとて責任とおっしゃったのです。その責任はご先祖を安心させて、子や孫に至るまで皆が喜んでいける道を、うちの家へ作っといてやるということが真の責任であると、泉先生はおっしゃっています。まあその中へは金もはいっとりましょう。名誉もはいっとるでしょう。いろいろはいっとりますが、かたよらんようにせえよと泉先生がおっしゃったのです。かたよったらきらわれる。世の中になくてもええようになります。そりゃ刀も、鉄砲も、ピストルもいらんのでない。おじて、こんな事をせんようにせんかというて、お互いにそれを使わんようにする。それがええんじゃと泉先生がおっしゃった。
なるほど、泉先生がおっしゃる事は、神様のお慈悲という事を教えるうえに、いたれりつくせりでございます。
だれでも考える世の中の困る事を、神様が教えるわけがない。神様がすぐれた慈悲があるんなら、田んぼや、畑でも虫をわかさないでよいでないかという人があるけれど、そりゃ間違っています。神様はすべての生き物助かれというのでございますから、田んぼの害虫も、生き物ですから、神様が助けているのです。そのかわりに人間には、知恵というものを、ほかの動物と違うて、くれてあるのです。これをのいてもらうのは、こういう薬品もっていたら、のくんじゃというので、それで、のけるところの工夫を人間にくれてありますから、その世の中が極楽になる、知恵を使うたらよろしい。虫といえども、毒といえども、これ皆世の中になけりゃならんものです。
私がこんな事いうと、あんた方勝手な事言うとおっしゃるか知りませんけれども、あのきれいな花が咲く、けしの花。やがてけし坊主という、ぼうずができます。それを摘み切ってみると、白い乳みたようなものが出ます。あれがモルヒネと言うて、人間が眠ってしまう薬がはいっとるのです。もしもあんた方が病気して、大手術をしなければ助からんという時分に酔させて、いたみを覚えさせない 薬がはいっとるのです。ところが、達者な者が食べたら毒です。との毒が薬になるという事を知る知恵くれてありますから、どうぞお互いに、この勉強をして、助かる所のものに使うと毒になる物が薬になる、つまり毒は薬になるという事をよく研究して、そうして世の中が極楽になる事に、力を入れる事が、誠の信心というのですから、そこを勘ちがいのないように、泉先生が教えてくれてあるのでございます。毒も薬になる。薬でも毒になる、その使い分けの知恵をくれてあるのですから、本当の神様の慈悲というのを忘れんように、神様がいらんものや、人間が困る物こしらえるわけがないのですから、そこを勘違いせんようにしたいと思います。
(昭和三十九年四月三十日講話)
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第四九七条 「人間的の喜びは次第にうすらいで、しまいには苦に変わって来る。信仰の喜びは次第に濃くなって、感謝がまして来る。」
人間的の喜びはしだいにうすらいで、しまいにはそれが苦になって変わって来る。信仰の喜びというのは、信仰すればするほど、こうなるものじゃと先生がおっしゃったのです。誠に先生のおっしゃる事は違いない事で、私が先生に聞いたのでございますが、お参りするたびに、袋にそら豆を一升もっていき、そしてそのそら豆をかずとりとしてご真言唱えつつ、石がけの上へおく。ついに皮がむけてしまって、一升の豆が三合になるまでご真言をくりとうしてついには神仏のおつげをいただき、人助けをした人があります。神様と同様に、おっしゃる通りになるのです。そういうおかげをうけとる人のことを先生から承った事がございます。
ところが、ここで考えならん事があるのです。勘違いしたら大変でございます。なるほど信仰したら、事はわかるようになるのです。たとえば、たぬきにとりつかれた場合でも、過去、現在わかっていることをいう力をもっているのです。将来のことはわからんが、過去のことはわかる力をもっているのです。思いこんだ場合には、わかるように なるのです。
いいかえたら、自分の思っていることを行者がよみとる力を読心術といいます。人の心を読む術です。これは、たぬきにとりつかれても、わかりますように、過去、現在のことは、行の浅い人でも一心になればわかりますが、将来のことを知る人は、貪、瞋、痴をはなれ、大慈悲にもえた人でないとわからないのです。一心行をつんだ人は誰でも過去、現在は見ぬく力を持っているが、未来のことについては、わかりかねる点もある。それを未来がわかるものと勘違いして、願をかけて将来の事を教えてもらうと、「欲の小又が又からさけた。」という結果になります。ここを間違わないようにたのみます。泉先生は、そういうことまでおっしゃっておいでるのです。それで四九七条に、私がかいたのであります。どうぞまちがいのないように願います。
(昭和三十九年四月三十日講話)
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第四九八条 「心の働きには自性はないもので、その使い方により善になり、悪になり、変化するものである。たとえて見れば人間の知恵、 之は自性ないもので、人を助ける方に使えば善になり、又人を害する方に使えば知恵があればあるほど多く人を害し、悪を増す。この通り知恵そのものには、自性はないのである。使い方による。この大切な使い方を教えて下さってあるのが、神仏の教えである。」
例えばここに、握りこぶしを固めて人をたたきたい人があるとします。人をたたきたいということそのものは、善でもなければ、悪でもない。しかしそこに人を憎んで、そして、その人をたたくとすれば、これは悪になるのです。
肩がこって、こまっているだろうと思うて、その人の肩をたたいてあげたら善になる。と、こういうふうに、その動作そのものには、悪いのではないのです。しかし、それを使うところの、その根性です。それが悪かったら、悪になる。だれでも、この善とか悪とかいうことをよくいいますが、泉先生は、善とか悪とかいうことをよく調べておいでます。わが身が利益するために使うたら、たいてい悪じゃと先生がおっしゃいました。人の身の上を楽にしてあげようと思ってすることは、たとえ仕方がまずうても、それは悪いことは少ないと先生がおっしゃった。なるほど、私は考えてみますと、どうも自分の利益というのを中心においていうと悪いようでございます。
そこで、この自分という根性です、自分という根性はどんなものかということを調べてみないけません。だいたい自分というものはないのです。それが何千年、何万年、何億年と親から子に伝え、子から孫、ひい孫、しゃしゃら孫 と、順々に何千代、何万代と代を重ねるに随ごうて、その欲の固りが自分のように思うようになったのです。本来、 自性、自分の根性というものは ないのです。そこを先生がおっしゃるのであって、憎いやつじゃというてなぐった ら、それ悪うなるというのです。あの人肩がこって困っとる。ひとつたたいてあげようと思うてたたいたら、それは善になる。善とか悪とかよく世の中で言いますけれども、自分を大事にして、人を憎んだときの行動はたいてい悪でございます。人を憎まずして、かわいがってすることは、たいてい善でございますから、善悪の二つに惑わされて、迷わんようになさいと先生に言われましたが、これでございます。
今日は宗旨が沢山ございますが、各宗旨ごとに、自分の宗旨がええんだとこう言うとりますが、そのええ悪いはどうでもよいと先生はおっしゃるのです。先生は、門徒にお生まれになっとるのです。お家は門徒です。けれども先生がおっしゃるのは、これは祖先が、縁故があって、うちの家は門徒の中へはいっているのじゃ。しかし、そのもんとの親鸞聖人がおっしゃるのには、このわしは、善人じゃという人間は助けにくい。悪い事したと思うとる人間は助けよい。決して悪い事した人間を憎んだらいかんということを親鸞聖人も、先生もおっしゃいました。「村木さん、いろいろ各宗旨があるのじゃが、中には入間でない所の偉いお方を、つまり理想の人を拝む宗旨もある。また、人間がすべての仏様の有難い教えをからだに体得されて、一宗のお祖師さんになられた方もある。そういう事から考えると、わしは門徒の家に生まれとるのじゃけれども。お大師さん位皆を思うてくれた人はない。お大師さんご自身がおっしゃっとるのは「我百才の命をもって、沙婆に出でたりといえども、六十二才にして願を満たすと思うようになった。これ以上沙婆におることは、かえって慣れなれしくなってよろしくない。されば、来たる三月二十一日寅の刻を期して定(じょう)に入ろうと思う。」とおっしゃって、そうして嵯峨天皇からいただいた、いすの上へ座禅を組んで、印を結んで、とうとう向こうへおいでられた。なぜおいでたかといいますと、お大師様が生きておいでると慣れすぎるのです。人間同志ですから慣れなれしくなる。「もう六十二才で国替えするわ。」と、わが命さえも惜しまれずに、この世をお去りになった。それだから、親鸞聖人だっておこれへん。うちの本尊さんは親らん聖人ですが、親らん聖人とお大師さんがいう事は同じこと。お大師さんは身をもってなさったのじゃから、わしはお大師さんを南無大師遍照金剛と拝むのじゃ。」わたしはそれをききました。
こういう風に、先生はお考えになっていますから、宗旨変えなどしないのです。先生やっぱり宗旨はかえませんでした。先生の家は門徒です。釈良海信士というて、門徒の名つけています。先生がいつもおしたいなさるのは弘坊大師です。これは私よくおつきあいしていますから存じております。
皆さんもこのごろは、いろいろ宗旨の悪口のいいあいをして、宗旨を変えまわっているお家があるそうでございますけれども、まあそういう事はなさらいでも、どのお祖師さんが有難いんかという、その力のあるお祖師さんを拝んだら、一番ええと私は思います。私はどの宗旨がわるい、この宗旨が良いは申しません。泉先生はそのようにおっしゃった方です。まことによくこの沙婆世界をご覧になっとると思います。
要するに自分も幸福にいけた、子孫も幸福にいけた、世の中の人にも好かれた。その教えを、だれがしよるのかと考えてみますと、どうですか、人に悪口いわれん人でなければ言えません。お祖師様というたら沢山ございます。
ご承知のとおり各宗にはお祖師様がございます。しかしそのお祖師さんの中で、一番縁が深いのはお大師さんのようにわたしは思うのです。それで私はお大師様が一番偉いとは申しません。しかし、我々を導いて、子子孫孫に至るまで幸福にしてくれる教えをのこしてくださったのはお大師様だと思います。それで先生は、そういう意味で、私に教えて下さいました。
(昭和三十九年五月十五日講話)
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第四九九条 「神仏に近よる行に六つある。 一に施行。二に忍行。三に精進行。四に戒行。五に禅行。六に智行。 先の四つは心に慈悲があればおのずから出来る。禅とは一心帰命の行で、智行とは人間の知恵でない、神仏の知恵である。」
六行は大事な教えでありますが、先の四つは心に慈悲があれば、おのずから出来る。禅というのは、一心に帰命頂礼の行であるから、その結果、智行というのが出来てくるんじゃから、まちがわんようにせえよ。これは先生のお教えです。四九九条にそういう事を書いてある。それで私は皆さんにご相談していくのでございますが、この信仰というのは、まことご結構でございますけれども、これをたとえてみますと、あの大磯の浜に砂が沢山あります。あの砂の上へ家を建てようとすれば建ちますけれども、風が吹くとか、あるいはしけがするとかしたら、地盤が砂でございますから、家が狂うのです。それと同様に、人間の信仰というのも、一生懸命に信仰しましたら、おかげはもらえます。家をたてるにしても家は立派に建つにしましても、地震や時化に、家が倒れたんではいけません。それなら家がたおれないようにするためには、どうしたらよいかというと、六波羅密でいう前の四つ、すなわち施行、忍行、戒行、精進行の、この四つをしっかり行ぜよ。そうしてそのあとで、禅行智行をする。信仰したら立派なおかげがもらえるのであると、こう先生がおっしゃった。
これはだいぶん考えないかんことでございまして、最初の四つは人間の事でございます。これは、私がお話しするまでもなく、施行というのは、人に恵んであげることを施行というのです。物を恵むというだけが施行ではありません。道に迷うている人に、こう行けば道がいけるのですと道を教えても、これ施行でございます。あるいは又、信仰の仕方をおわかりにならん方に、こういう風にすればええと思いますという風に言うてあげる事も、これ施行でございます。金をあげる、物をあげる、というのばかりが施行ではありません。お接待も施行ではございますけれども、心をあげるという事が一番大きな施行でございます。
その次に戒行というのは、いろいろ人間にはする事がございますが、その自分のした事が、神仏がおきらいになる事をしたらそれはいけません。こうすれば、他の人がきらう、こうすればええんだと、そこによしあしがございまして、そのええ事をせえ、悪い事をするなというのが、戒行でございます。それでよく、その善悪の差別を心得て、日に日に暮らしていくことが、これを戒行といいます。
それから精進行というのは、一生けんめいにやるという事です。仕事でも一生けんめいにする。ところが一生けんめいにするのではございますけれども、こうやったら、いくらもうかる。こうやったら、だいぶん得をする。そういうのは、精進行でありません。それは商売でございます。こうやったらお米がよくとれる、作物がたくさんとれる。そのとれるのを、わがさいふがふくれるという考えをやめて、そうでなくて、国の宝がふえるんだ。とにかく自分が施行しようと思っても、財布がからでは施行も出来ません。わがの口すぎにキュウキュウとしとる事では、人のお世話できません。物あげなくても、自分の手間あげても、それは自分が食えかねよったのでは施行が出来ませんから、ああ、これはこういう風に働いといて物が出来る。そうすれば、世の中のたりになると、こういうような考え方の精進でなければいかない。ところが、これは申すまでもございませんが、昔から精進といいますと、肉類や魚類を食べんのを精進というように思うとる時代もあったようでございますが、あんた方はそういう風にお考えになりませんけれども、精進というのは、なるほど魚を食べん事もよろしい。それはいきものをころしていますから。それが精進のうちでございますけれども、泉先生はそうはおっしゃらんのです。魚食うな、肉食うなやおっしゃらんのです。 食べてもかまわん。その食べた魚は、人間の体になって、その魚がいきるので、人を助けたら、それはりっぱな精進だと先生はおっしゃるのです。どうですか、先生のお考え方は、だいぶ違うのです。魚や肉食べて悪い事するから、いかんのじゃ、その力ができたら、その体を使うて、世のなかのためになりなさい。それが精進じゃと先生はおっしゃったのです。どうですか。先生のお考えの精進というのはだいぶん違います。ただ今申したのは、施行、戒行、精進行、とういきましたね。
もう一つその忍行というのがございます。しんぼうするということです。それは、どうせ人間でございますから、 食わないけんのでございますから、働きもいたします。また皆が、なかよういかないかんのだから、人がいよる事を まちどうとると思うても、辛抱せんならん事もございます。それを忍行と言うのです。自分は思うとおり言いつっぱらずして、人をゆるしてあげる。これは忍行です。忍行がないと、どうもかたくるしくて、話しができません。理屈がたこうて、理屈いうというのは、忍行ができとらんからいうのです。忍行ができた人は、理屈は申しません。この四つが一番信仰の上には大事な地ばんづきになる。その上でお参りにいく、ご真言くる、するとおかげいただく。その地ばんできとりますから、言う事が立派にでます。口へ出ても、それができとらんと、まちがったことを言うて、笑われる事がようございますから、どうぞこの地ばんの施行、忍行、戒行、精進行と、この四つが人間の行でございますから、まあ、いわば道徳でございますから、これをした上におまいり、神様にご真言くる。どうぞ助けて下さいと願いをかける。これが禅行でございますから、禅行するというと智行、神仏の知恵をくれるのです。
智行とは、学校でいう知恵とはちがいます。神仏から、不思議をみせてくれる。知恵をもらえる。六波羅密のしまいの二つ、禅行と智行、これは四つの行ができた上へもっていてたてる。家をたてるんだと考えとると先生が、こうおっしゃいました。ちょうど大磯の浜へ家を建てようと思うたら、まず砂を固めて、その上へ建てんというと、くるいます。泉先生は、実に偉い事をおっしゃっとるのでございますから、どうぞ皆さんも、人間半分、神様半分、この半分どうしをなわになったのを、おしめというと、先生がこうおっしゃいました。どちらが太くとも、信仰の方ばかり余計あったら、これも良いようなものであるけれども、まちがい言うて、人の悪口いう。それではいかんから、人間の方の人に好れる方を半分と、神さんにすかれる方半分と、この半分どうしでなわをなったら、これがほんとうの有り難い おしめぞと、先生がおっしゃいました。これは皆さんにおつたえしときますが、先生は、そういうふうなご信仰でございますから、実にだれにも慕われて、先生、先生としたわれて、先生の悪口いう人ありません。ほんとうに立派なお方です。
私は先生がおおこりになったのを見たことがないのです。長々おつきあいしましたけれども、人の悪口を聞いた事ありません。先生はいつもながら、よく神仏におつとめになります。人間にもつとめます。精進行出来ています。
そうして、一生けんめいに神仏に足を運び、心を運んだお方でございますから、禅行も無論出来ております。その証拠には、先生が人を助ける風を見てごらんなさい。あれは神仏からもろうた知恵で助けとるのです。実にその助けぶりが、ほんとうにきれいです。これは先生に会った方は、よく私が申すまでもなくご承知の事と思います。これを総じて六波羅密と申します。これは四九九条に先生がその事をおっしゃってある。
先生は六波羅密という学問上のお経文はお知りになりません。しかし、おっしゃる事がきちっとあっております。
この六つが大事ぞと先生はおっしゃいました。どうぞそのおつもりで人間の方をかるく見ないように、人間の方が出来とらなければ、神様は好かんのでございますから、人間の悪口いわれて、もろうたおかげは邪道でございます。
悪魔がつけますから、これを勘違いなさらんようにおねがいしときます。
(昭和三十九年五月十五日講話)
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第五〇〇条 「神仏の知恵は人間の知恵とは丸っきり違い、人の力ではとてもはかり知る事は出来ぬ。たとえば座して千里を知り、萬里を見る事も出来るなど、人間の理論を飛び離れた知恵から出る力である。この知恵はいいかえたら、いかにすれば人間が助けられるかという慈悲から出た知恵である。」
人間の知恵と神仏の智恵と違うということは、どんなにちがうのかという事を先生がおっしゃったのです。五○○条をちょっと読んでみます。神仏の知恵は人間の知恵とはまるっきりちがい、人の力ではとてもはかり知る事は出来ぬのである。たとえば、座して千里を知る。すわっていて千里を知っている。又遠方を見る事も出来る。人間の理論を、飛びはなれた知恵から出る力である。この知恵はいいかえたら、いかにすれば人間が助けられるかという、慈悲の心から出るものである。これが五○○条でございます。つまり六波羅密行は六つございますが、その六つのしまいの禅行というのをお話しする上に、その後に知恵という事を書いとりますが、やはり知恵と申しましても、学校でけいとする学問の知恵とはちがいまして、神仏の知恵という知恵があるのです。人間の知恵と、神仏の知恵とはどんなにちがうのかという事を教えてくださったのが五○○条なんです。それをお話ししますというと、なかなかむつかしい事になりますけれども、たとえをおいてお話ししましょう。
ここに、はがまがあるとしましょうか。そうして、はがまをそのままきちっとふたをして、外との交通がないようにきちんとねじでしめて、その中へあめ湯を入れたとしますか、あめ湯をこしらえたはがまです。それをねじできちっとしめて、そとから水も風も出入りせんようにしておいて、太平洋へながしたといたします。むつかしい話しですけれども、おわかりになりますか。はがまで、あめ湯こしらえて、そしてふたをきちっとねじでしめつけてすこしも空気さえも出入りせんようにしといて、それを太平洋へ流したといたします。いつまでたったって、波がバタバタしてゆれましても、外の潮水と、あめ湯とはまざりません。何年たったとて、あめ湯はあめ湯、海の水は海の水です。
ところが、そのはがまのしりへ穴をあけとくのです。そうして流すと、いつのまにやら、あめ湯が外へ出てしまって 海の水がはいってきて、内と外とが同じになってしまう。その時分に、ふたをとってしらべてみたら、まるっきり外と内とが同じになってしまう。するとこんどは、そのはがまの中へしゃくをつっこんですくいだします。そうして海へもどさんと、さあっと、そいつを外へやってしまうのです。太平洋から外へやってしまう。そうすると、くめどもくめども、いくらでも水がはいってくる。太平洋の水がその小さな、はがまの中へはいってしまうのです。という事がおわかりになりますね。
これは理論です。理屈はそうでこざいませんが。わかりますね。そこで私が申すのは、そのはがまというものを自分というあのかたにおいてごらんなさい。それと、はがまから外の事は人とおくのです。自分という者と人という者とは、全然おつきあいもなけりゃ、交通もない。慈悲心もない。そうしておいたら、いつまでたっても、いくら年がよったって人の事はわからん。わが事を人に伝える事ができん。ところが、そのわがというはがまに穴をあけるという事は、これはたとえでございまして、人の事を思うという事になるのです。もし人の事を思ってあげる心があるならば、他人と自分が交通しはじめます。いつのまにやら人の事を思うて、わが事のように思う。わが事は人の事のように思う。そうして交通すると、太平洋大のはがまになったというたとえでございまして、人とわがとの区別がつかない。すなわち慈悲心にあふれる。平等な知恵がうまれてくる事になります。そうすると、そのはがまは小さいけれども、太平洋の大きさがあるといいかえる事ができます。もう一ついいかえたら、小さな個人ではあるけれども、世界に通じる知恵ができたという事ができます。これがおかげもろうた事になるのです。
すなわち、自分という考えをなくしてしまうのです。人もわれも同じじゃと、こう考えた時には、神さまがちゃんとその人に知恵をかすのです。どうすりゃ、人が助かるかと、あの人が助かるか、その知恵を神仏の知恵というんじゃ と、こういう事になりまして、この五○○条にかいてある事は、人間の知恵と、神仏の知恵とちがうでございましょう。人間の知恵は、わがの損得をわりだした知恵であり、神仏のは、うちも外もない、わがも人も同じだと、互いに助けあわないかん。そこに不思議な知恵がでて、助ける場合には、不思議に助かるのでございます。人間のちえでは、わからん助かりようができるのです。これを神仏のおかげというとります。先生は、人間の知恵というものと、神仏にもらうた知恵というのは違うのだという事を五○○条で教えとるのでございますから、どうぞそこをおまちがいのないように願います。
学校では理屈の知恵を教えますから、今日の学校の生徒は悪口いうので、わたしは好きません。しかし人間の知恵としてはあれでよろしい。しかし神仏の知恵と違いますから、いろいろ新聞にのりますが、気の毒な事がのっとります。これは人間の知恵にようたのです。迷うたのです。神仏の知恵を使いそこのうた所にああいうまちがいが起こるのでございますから、どうぞ、先生が五○○条で教えてある事を、力を入れて、ああ人間の知恵ではいかん。やはり神仏の知恵と、人間の知恵と二つ充分ないあわせたものでなければ、運のええ一生はおえられんという事を考えていただきたいのでございます。
これは私が、むずかしくいいましたけれども、あなたが世の中をみてごらんなさい。あしこの家はこういうきふうでおすまいなさっとる。ああいう気の毒な事になってしもうてと、これは実例がたくさんございますから、どうぞ先生が教えた事を、それを手本とみてじっとみてごらんなさい。わかります。私が申した事を、どうぞそういう風に大きな目でみて、それをご自分の所滞にお使いになって、誠に目出たい孫子まつだい、かわらんところの喜びの家庭をお造りになるようお願い申し上げておきます。
(昭和三十九年五月十五日講話)
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