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第四五二条へ 第四五三条へ 第四五四条へ 第四五五条へ 第四五六条へ 第四五七条へ 第四五八条へ 第四五九条へ 第四六〇条へ第四五一条 「凡人は慾で世を渡る。賢人は知恵で世を渡ろうとする。聖人は神仏を師として世を救う。」
これ又面白いのです。人間を三つに分けとるのです。凡人といいますのは、普通の悟りの出来とらん人を、凡人といいますが、凡人は欲で世を渡る。何もかも欲です。わし損じゃ、こうしたら得じゃという風に、欲一点張りで世の中を渡る人が凡人じゃ。ところが賢人というのがありますね。つまり賢人です。賢人は知恵で世の中を渡る。考えの良い人があります。こうすれば、これがこうなる。これも大事です。工夫が良い。考えが良い。これも大事です。これは賢人の内です。知恵をよく使うという事です。その次には、聖人というのは、もうこれ一番上です。聖人というのは 神仏を中心として考えて行く。先生は、こういう風に、人間を三つに分けとるのです。
凡人と賢人と聖人と、これはあんた方が世の中で、大勢の方と交際なさるのに、よくおわかりになるだろうと思います。自分の事だけ考えて暮らしている人があります。人が難儀しとろうが、どうしとろうが、余り心配しとらんのです。川向かいの火事は大きいほど面白いという人があります。そらまあ、あまりひどいですけれども、自分の身の上にかからん事は平気で世の中を過ごしとる。こういう人があるものでございます。凡人です。ところが、今度は賢人というのは、かしこい人ですから、何もかも知恵を使うてやる。そういう人もあります。人はどうでもええとは思うていないけれども、さほど思うとらん。知恵一点張りで行く。何じゃ、情も、ぼさつもないような知恵一点張りで行く人。これもあります。世の中には、又神仏に仕えて、これ、こうしては、よくない自分の良心生活、頭の中で考える。よく考えて暮らしておいでる人、こういう人があります。あんた方が世の中をみならしてご覧になったらわかると思います。この三つの種類、ともかく、その信仰を中心として暮らしておいでる事が一番得です。
まあ損得言うと悪いですけども、信仰して居る人は、運がよろしい。又恵まれた生活が出来ます。そんなに知恵を振りまかなくとも、独りでに、知恵というのは、出て来るものです。そしてわが身を大事にしなくても、ひとりでに運がよくなってくるものです。この三つの中で一番神仏を中心としとる事は、わが身を、心配せずともよくなります。又知恵はひとり出てくるものです。 先生はこういう風に三つに分けて、そうして一番大事なのは、神仏を中心として暮らしなさいと言う事を皆に教えとりました。
(昭和三十八年十一月三十日講話)
第四五二条 「仏は、十界各具をなされている。ここが、ありがたい所である。
人間と少しも異なった所はない。ただ人生を悟られた方を仏といい、迷える者を人間というだけの違いである。」
これは、ちょっとむずかしい問題でございまして、人の種類を分けますと、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道 声聞・縁覚・菩薩、こういう風になっとります。この地獄というのは、てっとりばやうにいいますと、今刑務所の中へつながれて居るような、あらい事をして、中においでるような人が、まあ地獄に近いものです。餓鬼というのは、 誠に人の物が欲しい。飢えているのです。物が欲しいと言うて、飢えとるのが餓鬼です。畜生というのは、畜類同様で知恵が無いのです。誠に知恵がない。これを、三悪道と言います。地獄餓鬼畜生その次は修羅、修羅道というのがあります。修羅道というのは、とにかく、人と争うとるのです。負けぎらいです。損得言わんと、人に勝とうとするたちが修羅道と言います。こういう人も世の中にはあるものでございます。なにさま、競争心が強いのです。それから こん度は普通人、普通の人間、人間という凡人、普通人です。天道というのは、これは大きなお分限者とかあるいは 身分の高い皇族とか、華族とかいうような、身分の高い人です。けれども、神仏の目から見ると、立派なとは言いかねる。これを天道といいます。
その次が声聞、声聞というのは、今までお話しした六道の外に、神さん仏さんに縁が出来て、その話を聞きたい。お参りがしたい。こういうのが声聞といいます。声を聞くと書いてありますが、仏さんの声を聞きたい。
その次が縁覚といいます。これはたくさんあります。縁が無ければ「悟り」が出来んというような意味で縁覚という名をつけてあるのですが、あまり信仰もしない、悪い事もしない、根限り自分の事は自分がする。悪い事もせんが、良い事もせん。そんなに信仰や無理にしなくても仕事しとったら良いわと、こういうようなのが縁覚です。
まだまだわが事ばかり思うとる時代です。
その上が菩薩、菩薩というのは、ああ人間は、衣食住の三つでいけるものではない。心になにか有り難いというような事を知らねば、ただ衣食住だけで暮らせるものではないという事がわかった人です。そうしてわが身ばかりでない、人も同様であるから、共に手を引いて、人を助けたげないかんという事を考える時代が、これが菩薩です。その上が悟り開いて立派な聖人、すなわち仏です。こういう風に十種類あるんです。
ところが、この泉先生がおっしゃるのは、十界あるけれども、この仏になる、あるいは菩薩になろうという時分には、十みな揃えとらなんだらいかんというのです。ただお人がええ、悪い事せんではいかんのじゃ。餓鬼道はどんな事考えとる、畜生道はどんな事考えとるという事がわからんというと、人が助けられん。十界全部持っとらないかん。
こう先生がおっしゃったんですが、そとから先生を見ると、実に立派な偉いお方、それに地獄や餓鬼やの事知らなければいけないと言う事どうしておっしゃるのかと思って、私も考えた事がございます。 ところが先生が拝んでおっしゃる事よく聞くと、よくわかるのです。私がある時、私の友達に友達が家を追い出されて、裸で出ていかんならん事が始まったのです。それで私はかわいそうに思うて「おまはん、そりゃかわいそうな裸でそれどないなら、そうして家の物を当分もろうていかんと、どんなにして食うのか、困るでないか。」と言うて 物を取る事、教えた事がございます。すると先生がそれを拝みよって、「村木さん、おまはんは、盗っとの手伝したな。」そう言われるのです。「先生、盗っ人の手伝いって、わかりかねますが。」その時分に先生がおっしゃるのには「おまはんは、悪い事せん、人の物盗みはしないけれども、困ってしもうて、すぐに明日食う物もない。どんなにするかという時分に、おまはんが家の物盗ましたでないか。」「ヘイそんな事ございました。」「それはな、そういう事は悪いとはいわんけれども、その人間を助ける方法としては、物をとらすやいうような事をさせてはいかんぞ」
と、こういう風に先生は拝んでも、餓鬼道がわかるのです。畜生道の事もわかります。
これは畜生道の事がわかるという事に、こういう事がありました。讃岐の人です。若い子が 病気しているうちのおばさんが来て、先生に拝んでもらっていました。どういう 病気かといいますと、その おばさんところの後つぎの 若い子がご飯を食べんのです。からだは達者なのにね。ご飯食べんのに根深(葱のこと)を食うのです。生の根深をふところに入れておって、根限り食べるのです。そしてあの貝ボタンと言うて、讃岐には、ボタンを抜いた貝の殻を沢山ほうってあります。それをふところへ入れとって、ガツガツとかむのです。どうも気色の悪い狂人ですね。その子を連れて先生の所へ来ました。先生のおっしゃるには「おばさんよ、おまはん所は、この間土用干ししたか。」 「ヘイいたしました」「よう聞きなよおばさん、こんまい (小さい)犬がな、土用干ししよる麦の中へ走り込んで、小便をした。それたたき殺したんでないんか。」「ああ先生その通りでございます。内の若い者が棒でどついて(たたくこと)殺しました。」「犬がどんなに言うか、よう聞きなされよ。」と先生の声が細うなって、犬の子になってね。「先生、私はこないだ、この人の内の土用干しに麦の中へ入って、おしっこしてたたかれました。そして今、泉の端の根深を植えてある横へ穴を掘って埋められまして、その埋めた上へ、貝がらおいてあります。ほだけん、この人に知らす為に貝がらとネブカより食わしません。」こう先生がおっしゃった。おばはん、びっくりして、「あらこれ、若いもんが棒でたたいて犬が死んだ、今犬が言う通りに、先生、いけてある。」それ位先生は事がわかる。
これは、そういうような畜生道の力を持っていないとわかりません。そのおばさんはびっくりして「ああ、もうその通りです。」「それで、おばはん、これはな、掘り出して、そしてお寺さんの土地を借りて、そこへ埋めてやりなさい。」そうするとすぐに直りました。これ私よく知っていますが、このように先生は立派な聖人でおありになるのですけれども、畜生道の事もわかる。餓鬼道の事もわかるし、十界をすべて腹の中に持っておいでて、そうして常々暮らすのに、仏の心で暮らしたという証拠です。それをここで先生がおっしゃる。仏というのは十界ことごとく腹の中に備えておって、そうして仏の暮らしをなさるんぞ。とただ仏だけのお人よしでは、人は助からんと先生がおっしゃった事があります。
こういう風にどうぞ、皆さんも、悪い人の事でも、良い人の事でも、全部わかっていて、そうして悪い事は悪い事とし、せんように良い事ばかりをする。腹の中でより分けていくのがよろしいぜ。もの知らんのでは、具合が悪い。
なぜ先生がそうおっしゃるかと言うと、この頃でも新聞によく出ております通りに、あき巣ねらいというのがあります。あるいは、夜の戸締まりの悪い内があります。こうすれば、よそからはいれまい。あき巣でほうっといていかんと言う事、考えるのは、これは十界の中の悪い事を考える力です。それを知らんと言うと、わが身が守れんから、よくそれ心がけて、良い事ばかりをするようにせないかんと、先生の教えです。これを取り違えたらいかんのです。
何もかも「持っていて」悪い時は悪くせよというのでないのです。
これもひとつのお話しがございますが、お釈迦さんは、ああいうみ仏となった偉い人であるから、よもや知るまいと思うて、牛を殺して売りに行く商売の人が、「お釈迦さん、牛はどんなにして殺したのが一番肉がおいしいんですか」と問うた。その時にお釈迦はんの言葉があります。それは日に日にご馳走して、ひと七日の間は喜ばして飼ってやれ、そうしたら、うまい。と、もう牛を殺した人はびっくりしたということです。よもや知るまいと思うたお釈迦さんが、そういう餓鬼道や畜生道の人がする事まで知っておいでる。こういうのはお経文に残っとります。
このように知って、悪い事はせん。ええ事をする事にせえよと先生がおっしゃった事を書いとるのです。
(昭和三十八年十一月三十日講話)
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第四五三条 「物を考えるのに二十年や三十年の短い歴史を考えてはならぬ。人間のはじめからいえば幾億万年の歴史がある。」
ものを考えるのに、二十年や三十年の短い歴史を考えてはあやまちである。人の人間として、始まってからというような古い事になって来ると、分厘間違わず、実に正々として、きちっと物が整うものです。泉先生は正直正来(しょうじきしょうらい)とおっしゃったが、した事が必ずその通りに報いられて来るものでございます。別に後生を願わいでも、ひとりそういう風になって来るものでございますから、泉先生はその事をおっしゃったのです。少しの間位の事でみますと、あの世の中の悪たれ者きらわれ者で神信心などいう事、思いもよらんような家庭が、あんなにうまく行くの妙じゃなあ、こういうような事もたまにはございますけれども、それはほんの僅かの間しか続きません。
まず泉先生のおっしゃる目のつけ所は、まず人間の歴史が始まってからの、先祖をずっーとさかのぼって考えてみい、実に歴然としたようになってきておる。こう先生がおっしゃる。言い換えますと、今している事が、後の世の果報になるのであるから、後の世を願わなくとも、今している事に気をつけて、まことの道を伝うたら、必ずええ結果が得られる。こういう事を先生がおっしゃったのですが、実にその通りでございまして、生物は言うに及ばず草木に至るまでそうなっております。
ご承知でございましょうが、富有(ふうゆう)というかきがございますが、あの富有というかきは、誠においしいかきで人に重宝がられますが、この根を分けずして芽をつぎ、芽をつぎして種の無いのがこのごろできております。 人間が大事にいたしますと、かきの木でも何の木でもです、大事にしてくれるから、子孫の心配は、わがしなくともよい、ひとりでに広がって行くから安心して種無しの実を結ぼう。こういう事になるのでございます。 これはかきの話でございますけれども、人間でもそうです。人間でも世間の方へ向けて、功徳を積んでおきますと、世間からかわいがられて、ひとりでに家を隆盛にしてくれるから、無理に自分が金もうけしたり、仕事したり、しなくても、ひとりでに盛り上がって来るのです。そういう風に、功徳というのは、誠に重宝なものでございます。
ところが、今日、世の中は、戦争の結果でしょう。戦争というのは、殺し合いや無理もしました。そういう世の中の後を、今日受けておる。今日の人々が直ぐにピストルで撃ったり、刀で突いたり、誠に新聞をみますと、荒々しい模様に見えます。これもやがてきれいな極楽世界が生まれてこようという証拠で、これにはだんだんそういう声が起こっています。どうしても、この土地の上へ極楽をこしらえるのが、人間で一番よい仕事じゃ。殺し合いしたり、争いをしたりする事は、大体間違うとる、というような事が今日の人々にはよく響いて、文部省あたりも、まず、今日の子供を教育して、立派な日本の国をこしらえようとする精神を教科書の中へ盛りこむ。孝行、あるいは忠義、人のええ行い、そういうような事を、子供に教え込む。こういうような事に変わって行きよります。
こういう風に、功徳を積むというと、自然結果が良くなるのです。だから一時的の十年や二十年三十年位の歴史を見て、あんな家があんなに都合よく行く、不思議じゃなあと言う事は、自分の考えが足らんのでございます。長い所の古い目で見てみますと、必ずそれは、正当にさばかれて行っているのでございます。 どうぞ、泉先生はそういう所へ目をつけていて下さいと信者に言うたのでございます。
(昭和三十八年十二月三十一日講話)
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第四五四条 「神仏に好かれて来ると次第に人の力でわかる事のできぬ不思議な力が表われる。この力を人は、神通力というている。これはどうしてこのような力が表われたのかという事は、人間の言葉ではいい表わしようがない。けれどもたとえて見ればここに一つのビンがある。この中へ砂糖を入れて、沖の水の中へ入れるとする。ビンに穴があいとらねば、何年たっても外の海の水と砂糖とは別々で混じり込む事はない。けれどもビンに穴があいていれば、いつの間にか外の水と中の砂糖とは入れかわり、外も内も同じものになってしまう。ビンの中の水をくみ出せば、 いくらでも大洋の水のある限り尽きはせぬ。すなわちビンの中は、大洋大のものといえるであろう。 ここで一つのビンを人間の我という根性として見よ。この根性がぬけ目なしにかたまっていたら、ちょうどビンの穴のない完全なものに酒を入れて、大洋の中に入れてあるのと同様、外界との交通はないであろう。ところがこのビンに穴があいていると同様に我という根性がなくなり、外に向こうて慈悲心、言い換えたらわが身を思うように人を思う心ができたとしたら、外界と自分の心が不思議な交通をする。それで外と同じになる。 これが神にゆるされた力である。これが神通力である。これがなくては、人はほんとうに助からぬ。神の大切な宝物である。悟りとはこの事である。凡夫と聖人とはわずかこれだけの違いである。」
四五四条は、実に不思議が手に取るごとくわかるような気がいたします。そのお話をいたしますが、ここに一ツのビンがあるとします。そのビンの中へ砂糖水でもよろしい、そういう物を入れてビンの口を堅く詰めて、それから空気入らんように締めてしまう。ビンには穴があいとれへんか、ひびも入っとれへんか、それもよく調べて、立派な外との交通のない、ビンの中へ砂糖水入れて、海の中へほうり込む。そういたしますと何年たっても、何十年たっても、何百年たっても、末長く砂糖水は砂糖水、海の水は海の水、入れ替わりはございません。が、もし、そのビンに穴があいとるとか、割れ目が入っとるとか、いうような物を沖へほうり込みますと、すぐに海の水が入って来る。砂糖水が外へ流れる。そうして海の水やら砂糖水やらわからん同じものになってしまう事は、あんた方よくおわかりになるでしょう。
ところが、今度は話が信仰の方へ移りまして、ここに一ツのつぼがあります。それを海の中へ入れます。そうしてそのつぼは外とひとつも交通のないビンでありましたならば、先刻お話しする砂糖水が、いつまでたっても砂糖水、塩水は、いつまでも塩水、このつぼを、人間の心とたとえてご覧なさい。人間の体とするのです。そうして、その人以外の外界を海とたとえるのです。そうして、そのつばに穴をあけてみるのです。すると外界から塩水が入ってきます。
砂糖水が外へ出ます。あちらこちらと入れ替わって、海の水の通りのつぼの中は水になります。これおわかりでしょう。これどういう事かと言いますと、その人間というつぼのわがという性根をのけてしまうのです。すなわち、つぼに穴をあけたという事になるのです。
そうして、世間の事を海の水にたとえましたならば、いつの間にやら世間の状態と、わががないから穴があいとりますから、行きかいして、外の通りになってしまいます。これが泉先生みたような人です。泉先生という個人的の欲望がおありになりませんから、人の事が、わが事と同じ事になってしまうのです。そうして、そんなら前へまわった人だけかと言いますと、そうではありません。広く何千里、何万里あるいとってもおわかりになるのです。そういう事を、私は長くお付き合いしよる間に、はっきり知っとります。そういうお話しを申し上げたら、何年たっても沢山な事お話しはあります。
それを一ツつぼでたとえてみますと、仮に、そのつぼの端へ穴を空けたつぼの中の水です。塩水をです、しゃくで替えるのです。そうして、そのしゃくの中へ入った水を、元の海へ入らんように、ほうってしもうたと考えてみるのです。そうすると、くんでも、くんでもいくらでも入って来るでしょう。これを信仰の言葉で換えて言いますと、心が宇宙に遍満しているという事です。宇宙だけの大きな心だとも言います。言い換えると、つぼの中の水は、太平洋の中へそれを入れて替えて、替えて、替えまくっても、太平洋の水がある限り、つぼの中へ入ってきます。すなわち、狭いつぼの中が、太平洋と同じ大きさだとも言えるのです。いくらでもはいって来る、幾らでも替え出す。太平洋の水がある限り、替え出しても尽きないという事になって来ます。そのつぼは太平洋大であると言えるでしょう。むつかしい理論でございますけれども、そういう事になります。
それをもう一ツ言い換えると、そのつぼが泉先生のような偉い方であったと仮定すると、泉先生のお心は、世界中に遍満しとるという事が言えると思います。その証拠には、どんなに遠方の事でも先生はちゃんと知っておいでる。そういう事をここにたとえて書いたのが四五四条でございます。
これをよく、先生のお話を、あんた方、かみ分けて味合って下さったならば、わがという性根が大体いかんのじゃなあ、わがが良かったらええ、わがを非常に大事にするもんじゃ、それを人の身もわがの身も同じように大事にするという事になっとるから、これは、大きな大慈悲心です。大慈悲心が神に通って、どんな遠方の人でも、どんな近い人でも、皆、その人の身の上が細かくわかるという事になるのでございます。つまり、泉先生が、人の事がようおわかりになるという原理を、ここに書いたのが四五四条です。簡単に書いてございますけれども、全くこのたとえ方は、先生のおん身の上にきちっとあてはまる事になります。そうでないとわかりません。
それで、功徳を積んだほど広くわかる。功徳を積むという事は、わがの性根が強い人は中々積めません。金もうけの方へ、ちゅうにはなっても、功徳を積むという方へは心が向いておりませんから、そういう家は一時うまく行っても、長く続く間には気の毒な事が始まって来るという事を、先生がよくおっしゃったのです。私はいつも言うのです。この世で金は通るけれども、あの世へ行ったら通りませんぞ、僅か五十年や六十年の間は、金で暮らせるけれども、一たん死んだ場合には、金幾ら積んだからといって何にもなれえへん。功徳を積んであれば、その人の魂は、この世に通えるのです。死んでおらんのです。弘法大師のごとき詠歌にもあるでございましょう。高野の山に住んでおいでるお大師様は、今にありありと住んでおいでる、弘法大師は、死んでおいでんのです。いつまでも世の中へ不思議な助けをしていただいております。と先生がおっしゃるのはここです。
不思議に色々な形に置いて、人間の社会へ出てきて人を救済する。これは功徳を積んだ人ができるのです。功徳を積んでおいたならば、子々孫々に至るまで守る事ができます。けれども、金だけ積んで、他の功徳を積んでないという事になったら、死んだらそのままです。働きはできんのです。金は向こう通りません。功徳だけか通らんのです。
どうぞ、そういう事の深い意味を先生がお書きになったのが四五四条でございます。どうぞ、そういう事にお考えを願います。
これは、押し広めて言いますと、実に意味深い事でございまして、まず金も大事である。生きとる間は金で暮らすのは便利な、しかし死んだら何にもならんのだから、どうぞ金も生きとる間は必要であるけれども、欲はいらない。功徳が一番大事なんだ。ちょうど銀行へは貯金しとっても、功徳は貯金しとらんと言うのではいきませんから、功徳も積むし、金も積むし、両々相まって、人生が目出度いのですから、どうぞ、そういう風に 先生のお心を解釈してほしいと思います。
(昭和三十八年十二月三十一日講話)
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第四五五条 「人の五官は、神のかりもの、神様から人間に知らそうと思われたら、人間の五官をそのままに神様がお使いになる。この時に 人間から考えるといかにも不思議というているが、何も不思議はない。神の方から見ればあたりまえの事をなさっているのである。」
人の五官そのままが、人通力に通うという事を四五五条に書いとるのです。それはどんな事か、むつかしい事をわかりやすく言いますと、人の五官というのは、目、耳、鼻、口、それから体、この五ツです。それを五官と言います。目は見る役、鼻はにおう役、耳は聞く役、口は物を言うたり、物を食べたりする役、体は物を感じる役、こういう風に、人の五官と言うものは、まず人間の性根で、それを常に使うとります。何々が聞こえてきた。何々が見えた。
こう言うておりますけれども、お陰を受けた後になりますと、この五官が神さん仏さんの方が通うて来るのです。
普通の人の目に見えん物が見えます。普通の者が考えられんような事が心の中へ浮かんで来る。それがお陰と言うとりますが、もう一ツ言い換えたら、人通力、神さん仏さんに通う力という事になる。それは結局、どんなにすれば、神さん仏さんに通えるんかと言いますと、目や耳や鼻や心です。こういうものをわがが良かったらええという、わが身息災に使わずして、先刻お話ししたように世界中に通わして人に通わせ、つぼならば、穴があいとらんつぼであったなら、外から通いませんけれども、穴あけて、沖へ入れたようなもので通う。通うという事を、もう一ツ言い換えたら、 わが身の上を思うように 人の身の上を思うてあげてという事です。そういう風な行動、ものを思うたり、したりした場合には、必ず五官器が、わがの五官器であって、しかも神さん仏さんが通うて来る五官器になれる。これを神通力というのです。人を拝んであげたり、あるいは、人の身の上の幸福を増したげようと思うても、それが常々そういう交通していなければ、いつまでたっても、外のものと内らのものとが通いませんから、どうぞ、常に自分の事を思うように、人の身の上も思うて上げよ。と先生がおっしゃいました。それが四五五条の事です。
人通力など いらんというた所で、ひとりでについて来るのです。その人が見よるものが違う、聞こえるものが違う、思う事が違う、そうすると、その人の生活は、実に立派な、人に好かれて、そして何不足のない所の暮らしができるという事になるのでございますから、先生の教えは実に尊い教えでございます。しかも先生は文字をお知りにならん。学問のない先生がそういう事をお考えになるのですから、実に不思議なものでございます。大学生の中に沢山あります。学問のよくできた人、大学卒業生、必ず聖者ではありません。学問したから人が違うようになるものであり ません。便利になるだけの事です。学問が一ツも無くても、心の使い方一ツで聖人になれます。泉先生のごとき、お釈迦さんのごとき実に立派なお身分になれるのでございますから、学問も大事でございますけれども、どうぞ、心の使い方という事を大事に使わないかんと先生がおっしゃいました。五官をわがばかりに使うなと言う事です。ちょっと簡単ですけれども、わがが良かったらええという、使い方すると、かわいそうにその子孫まで難儀さす事になります。
(昭和三十八年十二月三十一日講話)
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第四五六条 「人間に徳が積めて、神仏に種々の事を示していただけるようになったとして過去の事は教えてもらいよいが、先の事はよほど慈悲心に燃えておらぬと教えてもらいにくい。教えてもらいにくいというよりも神仏の方から見れば教えられぬのであろう。」
人間に徳が積めて、神仏に色々な事を教えていただけるようになったとしても、過ぎ去った過去の事は、教えてもらいよいが、先の事は中々教えてもらいにくいものである。だから功徳を積んで置かんと、先の事はわからんという事を書いとりますが、これは先生が人を助けるお方でありましたから、こういう事がよくおわかりになるのです。 拝む人の中に、後(過去)の事言わしたらよう合う事がありましても、先の事(未来)言わしたら、一ツも合わんのがあります。これはどういう事かと言いますと、一生懸命に禅行をしまして、功徳を積まんと、禅行ばかりに凝っておっても、後の事はわかりますけれども、それは功徳が積めておりませんから、後の事はわかるが、先の事はわからん。こう先生がおっしゃったのです。ここをお間違いのないようにしていただきたい。
お参りも結構、一心行も結構、禅行も結構でございますけれども、禅行はわが身の行でございます。功徳というのは人を喜ばす事が功徳でございます。功徳が積めておらんと、禅行が届いていたとて、それは先の事がわかりません。
大体人間は、先の事がわかるのが一番大事なのでありませんか、後の事がわかったとて、それは何にもならんです。
「あの人よう合うてなあー、本間に私の思うとる通りに向こうが言うたでよ。」こういう事、私よく聞きますが、果たしてそれで人が助かるかと言いますと、助かるのは、先の事がわからんと助からんのでございます。ここをお間違いのないように、どうぞ、功徳は積みたいものでございます。金積むのは結構でございますけれども、功徳を積むような練習をするというと、先生がお喜びになると私は思うのです。先生はいつもながら、功徳を積む事ばかりを考えておいでた方でございます。学問も何もございませんけれども、あれ位えらく人に尊敬せられとるのです。どうぞ、そういう風にお考え願います。
(昭和三十八年十二月三十一日講話)
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第四五七条 「人間の修業に大切なものが六つある。これをするのに命がけでせねばならぬというが、まだそれではいかん。生まれかわり、死にかわりしてでも、なしとげる勇気でないと、この世とあの世との連絡は届かぬ。」
四五七条に書いてある事は、あんた方が常におっしゃる事を書いてあるのです。泉先生がこういう事をおっしゃった。「村木さんよ、あの仕事する時分に、一生懸命にするという事言うなあ」、「ああ言いますなあ先生、根限りする事を一生懸命にすると言います。」すると先生はニコニコお笑いになって、「一生懸命と言う事は。命掛けで事をするという事じゃ。そら悪い事でない結構じゃ、結構じゃけれども、お釈迦はんは一生懸命より、また死んでも生きかわり、生きかわり、何べん生きかわり死にかわりしても、それを続けて行くという事をおっしゃった。と言う事を私は聞いたが、一生懸命よりもっと大きな力が欲しいなあ」と先生がおっしゃった。そこでそれを私が書いたのです。
昔の話ですが、お釈迦さんの話に替わります。お釈迦さんが、いまだお釈迦さんとして生まれておいでん時分に、前の世にです。そのお釈迦さんが、妙法蓮華経というお経文を仏さんがお説きなされている。まことにそれは有り難い経文で、それを聞きたいもんじゃ、それを聞いて身に付けたならば、いかなる望みでもかなう。いかな難儀しとる者でも助かる。こういう事が、お釈迦さんの先の世のお釈迦さんが聞いて、それ聞きたいもんであると言うて、東へ東へとお釈迦さんが旅行なさって、東の方に、妙法蓮華経をお説きになっとる仏さんに聞きにおいでていた所が、ある山の間へ行った時分に、何やらおると思うて、向こう見た所が、見ても恐ろしそうな格好しとる鬼が、腰に大きな包丁ぶらさげ、つぼを三ツ腰へつって、向こうからやって来る。そうして近寄って来ると、鬼が「お前さんは、どこへ行きよるんなら」と聞くもんじゃから「私は、有り難い妙法蓮華経ちゅうのをお説きになっている仏さんのお話を聞きに行きよります。」「それなら一寸待ちなされ、そのみ仏は、実に偉いみ仏であって、それを聞く事ができたならば、望みが皆かなう。特に有り難いお経文であるという事は、わしも知っとる。けれども、その仏さんがおっしゃるには、『わしの所へ来る者があったら、お前が腰につっとるつぼを出して、そうしてお供物を供えよ。わしは、供え物いうて物はいらんのじゃ。その聞きたい人間の決心がわかるから、向こうへ釈迦如来という偉い人になる人が向こうから来よるから、行って、お前言うて来い。』と言われて、私はあんたと会おうと思ってきたのじゃ。幸いここで会うことができた。わしはこの通り、つぼ三ツ持っとるんじゃ、このピカピカ光る包丁も持っとるのじゃ、これどんなにするかと言うならば、おまはんの体の血を皆絞って、一ツのつぼに入れる。一ツのつぼには肉を皆はいで入れるんじゃ、後のもう一ツ残っとるつぼへは骨を削って、それへ入れる。血と肉と骨とこの三ツをお供えしたならば、そばへ近よる事を許してくれるんじゃ。お前行って来いと言うて来たんじゃが、どうなら」と言うと、お釈迦さんがじっーとそれを、お考えになって、「よろしゅうございます。私、差し上げます。」そうして鬼がちょっと包丁で突いて血を絞ってつぼに入れた。そうして、こん度は身をそぐ事になって、そぎかけた所が、お釈迦さんがお尋ねになった。 「鬼さん、これお供えするけれども血も取ってしまった。肉も取った、骨も取った。すると生きられませんなあ。」 「元より生きられんけれども、それを供えなかったら、これを聞きに行く事を許してくれんのじゃ。」「ほら差上げますけれども、こん度生きてきて......」と言いかけると、鬼が「ちょっと待ちなされ、死んだら又生きてきたらええではないかい。何べんでも生きかわり、死にかわり、そうして、もうこれでええと言うまで差し上げたら聞けるんじゃ。」と、鬼が言うと、お釈迦さんがじっとお考えになって「ああ、それは仕舞には聞いて下さるんなら差し上げます。」と言ったので、鬼が料理しかけて「ああ、お前決心が出来たからこんでええぞ。」と言うて、通してくれた という歴史がある。これを先生がおっしゃったのです。
「村木さんよ、一生懸命って一生位の事考えとるのでは小さいなあ。」と言って先生お笑いになった事がございます。それで一生懸命するという事は、もうこの世でも、先の世でも、生きても死んでも天地はわが家だから、その家でどうがこうでもやり遂げないかん、と先生がおっしゃったのです。死んだら又生きて来る。生きてきたら又殺される。又生きて来る、どうかこうでもやり遂げなきゃきかんという事が仏になれる道ぞと先生が教えてくれたのです。
私はそれを考えると、先生は実に偉い、息の続く限りやったんではいかん、もし、死にかわり生きかわり、やらないかんという先生は大きなお考えを教えてくれております。この決心なら、いかなる事でも成就します。先生のお望みの大きかったという事をお伝えいたします。どうぞ先生のお望みにかなうように行をなさってほしいと思います。
(昭和三十八年十二月三十一日講話)
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第四五八条 「迷わして後でなければ救えぬ事が多い。迷わすという事はちょっと考えると慈悲心が少ないようにも見えるが、これが大慈悲の姿である。」
昭和三十九年のお正月でございますが、泉先生がお国替え以来、本年は四十八年になると思います。それで昭和四十年は先生の四十九年でございますから、既に四十九年になりますと、これは五十年祭の宵でございます。いわゆる先生の五十年祭記念を何かしたいと思うとるのでございます。早いもので早、先生の五十年祭、ちょう度私が先生にお別れしましたのが五十年の昔になりますが、この間のように思います。それで先生のおっしゃった事を思い出しまして、一層先生に親しい深い感が起こるのでございます。
四五八条、これは先生のご経験で、神様というのは、そんなに初めからさっと救うもんじゃない、助けるもんじゃない。人が困り、これは困った、困ったと言う機会をじっーとご覧になって、そして、もうよかろうと言うので、神様や仏様がお助けになる。もう一つ言い換えますと、人間を迷わして、迷わし詰めて、そうしてお救いになる。こういうようになるのでございますが、単に困ったと言うても、それは本当に困っておりません。本当に困り詰めたら、 そこに「南無」が起こるのです。一生懸命という力が出て来るのです。その時分に、ひょっと人間という性根が変化しまして、そうしてその人間という性根に神様が移って来るのです。これを知らん人は、ごじゃになったとか、気が違ったとか、こう言いますけれども、心の方から言いますと、わがという性根は、仮にわがと思うとんじゃと、すぐに変化する、だからこの自分という心は変化心とも言います。変化心というのは、変化という心です。そうして一生懸命に神仏にお願いする。食う物も食わずしてお願いする。と、にわかに全然人格が変わって、そうして神様が移って来る。こういう風になって、ここに悟りの道が開けてくる。そうして救われる。こういう順序になるんじゃと、先生がおっしゃいました。
実にその通りで、あんた方は色んな事をお聞きになったり、ご覧になったりするだろうと思います。もう気が違うとかいうような変化のある前には、必ず一生懸命に念じとる人です。困り詰めて、そこで変化が起こりまして、大変結構な悟りが開けてきて助かる。こういう順序になるのでございます。それを先生は 四五八条におっしゃっています。すなわち、迷わして後でなければ、救えぬ事が多い。迷わすという事は、ちょっと考えると、慈悲が少ないようにも見えるが、これが神様の大慈悲じゃと、先生がおっしゃったのです。ひょっと、そんなに迷わして困らさないでも、すぐに救うたらええでないかというのは、これは人間の理屈です。人間というのは誠に迷いの多い者であって、迷わし詰めてでなかったら、悟りはできんのでございます。ちょっと見ると気の毒でありますけれども、これが神様の大慈悲であると先生がおっしゃったのはここです。
これは色々な事申し上げると、差しつかえが出来ますから申しませんが、あんた方も色々の困ったお方の状態を見てお悟りになるだろうと思います。そういう風に解釈しませんと、困って気が違うたんじゃというような簡単な考えを起こしてはいけません。泉先生はそれを大きなお陰と言うております。
(昭和三十九年一月十五日講話)
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第四五九条 「暗に迷うというが、誠にくらかったら向こうが見えなかったら疑が起こる。疑が起こったらよい事を考えぬ。よい事を考えなかったら地獄へ落ちるのは当然である。これであるから、暗い所に燈明があれば、向こうが見えるように心の闇を光らせるには、悟りの光がいる。その光をともす法が信仰である。」
こういう事を先生がおっしゃったのでございます。が、これは神様の掛けあんどんに書いてあります。やみを照らす、どんなやみを照らすのかといいますと、お陰を受けとらん人の心は暗がりです。何もわからない。その暗がりに お燈明がついたら、向こうがよく見えるように、自分の目が見えるようになって来ると言うのです。信仰が重なってきますと、自分の目が見えるようになる。目が見えるようになると疑いが起こりません。見えるのですから、あの人はええ人じゃ、悪い人じゃ、こういう事がはっきりわかりますから、疑わんようになるのです。
けれども、疑うというとよい考えが起こりません。ちょうど警察が人を調べるのによい事を考えていたら、皆人が良いようになりますけれども、悪いように考えて調べる。これは、警察あたりがしておりますが、そのように悪い事しとらなくとも、人を疑う、疑うというと良い考えが起こらん、人を疑う。そうすると、わががする事疑うておりますから悪い方へ進んで行く。こういうようになると誠に気の毒な事が起こるから、どうぞ暗い所へお燈明上げて照らすごとく、自分の心の内の暗いのを明るうにする。向こうが見えるようにするのがよいと、こういう事を言いました訳でございます。信仰すると向こうがよく見えるようになる。こういう事でございます。
それで神さん仏さんの前へあなた方皆お燈明上げるでしょう。あのお燈明上げるという事は、神様がお燈明好きなのではないのでございます。私の心の内は誠に悟りの無い暗がりに居るようなものでございます。ちょうど、あなたの前へ、お光を差し上げてこの光によって、自分が明るい世界へ出られるようにお願いいたしますというために上げるのがお燈明でございます。そういう意味の事が、お燈明上げるというわけになっとるのでございますから、どうぞお間違いのないように願います。
(昭和三十九年一月十五日講話)
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第四六〇条「いかに知恵のある人でも、我という考えを先に立て、物事を考えたら、目も耳も、その働きが間違わされて、物の実相が悟れず、自分が望んでいる方向と、反対の方向に進まねばならぬようになる。これを顛倒夢想というのである。そうして自分の仕方の間違っている事に気付かず、天をうらみ、人をにくむようになる。ところが我という考えをのけてしもうて、人の為、世の為を考える心になると神は、この人にまっすぐに見える目を貸す。顛倒夢想が起こるはずがない。」
こういう事を、先生がおっしゃっとるのでございます。あんた方がお経文の心経をくりよる中に、顛倒夢想というのが入っとりましょう。これは顛倒夢想という意味は、ひっくり返った間違った考えだという事です。どうして顛倒夢想が起こるのか。これを調べてみますと、自分という事を、一番先に立てて、これは自分の損だ、これは得だというように、自分というのを先に立てて考えますと、目も耳も、その働きが間違うて来る。これも心経に書いてあります。無眼耳鼻舌身意と書いてあります。目や耳や鼻があっても、それを自分がよう使わんのです。ごじゃ(まちがったこと)、こういう事も心経の中へ書いております通りに、自分というのが先に立つと物を見る目が間違うて来る。
そして、わがが思うとるより反対の方向へ考えが向いて行きます。そうしてその結果、自分が望んどらん反対の方向へ結果が出て来る。こういう事が顛倒夢想(てんとうむそう)と言うのです。
たとえてみますと、まず子供が、ほうっといたら、どんなな事するやらわからんというので、親ごが教えますけれども、子供は中々それを聞かんものです。そうするとしかりつける。えらい体罰を加える。こういうようになりますと、子供があいじょうについて来れば、よろしゅうございますけれども、あんな事するから、ちょっと、どくれてやろうと言うので、反対の事する場合があります。こういうなのが顛倒夢想になるのです。助けてやろうと思いよるのに、あんなに言うの、むねくそが悪いけん、こうしてやる。こういう風に反対の考えが起きて来るのです。
ところが、これは法華経というお経文に書いてある事でございますが、ある大きな家に、子供たちが沢山家の中で遊んでおる。所がその屋根を見ると燃えて、今にも屋根が燃え落ちるようになっておる。縁の下には百足じゃの、毒虫が沢山な事おる。そういうような家の中で、キャアキャアと笑うて、喜んで走り回っておる。これはたとえです。たとえた事です。まあ普通の家で子供ががやがや言うておるのは、別にええ事考えず、遊んだらええ、勉強やどうでもええ 遊ぶ方がええと言うて、ワアワア言うて遊んでいるのを、たとえてあるのです。ところがその家は、出口が一ツしかない大きな家である。分限者の大きな家であるけれども、出口が一ヶ所しかない。そこでそのお父さんが、ああ外へ飛び出て、あゝ、早う出て来い、こんな焼けよる家に居ったら危ない。今にも屋根が落ちて来るぞ、お前ら焼けて死ぬぞ お前、庭へ降りたって、下にはまむしも居り、むかでもたくさん居り、それに気をつけて出てこないかんぞ、こっちへこい、こっちへこい、言うても子供たちは、そんな事言うたって、この面白いのにやめられるかい。一向に出ようとせん。そこでお父様は、お慈悲深いお父さんですから考えたのです。これぐずぐずしていたら屋根が落ちる。このかわいい子供が死んでしまう。これには、子供の好きな物見せなどんならん。皆見いよ。これ見い、こういう車があるんじゃ、そうして立派な、今で言えば自動車です。立派な車であって、走るのが非常に早い。早う出てきた者にこれあげる。こっちにはこういう車がある。どれでも上げる。早う出て来い。そうすると、子供は車が欲しさに、はーい、わしが先へ行く、といって、一生懸命に我先にと、争うて門から出てきた。そこでお父さんが、ああ皆好きな車どれでも取れ、上げるぜ、しかしお前達は見てみい、後へ向いて見てみい。あの家どうじゃ、あらあんなに屋根が燃えよる。 ほんになあ、今にも屋根がバタッーと下へ落ちたら、下におる者皆死んでしまうんであった。それを知らずに、お父さんが出てこい出てこい言ってるのに、無理言いよった。おとうさん有り難う、助かりました。おまけにお賃の車をくれた。やれうれしや、というような事が法華経の中に書いてあるのです。
これを火宅の教えと言いまして、有名なたとえ事でございます。ちょうど我々は、有り難い教えを言うてくれていても、そんな面倒くさい事できん。人間は何さま、そんな事は年寄ってから、ソロソロでええわいというように、道の立派な教えを説いてくれよるのに、それを聞いたら、すぐ助かるのでありましても、まあそれより仕事して、もうけたら何でも買える。そんなしんどい事は年寄ってでええわい。こういうように言いよるのがこれです。
そこでこの教えをこういう風にしたら、こういう風に運が良うなるんじゃ。ちょうど、おとうさんが車を見せて、 出て来い、出て来い、と言うたように、お賃を前に置いて、見せてくれるものですから、それをもらおうと思うて、出てきて見ると、お賃は確かにくれる。これは、うそは言わん。が、しかし、一番大事な事は、教えを実行するという事が大事なんじゃ。ああ、ようようわかった。というような事が世の中に沢山ございます。それと同じようにこの顛倒夢想(てんとうむそう)という事は、教え方が、考え方が、間違うと、ひっくり返った結果が生じるのです。あなた方どういう風にお思いになりますか。これは顛倒夢想という事は、沢山世の中の人がしている事でございます。
これは泉先生が色々拝みなして、教えておいでる事が沢山ございます。これは皆、ちょうど法華経に書いてある慈悲深いおとう様の子供の助けぶりを書いてあるようなもので、泉先生は、誠に自分のお力を使うて、この人間は何を望んでおいでるという事を先に知っておいでる。そのお賃を渡すという、お賃と見せて、そうして本当にお賃もくれるし、運のええ方へ導いておいでたのです。これには、ああいう不思議な人の、すべての歴史を目の前に見るような力が無かったならば、ついて行きません。そういう偉いお方が泉先生で、我々は、こういう偉い教えの師を持ったという事は実に幸福でございます。
ちょうど今日、ただいまは昭和三十九年の初めでございますから、どうぞ今年こそは、泉先生の教えを本当に理解して、実行して、先生に喜んでもらう。ちょうど法華経に書いてある子供がお賃くれた。助かった、それで喜んで、お父様有り難うと、言うたように自分の一生に大きな花を咲かす。今年こそ、咲かしてみようというお正月の初めでございますから、どうぞ.そういう風に顛倒夢想を起こさないように、本当の教えに従うておいで下さる事を望みます。
(昭和三十九年一月十五日講話)
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