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第四七二条へ 第四七三条へ 第四七四条へ 第四七五条へ 第四七六条へ 第四七七条へ 第四七八条へ 第四七九条へ 第四八〇条へ第四七一条 「もの忌みに心を苦しめてはならぬ。神仏にすがりさえしておれば、これに上越するもの忌みはないはずである。」
こういう事を先生がおっしゃったのですが、もの忌みというのはよくございましょう。あんた方がお暮らしなさる上に、もの忌みという事をよくお考えになる事があると思います。たとえば、どっちへ向けて、どんなにかしたら神さんが怒るとか、あるいは、つじの真かどで小便したら、つじの金神さんに掛けたら怒られる。そんな事よくいいますが、もの忌みというのがあります。それから、葬れんに会うたらいかんというので、ツバ吐いて横へ向いて通る人もございます。ツバを三べんチュウチュウチュウと吐いて横へ向いて通る。そうしたら運がええ。と、そんなもの忌みはせんようにと泉先生がおっしゃったのです。
お大師様は、人が身を投げて、この地で身を投げたんじゃと聞いたら、お大師さんはそこへお地蔵さんとか、お不動さんとかをきざんで建てて、人の為にお経文を繰りなさって、その人の冥福を祈った。こういう事はよく残っております。それから、あの汽船が大阪とか神戸とかへ行きよりましょう。あの船から身投げがあると船の名を変えると言うことです。船長さんが船の名を変える。こういう事をよく言いますが、泉先生はそれをお聞きになって、このもの忌みというのは飛び込んだ人、あるいは気の毒な人に供養をしてあげるとよいんじゃ。たとえ光明真言の一口でもその人の為に繰ってあげる。こういう事がええんじゃ。この前も、南海汽船が淡路の沖で、大きな波に会うて沈みまして、沢山な人が死にました。あの時も、海でなくなった人の為にといって、花輪を沢山こしらへて沖に流して供養した、という事も聞きましたが、もの忌みって、きろうたらかえっていかんぞと先生がおっしゃったのはここです。
もの忌みすなという先生は、どんなになさっているかというと、先生と私が一緒にお供して行きました時分に、向こうから葬列が来よる、すると先生が帽子をとってお辞儀しといて、通り交わしました。それでその後でお尋ねしたのです。家へ帰って。「先生ああいう時は、先生どういう風にお思いになっとるのですか。」先生がおっしゃるには「それはそのお方が、この世で色々な苦労な死に方をしたとか、何とかいうても、しゃばで勉めてくれて今、遠い所へお出でよるんじゃ、『ご苦労でございました。』というて、わしお辞儀したんじゃ、ツバ吐いたり、もの忌みしたり九字切ったり、そんな事はせん。」こういう風に先生は、いつもそういう場合にでも功徳を積みなさるのです。そういう事を先生がおっしゃったのでございます。私の事いうたら妙な事でございますけれども、どこやら、ねこをたたき殺して、そうしてねこにとりつかれて、行者はん呼んできて、拝んでもろうた。すると、そのとりつかれとる人が言う事には「お前なんかが、いくら拝んだとて、いんだるか、そんな事ひとつも恐ろしいないわ。わしは恐ろしい人が一人ある。頼まれたら聞かな仕様がない人がいる。わしらの友達が、みぞの端や川で死んでから、プクプク浮きょるのに、ご真言繰ってくれる人が、これからつい十丁ほど西に居る。泉先生のお弟子じゃ。」そういう事聞いて、そんならだれだろうかと言う事で、私とこへきて聞いた人があります。「旦那はん、ほんな事なはるんで。」「ええ、わしはまあ、犬でも、ねこでも、ねずみでも、鶏でも、何でもよいが、水の中へ落ちたりして、川へ流れる事がある。それを見ると自転車で走っていても、ご真言繰ってお辞儀しといて行くんじゃ。」「ほうか知らん、ほなにいいました。」そういうて、私がいった事を帰っていうたんじゃそうです。取り落そうとしとる所で、「ほな、もういぬ。」というて、いんだという事です。
こういう風に、これは私の事で自慢みたようになりますが、どうぞ功徳を積みなさったら、そういう風に向こうさんが聞いてくれるのです。泉先生はその事おっしゃるのですから、どうぞ、功徳をお積みになるようにお願いしときます。
(昭和三十九年二月十五日講話)
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第四七二条 「神仏はご自分の悪をいわれるより、かわいい子のわるをいわれるのが、お好きにならん。この有り難い事をよく考えて見よ。」
これは、お経文にもあります。お経文に書いてあることは、わしの頭の上へ、げたはいて上がっても、わしはおこらんけれども、わしをたよっておる者を、むごい目にした者は八つ裂きにするというような事があります。大和の国には歳徳神さんという神様があるそうでございます。その歳徳神さんのお子様が八人あって、八人が八しょう神さんといいまして、まあお姿を見るというと、非常に荒神様のようでございます。人間を懲罰するお役目のように、いうとります。
すなわち、神様は自分を信ずる者には、福をさずける。お正月の神さまは福を授ける神様です。ところが子供しは八しょう神さんというて、罰しる神様です。これを見ても、この泉先生がおっしゃった事がよくわかるのでございます。泉先生はいつもそういう事をおっしゃっていたのですが、神様仏様にすがっとるものは、かわいがるけれども、 わしのかわいい者をむごい目にする者は、やりつける。こうおっしゃっていました。先生がそんな事をおっしゃっていましたが、なるほどよく考えてみますと、方位、方角とか、あるいは、その日の吉凶とかあるいは知らずして土地を掘るとか、あるいは物を突くとかいうような事で、さわりがあったというと、昔からよくいうのでございますが、それは、お大師様は、そういう土地に限り、お札所とかお寺を開いておいでます。 すなわち、神仏にすがったら、それは消えるということです。けれども、神仏にすがっとる人のいうことを聞かんで、なに、そんなことあるか、なにくそ、そんなこというたってかもうものかという人がしていられるのを見るというと、先生がおっしゃるの無理ないと私思うのでございます。だから要は自分がすがるということです。どうぞ、私はわかりませんのでございますから、こんどこういうこといたしたいと思うとるので、おねがいしますというといてたのんどいてせよと先生はおっしゃった。これは神様、仏様たよっとるのじゃから、神様、仏様が保護して下さる。
先生がこういう事を、そうおっしゃるのを見ては、なるほどほんに先生はご自分が経験なさった事をおっしゃったんじゃなあと私は思います。
どうぞ皆さんは、いろいろにしているのでございますから、どうぞ木を切っても、みぞを掘っても、何事でも、たのんでおいてなさる事が、私は一番よいと思います。先にたのんでおいて、そしてする事。これは、私はお勧めしたいと思います。泉先生はそういう事をおっしゃっておりますから、四七二条にそれを書いたのでございます。安心なさってなしたらよいと思います。
(昭和三十九年二月二十九日講話)
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第四七三条 「死ぬ時の願い事はよくかなうものである。これは何も不思議な事はない。これはこの世でわが身に未練がないから、神仏があわれんで下さるからで、これを見ても、神仏はわが身を案じる事がいかにおきらいであるかがよくわかる。」
こういう事でございますが、これを見ても、神仏は、わが身を案じることがおきらいである。こういう結論になるのです。これは、どういう事かといいますと、お年寄りがねえ、おっしゃるのをおりおり私は聞くことがございますが、私はもうこの年になって何じゃ願う事ないんじゃが、もう死ぬ時、楽にぽっくりと手間かからんように、苦しくないようにお願いしたいものじゃという事を、お参りしたらたのんでいるのよと、こんな事を年寄りの人がおっしゃるのを私は聞いた事がございますが、これは考えてみますと、生きておる間は、もうわが身については、何も願うとらんのです。もう未練がないのです。まあ、ぶげん者になってみようとか、名誉をあげてみようとか、そういう事も考えておらん。ただ向こうの世へ旅立ちする時分には、どうぞあっさりと、ほかの者に世話かけんように、楽に向こうへ行きたいと、こういうのでございますから、ごくきれいな、清浄な願いだと私は思います。これはかなうのです。 私しの店の酒屋の、ちょうどおばあさんがありまして、やぶのばあ、やぶのばあと皆がよう言うて慕うていましたが良い人です。よく私とこの世話をしてくれましたが、常に言っていました。「だんなはん、私はもう向こうへいく時には、だんなはんに世話かけんように、こっとりとむこうへ行きたいと、たのんみよんでよ。」「ああそうでかい、それは結構やな。」と私言うた事でありましたが、ある時「だんなはん、眠たいけん寝さしてつかはれよ。」というて、二階へあがって寝たんです。それきり知らんのです。どんなに言うても返事がない。生きとるんでっせ、生きて苦しゅうない、楽なのに、それに返答せんのです。それで何でも四、五日もまだも長うに、にこにこ笑うておりましたが、知らんずくで向こうへ行ってしまいました。こういうようなもので、まことにその最後の願いというのは、きくようでございます。よくがないのでございますから、ききそうでございます。
また、そのおばあさんが言っていましたのでございますが、欲というのは誠に神仏のおきらいなものだと思いますのは、神戸へあのおばあさんの娘が行っとるのです。そこへおばあさんが、あの子がいっているんですが、その娘さんもおばあさんの子でございますから、ごくまるいええ人でございます。その娘さんの隣にもう至極欲な家がありまして、お仏だんへお供えするんです。ご飯や、いろいろなものを。すると、ねずみが荒れるのをきろうて、ああしてお祭りしたもの皆食うので、いやらしいと言うて、お供え物に、ねこ入らずを入れたのです。仏様にさしあげるところのごちそうに、ねこ入らずいれたのです。するとまあ、ねずみは無論それで閉口しますが、そこの家におばあさんが一人ありまして、おばあさんが夢を見たところが、お仏壇から白い煙がずーっと外へながれているんじゃそうです。
するとその煙の上へ、雲のような煙の上へ、きれいな、ぴかぴか光る着物を着とる仏様があり、又白い着物きている仏様があり、皆乗ってずーっと外へ出ていく夢を見た。どうしたのだろうかと、それを日に日に見るんじゃそうで す。そのおばあさんが「どうしたんぞいな、私こんな夢見るんでよ」と、ところが一人死に、二人死に、そこの人が皆死んでしもうて、おばあさん一人残った。そのおばあさんは、ええおばあさん。そういう事をやぶのおばあさんの娘さんが聞いて、まことにこわいものじゃ。欲にかかって、お供え物にねこ入らずや入れたりすると、おこられたんじゃという事を言うたって、もどってきて言っていました。
私はその話を聞いて、なるほどな、ほんにそれはさしあげる物にねこいらず入れたりしてさしあげたんじゃ、それはいかんなあと言うて、話しをした事でございますが、そういう事をする性根では願う事がかなわんのです。長く生きたい。息災に生きたいのは、人間の欲でございます。ところがそれは、かないません。ところが、もう最後の自分の欲は、よくきいてくれるという事は、これは不思議じゃと思います。これをよく考えてみますと、自分の身体に、 もう何にも望みがない。何にも望みがないきれいな、白紙のような性根になっとる人の最後の願いですから届くのです。これをみては、最後のような気持ちになったら届くと私は思うのです。なんぼ年が若うても、もう最後のような別に欲がない欲を願うんじゃない、こういう気合いであったら若い人でもかなうと私は思います。 先生は、そういうお話しをなさったのを、私はそういう風に考えて書いたのでございますが、あんた方もそういうお話をお聞きになった事があるでしょう。お年寄りが楽にあの世へ行きたいという、それはもう必ず届くそうでございますから、たとえ若くても欲を捨てた、きれいな心で願うことは通るという事になるのでございますから、どうぞ神仏にお願いするのは、自分の心をきれいに洗うて、お願いするのが一番よいと私は思うのです。
(昭和三十九年二月二十九日講話)
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第四七四条 「人を助けたい願いはこの世でかなうが、欲の願いは、この世の行が届かねばかなわぬものである。これを見ても、わが身の願いは一代をぎせいにする覚悟がなければ届かぬものである。」
「人を助けたい願いはこの世でかなうが、わが欲の願いは、この世では届かんものである。これを見ても、わが身の願いは一代を犠性にするというような心であったら届くんじゃ。」と、こういう事を先生がおっしゃいましたが、人を助けたいという、困っとる人をお世話したいというような、願いはかなうのです。人の事を願ってあげるのは、世話をしてあげる事、これはかなうのです。ところが、わかの事は、かないにくいとはどうしたのならといいますと、 わが身に欲がある。その欲をかなえてもらいたいという根性があるから、かなわんのです。それで行をするのは、人を助けてあげるという行は、よく届くというのはここにあるのです。
わが身の事思いませんから、お大師様は、おん年が七つの時に、実に身の毛の立つような願をおかけになった。私は毎晩、仏さまが来て、おまえさんは、この世で人を助けんならん仕事をせんならん。大きなおかげがもらえると、そんなにいうて、話しをしてくる。私はもう有り難い事じゃけれども、ほんとうにこの自分のからだが、人を助けるような大きな仕事ができるんなら、生きとってもよいけれども、ほんとにそれが出来んのであったら、もういっそ無いほうがましだというので、あの讃岐のあすこは捨身ヶ嶽という大きな山がございます。その山のてっぺんから谷へ飛んだのです。「もし私が生きておって、人が助けられるような体になれるんであったら助けてください。それができんのであったら、もう生きとっても、ねうちがないから、ここから飛びます。」というて飛んだのが捨身ヶ嶽です。
私は仲須さんのお供をしてそこへ参りましたが、身の毛が立つような所です。そこは、七つの時にお飛びになったというんです。まことに、そこで私は涙ぐましい想いで拝んで帰りましたが、実に有りがたい所です。
こういうような風に、お大師様が七つの時に、そういうお考えであったために、どうでございますか、大きなお仕事をなさいました。先生はそれをよくおっしゃる。わが身を思わなんだら、わが事でもとどくんじゃと。わが身の欲の願いは届かんのぞとおっしゃった。これは、私はいかにもと思うて書きとめたのでございます。わがの身の欲というのはきたないですから、神様には通りにくいんです。先生はそういう事ばかりお考えになっとるお方です。
(昭和三十九年二月二十九日講話)
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第四七五条 「人の行というものは、習うより慣れる事が大切でくせにならぬと使えぬ。」
こういう事を先生がおっしゃったのですが、これは、私は子供の時からよくお年寄の話しを聞くのに、習うよりも慣れということをよく私聞いた事があります。これは、こういう事をしたい、ああいう事をしたいといって行をなさって神様にお願いする。それは結構です。あんた方もそういう事は、ごらんになる事あるとおもいます。 たとえば生駒さんへお参りしたら滝がございます。あの滝で水にうたれて行をなさっておる。それはまことにけっこうでございますけれども、泉先生は、そら行はけっこうじゃが、それは習いよるんじゃが、その習いよる行を、もう癖にしてしまわないかん。常に、もうわがのくせのように神仏を思うということを、くせのようにならないかんのじゃ。いつでも癖にしとけと、こう先生がおっしゃったが、いかにも私は、これは先生のお言葉は、ええお言葉じゃ、違いない言葉じゃと思います。習うより慣れたらよろしいんです。
それであなた方がよく見てごらんなさい。この慣れるという事は、もうそれは癖なのでございますから、あひるがとめこ(あひる舎)から出てきます。あれ、あの冷たい水の中へはいっていって泳いでいます。あれ習いよるんじゃないのです。もう癖なんです。水の中へはいりたい癖です。行しているのではありません。もうそれが癖になっとる ので、それが自分の一生に大きな得があるんじゃから、習うより慣れたのがよいのじゃという事です。 この癖ということで、おもしろい事がございますが、私は軍隊へ行く前に寝坊でございまして、朝よく寝よりました。それで、お前のようにそんなに寝ていたら軍隊へ行ったら、兵隊に行ったら、そらおこられるぞと、よう私は言われたこと覚えています。さて兵隊に行ったのです。さあ厳重な、これ寝るわけにいかん。そこで私は考えた。これは、何しても人にかなわんのじゃが、鉄棒したって体操したって、走ったって、どうもかなわん。朝起きるんだけでも負けんようにせんならんというので、ちゃんと、よいから、どうぞ明日の朝早く起こして下さいと言って、ご先祖にたのむのです。すると不思議に起きれるのです。朝起きると寝台の上にいる間に、はやもうちゃんとそろそろと用意するのです。あまり早く起きるとしかられますから。するとラッパがピーピーッと鳴る。ラッパが鳴るんといっしょにはねおきて毛布をたたむ。軍服をきる。そうして営庭へ飛び出て点呼を受けるのです。検査をうけるのです。
まあ、おかげで私は、もうあまり人より遅く並んだ事はありません。たいてい人より早いうちに起きられて、用意できました。その時に私、考えたのです。これは習ったんじゃできん。もうそういう癖になってお日さんが出る前に目があくという癖になった。今でも私は兵隊から帰りましても、朝早いんです。妙にお日さんが出る前に目があくのです。有り難いと私は思うとりますが、そら泉先生がおっしゃる、習うんはむずかしいけれども、慣れたらええんじゃ、癖になったらどんな事でもできると、そう先生がおっしゃった事をしみじみと今でも考えます。私は、今はずいぶん朝早いのですが、それは何じゃつらくないのです。ひとり目があくのです。癖でございます。
そらまあ、朝おきる話でございますけれども、まあ世の中のために働くという事も人さんのお世話をするという事も、神仏のお世話をするという事も、皆とれ癖になったらええのです。癖になったらもうそれで立派にできていくのでございますから、どうぞそういうふうにお考えを願いたいと思います。
(昭和三十九年二月二十九日講話)
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第四七六条 「人を助ける願いはかないやすいというても、その助けたい心の中に少しでもわがの事がふくまれているとかないにくいぞ。」
こう先生がおっしゃった。これは人を助けるという事は結構ですが、その助ける中に、自分というわが身の事が含まれておったら、それはだめぞと先生がおっしゃった。どういう事かといいますと、ちょうど人を助けさせてもらいます。人をおがませてもらいます。すると私の運がよくなるからというように考えたらいかんと先生がおっしゃるのです。自分がどうなってもよい、この人を助けたげないかんといわないかん。まだもう一つ、その人の運を悪い所の運を私がひきうけますと、その方がよう通ると先生がおっしゃったのです。
私はそれを考えますと、ほんとに先生はありがたい事を言うてくれてあったものじゃと、あの地蔵経というお経文があるのですが、十輪経というお経文がございます。それはお地蔵様の事を書いてあるのでございますが、それを読んでみますと、お地蔵様は身代りになるのがお好きです。人のみがわりになる。私がみがわりになりますと、つまり代償仏ともいいます。代償払う、ご自分が代しょうを払う。そういうお考えであったからして、お地蔵さんとして、今日お祭りをしてあるのでございますが、ちょうど泉先生がおっしゃるように、あの人は困っておいでる、私がこれ引きうけて、私がどんなになってもかまいませんから助けてあげて下さいというのが、お地蔵さんの考えです。これは十輪経に書いてあります。泉先生は、そういうお経文を見ておっしゃるのでない。先生はお経文など、ようお読みにならんのじゃけれども、ご自分が私にそういうお話しがありました。人を助けるのは結構じゃけれども、その助ける中に自分というのがはいっとったら、何じゃ役にたたん。こういうことです。
もう一つ、そのたとえを申して見ますと、まあ人を助けるのにじょうずな人が、おまはん、これ神さん仏さんにわしがたのんだげる。今から一週間たのんだげる。その代わりそれがかのうたら、うちの方へちっともってきなよと。
もし、そういうような事いうては、かなうものじゃない。神様が笑うと、そう先生がおっしゃった。私は、この人を助けてあげたい。たとえ私が食えんようになっても、この人だけはぜひ助けて上げたいと、こういう気でなかったらいかんぞと先生がおっしゃいました。私がいまでも、この先生の声が聞えるように思います。泉先生は、ご自分がそういうお考えであったのです。それは中にはまことに、お手元が不自由で、先生に拝んでもろうても、そのお礼が出来んような、つらい人もきておりました。私はそれを見ましたが、お遍路さんの二人連れの人が先生の所へきまして、先生に拝んでもろうた。ところが、ようわかりまして、喜んで、そうしてその二人が先生のお礼を包みよるのです。 すると先生が「もうお前さん、それやめた、やめた、それやめな、あのこれあげる。」というて、先生の方からお金を上げたのを私は見ました。「それ、おまはん、あいすまん言いかたするけれども、今晩あんた泊まる宿賃、それ引いたら無いでないか。」と、そりゃ今日、方々でもろうて、そして木賃宿へ泊まるその算用を二人がしているのだろうけれども、先生はちゃんと知ってござる。それおまはん、今は、わしの方へ包んだら、それ足らんでないか。こん晩の宿賃が足らんからなあ、私がこれあげるというて、先生が拝んだげて宿賃をあげたのを私見ました。
これを見ても、先生がいかに助けようと思うたら、わが身削って助けるのです。 決っして我がという心がはいっておりません。だから先生が拝んだらようきくというのは、そこにあるのです。お遍路はん、泣きよりました。有り難うございますというて、そういう事を私は津田で見ましたが、なるほど先生がおっしゃることは、そういう、ご自分がなさることをおっしゃるのでございますから、力がいっとります。
そこでわたしは考えた。ああ、ほんに信心というのは、わが身の事をいれとらんのが、神様によく通るんじゃなあ。と、先生は偉い偉いというて、人がほうぼうから寄って来るが、ここを知らないと信心もだめじゃと、私は思いました。まことにそういう有り難いお方で、人の手本を生きの世でなさったお方です。別にお説教もなさらない。為になるお話しを先生がなさったんでない。先生の体で人を教育なさった。まことにありがたい生仏さんでございました。
それでどうぞ、先生をお慕いなさる方は、そういう先生であるという事をご承知の上で、自分もそういう先生のまねがしたいとお考えになったら、それでよろしいのです。そしてあなたがたの望みがあることを、先生にお願いしたらよろしい。どうぞその先生のまねをしていただきたいと私は思うので、今日そういうお話をいたしました。
(昭和三十九年三月十五日講話)
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第四七七条 「人をためしてみるということ、疑いから出たとしたら悪い事である。」
こういう事を書いておりますが、この泉先生に私は久しくお仕えしましたが、先生は一つも疑いなさらんのです。 人をためしてみるやいう事絶対になさりません。というのは、あれくらいわかったら、もうその疑わなくてよろしいのです。むりもないと思います。実にきれいな心で、それで先生おっしゃったのです。人をためしてみるというのは、 疑いがあるからためしてみよるんじゃが、そいつはわるい。疑わんようにせないかんと先生はおっしゃいましたが、先生はようわかっておいでるのです。ためしてみるということは、わからないでもせないほうがよいと思います。
(昭和三十九年三月十五日講話)
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第四七八条 「人にあやまちがあった時には、自分が誤った気持でつきあえよ。」
こう先生がおっしゃったのですが、これはよくある事でございまして、たとえば、まあ細かい事をいいますと、からつものですな、手伝いしてくれよる人が、からつ物を洗っているうちに、かんと落とすとする。あやまったのですね、その時分には誤った人の気になって、つきあえよと先生はおっしゃったのです。なるほど、これはようできとるので、その時分に「あらっ」とか「ああ」とか「おしいなあ」とかいうたらつらいのです。向こうの人は、そこを、からつ物を落として、めいだ人の気になってつきおうてあげとこういうのです。どないいうたらええか、ああ、それめげなんだら、おまはん、からつ物は、それ一生に、ちびる物じゃないんじゃ。ああ、けっこう、けっこう、こういうふうに いったら向こうの人が気楽なんです。
どうぞ、これはからつ物にかぎりません。人があやまったのをみた場合には、その人の気になって、つきおうてあげというのです。これ、ええ事だと思います。ちょっとできにくい事です。けれども、むこうさんが気安うに思えるように、言うてあげというのです。なるほど、先生は、そういう事についてもご注意下さいました。
(昭和三十九年三月十五日講話)
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第四七九条 「質素はわが身のためにするのではない。天のめぐみにお礼申す気持でするのがよい。神のめぐみにあまえぬ心がけがいる。余分ができたら世の中のために備えて、おくのがよい。」
こういう事を先生がおっしゃったのですが、このしまつというんと、きたないというのはようにとります。かたちが米粒一つでも落ちていたら拾うという事は、きたないようにみえるのです。質素ということと、りんしょくという事とは誠に形がよう似とります。しかし質素というのは、自分のためにそれを拾うとか、しまつするとかいうんじゃなくして、もう食べる物でも、なんであっても、皆の世の中のものである。これをあだに使うてはならん。こういう心持ちでございますから、わがのためにするんじゃないのです。世の中のためにする、そうしているときには、惜しげなしに出す。質素な人でなかったならば、出すことはようしません。きたないです。しまつをするということは、出そうとて始末をしよる。こう先生はおっしゃった。 なるほど、出したいからしまつをする。ところが、きたない気持になってくるというと、出すのはいやじゃから、しまつする。よう似ておりますけれども、精神は全然違うのでございますから、どうぞ、しまつをするということは誠に結構な事でございます。けれども、取り違いのないように、したいものだと思います。
泉さんは、米一粒でも、おすてにはならんので、食べられんようなふんだり、泥がついておりましたら、これ拾うて、すずめが来る所へ置きます。先生、すずめにやるのです。こういうふうに物を消してしまうという事をなさらんのです。これはまことに先生がなさっている事を見ますと、頭が下がるのです。そしてご自分の家にたまった所のお金は、困った人があったら、サーとあげてしまうのです。さいふがからになるのをなんともないのです。こういう大きなお気持でございます。
(昭和三十九年三月十五日講話)
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第四八〇条 「人の行には重いと軽いとがある。わが身の上のことはすてて、重い方に従うていくのがよい。ところが、この重い軽いをはかりわけるには、わが身のことをすてねばわからん。昔からこの はかりわけを間違えて汚名を残した人が沢山ある。」
心せねばならん。こういうようなことを先生はおっしゃったのでございます。人の行いには重い軽いがある。一つの行いでも、わが身のことは捨てておいて、重い方に従ってやるのがよい。ところが、重いとか軽いとかいうのを計り分けるのはまことにむつかしい事であるから、わが身の上の事を捨ててせんというと、大変な間違いを起こしてくる。こういうような事を先生がおっしゃっておるのですが、ちょっとわかりにくいような事でございますけれども昔の話に、沢山これがあります。
たとえば、侍がね。武士道というのがございまして、自分のことにかかって、たいへんなまちがいを起こす。たとえば、この織田信長が偉い人で世の中を非常に切り従えて、将軍職につきましたのでございますが、このお方が、まあ私らがああいう偉い人を批評すると言うのは、悪いことでございますけれども、とにかく攻め滅ぼして、勝ったのはええんじゃといわゆる武将です。わが治める土地がちっとでも広いのがええと、こういうような考えから、焼き打ちしたのでございます。そうして大将を殺して、その一国を自分が治める国にする。こういう武力一点ばりの人であったわけでございますから、自分がする攻めるとか、なんとかいうことに対しては、国が治まるじゃの治まらんじゃのいうことを考えずして、広くせめとった方がええと、こういうような考えだったのです。
ところが、こわいことは、あの高野の山の上に昔は高野聖というて、十人くらいの坊さんが、日本中をほうぼう回りまわるんです。修業するのです。お大師様のみ跡をしとうて、実に偉い坊さんが、そういう風にする坊さんがあった。ところがある日、高野ひじりの坊さんがご相談をして、日本の国はお大師様がありがたいお教えを広げてくださった。これを広めることは、我々の仕事であるけれども、あの国の始めの天照大神さま、国の始めの神様ということを一般は知らん。これを日本の国全体に知らせたいと、という相談が出来まして、お伊勢さんにお寺を建てまして、そうしてその千人の坊さんが、お伊勢さんのお札をこしらえて、日本中を回り始めたのです。お祭りすることを、あなたがたのうちに天照大神宮様というたら、一軒に一つはお祭りしてあるはずです。これは高野の坊さんが始めたのです。その有りがたい寺を、お伊勢さんに建ててあったのです。ところが信長が勝利をおさめる時分に、坊さんは殺さんものを殺すのをいやがる、人を助けるのが好きだ。ちょうど信長と反対でございましょう。これは、どうもその殺さなどんならんというので、その坊さん千三百人おったそうです。その千三百人の坊さんをことごとく首切ってしまったのです。殺してしもうたのです。実にあわれな地獄の絵巻であったそうです。
それから今度は、これは根を絶やしてしまわんということ、国が治まらんと、ここが先生がおっしゃる大事な所です。武力で治めようとしたんです。そうして、高野を焼打ちしてやろうというので、京都の本能寺で、その用意をしておったところが、京都の本能寺で焼打ちされて、光秀のために殺されたのをご承知でしょう。こういうふうに、天下をとる将軍でさえも、国を治めるには、どうやったらええかという事をまちがえたのです。それで自分がする事がかえって治まらんように、武力でもっておさえようとしたわけです。
泉先生は常におっしゃったのです。どういうふうにするのが一番大事かうちの家を永久に何百年でも、何千年でも続くような家にしようと思ったら、わがする事に重い事と、軽い事とをさがす。家が治まる事が大事と、また世の中が治まる事が大事というのを第一にせないかんぞと、先生がようおっしゃったのです。その事を書いたのでございますが、歴史をみても、芝居をみても、よくおわかりでございましょう。あの偉い信長が本能寺で焼打ちせられたという事も、それからはじまっとる事です。
(昭和三十九年三月十五日講話)
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