441~450条

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第四四一条 「車は 大変結構な道具であるが、この車は 歯止めがなかったらこれ位いあぶないものはない。人間の心の働きに歯止めが無かったと考えたらあぶない事である。この人生の歯止めの力は神に頼る人に限り与えられるものである。」


車は、大変結構な道具である。この車にもし、歯止めが無かったらこれ位あぶない物はない。人間の心の働き、歯止めが無かったらと考えたら、あぶない事この上もない。人生の歯止めの力は、神に頼るより他に道がない。こういう事を先生がおっしゃったのですが、これは自動車に乗るお方であったら、よくわかると思います。あのブレーキです。自転車にブレーキが取れてしもうていたらどうでしょう。踏んだらどこまでも走ります。ブレーキが無かったら止めようと思うたって止まりませず、降りようと思うても、降りたらはね返りますと、同様に人間が日頃の暮らしに心に、この歯止めが無かったらどうか、これ一ツよくお考えなしてご覧なさい。
ええも悪いもない、しようと思った事、パアーとやってのける。それではあぶない、と先生はおっしゃる。常に神仏の前で教えを守っておいでる人であったら、止めなくとも心の中でひとり止まるのです。不思議なものです。ひとりブレーキがかかる。つまり自分というのを余りやかましく考えとりませんから、これで無理であるか無理でないかというのがよくわかるのです。
これは昔からよく言う事でございますが、学校あたりでは良心と教えております。良心がとがめて出来んわ、そんな事をよく言いますが、良心と言うのは、心の中にどんな悪人でも良心があるのです。これして悪い、してええ、そういう事が命令するようなブレーキがあるのです。頭の中に、先生はそのブレーキをどうぞ、大事にして下さいという事を言うのです。ところが普通これが、信仰心がありませんとブレーキがきかんのです。どうしてきかんかというと、わがだけかありません。自分だけが強いのでございますから、プレーキがききません。ブレーキというのは、神仏の声が現われて来るのがブレーキと言うのです。先生はこういう風に、常々の暮らしにブレーキを大事にせえ。もう一ツ信仰離れて、人間の事で言いますと良心を、働けるように常に修養せえ。こういう事です。これは私がお話するとお考え下さったら、わかります。
人間が一つの事しようと思うた時分に、悪い、ええという裁判官が腹の中におります。必ずおります。いつでもせえ、という人と、せえでもええ、という人が腹の中におるのです。これを良心と言います。今日で言うならば、信仰心と言うてもよろしい。これがきく人ときかん人とがあるのです。先生はどうぞ、そのブレーキを落とさんように、いつもブレーキを直していつでも使えるようにしとけよと自転車に比べ、車の歯止めに比べて、先生がお話ししたのです。
私、面白いと思うて書いたのでございますが、四四一条は、そういう風にお考え下さったならば、泉様の信仰によくあてはまっております。そこで大事な事がここにあるのです。歯止の事ですが、人が歯止めこわしてしまうのです。
何でこわすのだろうかと、こう考えてご覧なさい。だれでも良心はあるのです。いかなる人にも 良心はあるのです。所が、良心がきかんような場合があるのです。なぜ効かんようになるのかとせんさくしてみますと、情です。うれしいとか、はがゆいとか、憎い、こういう情が起きた時分には、良心が使えんのです。それでお大師様はいかに教えたかと言いますと、情を離れてしもうて、判断せえよとおっしゃったのです。憎いとかはがゆいとか、きらいとかいうのは情でございますから、情を離れて物事を考えると、真っ直ぐにわかるとおっしゃったのがお大師さんです。
まことにとうといお言葉です。情を離れてみよ、わかる。大抵はわかる。
この頃、犯罪人がありますが、この間も、六人も殺したのがあります。あの犯罪人が白状しとるのを聞いてみますと、わしは貧乏で、銭は無し、人はわしをばかにするし、腹が立っておれん。人を見たらはがゆいので、何か腹が立った拍子につい人を切ったり、はつったりするようになる。そうして目がさめて、ああ悪い事した、つまらん事した。
私は、今度考えてみますと、気の毒な事しました。わずか二ツになる子供など、罪や何もないのに、それを手おので頭を割ってしまった。そんな事言ってざんげしとるのが新聞に出ておりました。これ等は、なぜそういうような残虐をやるか、後で目がさめるのですけれども、その時は目がさめんのです。やってしまったのです。何がそうやらしたのかと言いますと感情です。人間には感情というのがございまして、腹が立つ、あるいは面白い、憎い、これ皆感情です。感情を静めて、そうして物事をせんというと、うまく行かないという事をお大師様も教えております。マカシカン (摩訶止観)というお経文にそう書いてあります。
まず感情と言うのは、化け物で、人を間違わすから感情を離れてから人と交渉せえよ、感情というものは、人を盲にしてしまう。後でしもうたと思っても、それは遅い。まず感情は良いか、その情を離れて、そうしてする事を決めたらええと、これはまことにとうといお言葉でございます。感情を離れて理にたがわぬようにせえよ。私はこれを額に掛けてもええもんじゃと思います。情を離れて理にたがわぬようにせえ。情というものが人をしくじりさすものですから悪魔を呼ぶのでございます。どうぞ、それをないようにせえよ。というお大師さんのお言葉でございます。
(昭和三十八年十月三十一日講話)
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第四四二条 「おかがみは神のご馳走にちがいない、まあもち米がたんぽにまかれてからもちになるまでの苦労を考えて見よ。そしておしまいに三宝の上にのってまるい姿をしている人に頭をさげられる 神の御馳走になるはずである。」


お鏡餅は神様のご馳走に違いないが、それはどういう訳で、神様がそれをお好きなんか、神様がもち好きなのではありません。これは先生がおっしゃったのです。神さんというのは、もちが好きなんと違うんじゃ、もちの格好見てみるともんで丸いのです。それで米をたんぽに蒔いて、それからもちになるまでの間の苦労というのは、もち米は中々苦労しています。その苦労したお供えに丸うもんで、そうしてお月さんや、星さんの形にもんで、それを重ねて三宝の上にのせて人が頭を下げる。こういう事をお祀りしてあるのでありまして、神さんがもち好きなからもちをお祭りするのではないのです。あのもちのごとく、心を丸く、かん難苦労に堪え忍んで行こう。これは三宝の上へ祭る資格がある。これを神様がお好きになるんじゃから、私がそういう気合いになりたいもんであるというのでお祭りするんじゃなあ、村木さん、と先生がおっしゃられた事がございました。それで、私が書いたのでございますが四四二条に書きました丸く、丸く、丸く、すべての事を考えて行けよ。神さん丸いのが好きなんじゃ。どうぞ、そういう風にするのがよろしいと先生がおっしゃって下さったのを書いたのでございます。どうぞ、そういう風に神様をお祭りする道具でも、そういう風にすべてをお考えになる事が、先生がお好きなんでございます。
(昭和三十八年十月三十一日講話)
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第四四三条 「人間の暮らしに「タラ」という事はあまり考えぬのがよい。愚痴になりやすい。一方の足を空に揚げて、その足が下らぬまに 一方の足が空へ揚げられたら、天にのぼれるのにというたらどうか、この「タラ」を考えるひまに、わが身のほどを悟ったらよい。知れた事をまじめに喜んでするのがよい。」


先生は、いつもタラだけは、あまり使わん方が良いぞ。こういう事をおっしゃったのです。ここに書いてある事は 「たら」というのが出来るのであったら、人間は天道さんへ舞いあがれると、先生がおっしゃった。どうするんですか、先生、と言うと、先生のおっしゃるのには、まあ右の足を空へ向いて持ちあげるんじゃわ、そしてその足が下へ落ちなんだら、こんど左の足をあげて、左の足が下へ落ちなんだら、こんど右の足をあげたら、天道はんへ、あがれるんでないか、と先生がひいひいといってお笑いになった事があります。
なるほど先生のおっしゃる通り、たらという事を考えると、たらは、そのものは、悪くないんですけれども、たらを多く使っていると、終りには、愚痴が出てくると先生がおっしゃいました。そうしてもうひとつたとえていいますと、あの競艇へ、やって行きます。わしがはったこの金があたったら、金持ちになるのに、なるほど、これもたらです。
それから色々この「たら」というのは、未来の事を言うのでございますが、先生のお考えは、たらという暇があたら、そんな事を考えずして、まじめに根限りこつこつと仕事をしていけ、たらはあまり考えんのがええぞ、こう言う事です。どうですか、あんた方が日に日に色々な事なさるが、たらという事お使いになる事が、ぼつぼつあると思います。先生のお考えは、たらというひまがあったら、神仏に頼んで仕事をせよとおっしゃるのです。ここをどうぞ、お考え願います。
私もこれを考えると、一人おかしくなる事があるのです。たらは、私等でも使います。それで先生の事思い出して、 ああ、又これ使うたと思って笑う事がございます。どうぞ、たらはやめて、たらの代わりにどうぞ頼みます、というて、する事が良いと私は思うのです。たらと言うのはおかしいでしょう。考えてごらんなさい。たらというのはよくあるのです。それなら私から言うのであれば、私は、今びっこじゃけれども、この足がびっこでなかったら、走るのにと、たらはあまり使わん方がよいと思います。あせって来ますから。
(昭和三十八年十一月十五日講話)
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第四四四条 「神の前のおさい銭は神の前ばかりで出すのではない、常に人の生活に払う犠牲が、そのままおさい銭と心得たらよいのである。」


神の前のおさい銭は、神の前ばかりで出すのでない。常々人の生活に払うところの犠牲、犠牲が、そのままおさい銭じゃと心得たらどうじゃと先生がおっしゃった。これはこの通りでございまして、神様、仏様をお参りした時に、おさい銭をおさい銭箱の中へ入れて、そして色々な事を願います。それを先生が、おさい銭箱ばかりに入れるんでなしに、常々しよる事でも、おさい銭投げよるもんじゃというような心掛けでしたらどうならといわれる。
あの有名な新田義貞という鎌倉時代に偉い人がありましたが、あの新田義貞が、鎌倉から戦争に行く時分にです。 今で申すと、あれは大船の方から行って鎌倉へはいる前に浜があるのです。それが、潮が満ちて来て鎌倉へ行けない。 昔の事ですから、大勢の兵隊が行けない。その時分に新田義貞が、自分のさしとる刀をとって、龍神さんに願うたの です。「竜神さん、私は今、鎌倉征伐に出かけとるのでございますが、この浜が、潮が満ちていて通れません。勝たして下さるならば、この黄金作りの太刀を差し上げますから、潮をひかせて下さい。」というて、あの稲村ヶ崎の海の中へぽーんとほうりこんだ。見る見る内に潮が引いて鎌倉へ押し寄せて、とうとう新田義貞が戦に勝ったという話がございます。こういう風に、おさい銭の代わりに、刀を使うた。これはひとつの話しでございますが、すべて仕事をする前に、おさい銭投げても、投げなくても、よろしいが、おさい銭を投げる心に成って、自分が犠牲を払うたら、どうか。これ先生がよくおっしゃったのです。以前にお話した事でありますが、先生のお屋敷の前の津田の浜辺にです。あれを百間ほど、浜辺より向こう行きますと浅瀬があるのです。そこで風の都合によって、そこに大きな波が打つのです。
少し風の向きによりましたら、浜へなかなかはいれんのです。ある日、しけ模様で大きく沖が荒れまして、沖から帰って来る漁船が入れなかった。その時に先生はどうなさったかといいますと、細い手綱を浜辺へ、になって来て、そのはしをくわえて先生が飛び込んだのです。そうして大きな荒波が巻いて寄せる中へ飛び込んで、先生が抜手を切って沖へ沖へと泳いでおいでた。そうして、地かたへ寄れん所の船にのぼりついて、それをへ先へ、くくりつけた。さあ引けと言う先生の手を上げた号令で、浜辺に居る人が綱を強く引っぱった。それで、その船が、なんなく浜へ着いて助かったという話があるのです。この時分に、先生が大勢を助けた時の先生の心です。先生がおっしゃる「私は、あの時分にどうぞ八幡さん、あんたの前で、これこんな大きな難儀が出来とるのですから、私飛び込んで、これ船を引っぱり助けようと思いますから、どうぞお頼み申します。その代わり、あんた所へ、あの私は、お礼参り一週間お礼参りに出かけます、といって先生が飛び込んだとおっしゃる。この一週間のお礼参りに出かけますと言う事が、おさい銭でございます。先生のおさい銭、そういうおさい銭を払う。それで無事に皆があがって助かったが、それおっしゃらん。黙っておいでる。尋ねたからおっしゃるのですが、そういう風に何事をするのにも、おさい銭を神さんの箱の中へ投げるような気持ちになってしてみい。神様が手伝うてくれる、と言う事を先生がようおっしゃったのです。これは簡単に書いてございますけれども、先生のお口から私が聞いた事を書いたのでございまして、まあひとつなしてごらんなさい。
私、割木割るの好きなのですが、ちょうな(手おののこと)で割るのです。その時分に黙って、ちょうな打ち込むよりか、「えい」とか「こら」とか言うて、掛声で割ったら、ぽんと割れるのです。というようなもので、事をする前に自分の意気というものが、非常に大事なのです。
これを昔の人、どう言うかといいますと、気合いというとります。気合いをかけるんで、先生はその気合いをかける時分に、おさい銭を箱の中へ入れるつもりになって、神さんに頼んでやれとおっしゃった。これひとつあんた方、なしてごらんなさい。ほんとうに手伝うてくれるものです。出来ないと思う事でも出来るようになって来るのです。
(昭和三十八年十一月十五日講話)
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第四四五条 「世の中でする事のよしあし
一、親が怒るからやめる天地の恩がえしにする。
二、国の法律が止めてあるからせぬ天地の心に合わぬからせぬ。
三、神が知って居るからせぬ神の心に合わぬからせぬ。」


世の中にある事に良い事、悪い事があるのを言うてみると、先生がおっしゃった。それで一、二、三と三つ書いてありますが、その中の一番です。悪い事するのに、親が怒るから自分はやめるとこう言うんです。どうでしょうか。
親が怒らなんだら、するんでしょうか、親が怒るから自分はしない。それ、先生どう言ったらよろしいかと先生がおっしゃるには「天地に恩返しせんならんけん、悪い事せん。親がせよと言うても、すなと言うても、天地は人間に良い事、さそうとしとるんだから、親が怒るけん、やめるのじゃの、何やいうたらいかんと先生の教え振りです。よう似とるのですけれども、「親が怒るけんせん。それをやめて、天地に恩返しするから、これをしてはならんとかせなならんとか言う方が信心に届くぜ」と先生がおっしゃった。
その次に、このばくちを打つ、これは巡査が怒る、国の法律がとめてあるから、わしばくち打たない、これどうかと先生がおっしゃった。巡査がおこらなんだら、ばくちするか、国の法律がとめなんだらやるか、こらいきません。
今、外国であるのでございますが、ばくち打たすのです。税金をそこの門はいる時にはらっといたら、ばくちうっても構まんという国があるのです。その国は栄えません。いつまでたっても栄えません。国が治まらん。そういう事があるが、これは法律が止めても、止めても、法律がすなというからせんやいうのではいかん。それをする事が悪いからせん。巡査が怒るからせん、巡査が怒らなんだらばくちしてもかまわんかというとそらいかん。天地の心に合わんから、それでせんと言う方が良い。こういう事を先生がおっしゃいましたが、なるほど巡査が怒るにかかわらず、これはしては悪い、こういう事を知らないかんと先生がおっしゃった。それならどうですか、あんた方が、もしお仕事なさるより、こらまあこたつにでもあたって、ばくちうつ方が楽にもうかると皆がそうなさるのであったら、もう金のとりあい、あちらへやり、こちらへやり、お金のとりあいで仕事をしない、そら国がすぐ滅びてしまいます。天地が許さんのじゃからせんという方がよいぞ。
「その次に先生がおっしゃったことは、これしたら神さんにばちあてられるからしない。こういうのはどうかと先生おっしゃった。神様が罰あてなんだらするかというのです。これは神さんが怒る怒らんにかかわらずして、悪い事と、せなならん事がある。そうせなならん事は、しなさい。して悪い事はしたらいかん。神さんが怒るや怒らんやいうような事は考えなくて良い。これもよくあるでしょう。あのお山で、小便がしとうなる事がある。清浄な土地で小便がしたい。下まで持って下りられん。その時分にどうするか。これは神さんのお屋敷じゃから、まことにそういう不浄なもの流しては相済まぬと言うて、手で穴掘るんです。その中へおしっこして、又その砂で埋めとけと先生がおっしゃった。あやまっといたら良い。これどうですか、あんた方そういう事もお参りなさっているとあるでしょう。神さんが怒るから、してならんたって、出てくるもの止められません。先生も そういう事、おありになった事と私思います。村木さん、山でな、おしっこがしとうなって、その時には上をかきのけて、土地くぼめるんじゃ。そこへおしっこして砂で埋めて、それから松葉やそんな物でおおうて「あい」と言うて頼んでおけば、良いわ、村木さんよ、神さんが怒るからせんという訳にいかんでないか」というて大笑いなさった事がありました。
こういう風に、世の中ではして悪い事がある場合には、親が怒るから、やむなくするとか、あるいは国の法律が止めるからせんとか、神様が怒るから、やらんとかいうのでなしに、その訳をよくわきまえて、そして間違いの無いようにしなされよと先生がおっしゃったのを私が書いたのです。
ちょっと簡単な事でございますけれども、先生のおっしゃるお言葉が信仰に合うとります。
(昭和三十八年十一月十五日講話)
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第四四六条 「道というのは世の中を楽土にする方法の事である。そして知ったら命がけでする事である。之が本当の道で机の上には道は役立たぬ。」


「道というのは世の中を極楽にする方法の事である。」と先生はおっしゃった。「それを知ったら、いのちがけでするのが良い。これがほんとうの道じゃ」と先生おっしゃった。なるほどこの人間の道、人道というのは非常に色々な事がたくさんな事がありまして、どれがええ、これがええという事はなかなかむつかしいものです。先生がそれを一口でわかるようにおっしゃった事、どういう事が良いのか、どういう事が悪いのかという数を多く言えばよろしいが、数多くはなかなか言えませんから、先生は一口で、ひとかために、かためておっしゃった事は、実に私は頭が下がるのです。それがこの事でございますが、この世の中を人間の世界に、極楽をこしらえたい。極楽をこしらえるには、皆めいめいにその手伝いをしているんじゃ。その極楽をこしらえるのに、邪魔になる事はいかん事じゃ。極楽をつくるのに都合のよい事が善と言うんじゃ。どうですか、先生そういうお話しをなさった事があります。要するに、この世の中には善と悪とたくさんございますが、ここを極楽にするのには、どうしたらよいかというと、もう自然にすることがきまってきます。
たとえば、こないだもアメリカで大統領が殺されましたが、こういう事するのは良いか、悪いのか、考えた時分に、 この大統領は偉い人じゃ。この人を大事においとけば、世の中がよう治まる。極楽世界がここへ出来て来る。そうでしょう、あのケネディーは、原子爆弾なんぞは、やめようじゃないか、こういう相談を各国へ持ちかけて、なさっておったのは、新聞でよくご存知でしょう。どうぞ、戦争などは、なるべくせんようにせんか、そうして国連というところの相談する場所をこしらえて、全世界の人に戦争ささんように、もくろみよったお方です。大事な人を殺して、 良いか悪いか、これ考えてごらんなさい。あの人が生きとったら、この世の中極楽をこしらえてくれる。極楽をこしらえてくれる、あのケネディーを殺すという事は、悪いという事じゃと。こういう風に考えついてくるでしょう。
泉先生は、そういう事をおっしゃったのです。この人は極楽こしらえる上手な人じゃ。この人、大事にして置こうぜ。そういう事が、我々が言うところの、泉先生を祭ったり、神さん仏さんを拝んだりするのはそこなんです。神さん仏さんは、人間を楽にしてやろう、との世を極楽にしてやろうというところの教えをするんじゃから、それには随わなならんと、こういう風に先生はお考えになっとるのです。大変良い言葉でございましょう。この世の中を極楽にするのに都合の悪い事するな。都合の良い事はせよ。こうきめたら大抵わかりやすいと思います。
これはまことに簡単に書いてありますけれども、それがほんとうの人間の道じゃ。人道というんじゃ。そうして先生が、尚それにつけ加えて、おっしゃったのは、人の道をよく考えたら信仰の道と合うとるもんじゃ、人の道にそれたら、神さん、きけへん。人の道という事を、極楽をこしらえる道じゃと考えたら、人道というものは、極楽をこしらえる道じゃとこうわかってくるから、そういう風に考えよというお話しをしてくれた事があります。まことにこれは大きな問題でございます。今、真言宗でお大師様が言い残してある事を見てみますと、この真言の密教の教えというものは、この世に極楽をこしらえる道ぞ、とお大師さんそうおっしゃっています。そういう大きなお話と泉先生がおっしゃった話とが合うとります。極楽にするのに邪魔になる事が悪い事じゃ。ちょうどお大師様がおっしゃった事と、 先生がおっしゃった事と、ぴちっと合うとります。
あんた方もひとつお考えなしてごらんなさい。仕事するんが良いか、悪いのか、仕事するのは皆が楽になる。極楽の道じゃから、仕事はせないかん。とういう事にもなりましょう。極楽に邪魔にならんようにするのが良いんじゃというたら、人の悪口言うのもいきますまいな。極楽が出来ません。私考えるのですが、誠にごくしよいのじゃと思うのです。仮りに、あんた方が、人の悪口言わんという事をきめるのです。それを人が悪口言よるのを、あいつ悪いやつじゃと、はや人の事言いよるのです。ですから、わしは言わん、わしは言わん。人が言うてもわし言わんと、こういう風に 人が言うても、わし言わんと、皆がそうであったならば、どうでございましょうか。悪口は無くなるでしょう。これが極楽こしらえる道です。お大師さんは、そうおっしゃっとるのです。人の悪を言わんという事を、人が言うてもわしは言わんというのがよい。あいつ教えがこうなっとるのに、あいつよう人の事言うって怒ったら、人の事言いよる事になる。お大師さんの教えは、まず人が言うても、わしせんと言うて、皆がそうなって来て大勢が一人も悪口言わなかったならば極楽が、ひとり出来てくる。こういう事をお大師さんが生きの世でおっしゃっておいでるのが残っております。ちょうど泉先生が、その事をおっしゃったのです。人の道というものは、別にあるんじゃない信仰の道も別にあるんじゃない。まず小さく言うたら、人の悪口は人が言うても、わし言わんいっさい言わんと、皆がそうきめたら、だれが言う人がある。そこが極楽ぞとおっしゃった。
これ先生がおっしゃったんと、よく合うています。
(昭和三十八年十一月十五日講話)
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第四四七条 「馬のたずなは馬の心と人間の心を通わす綱であって、馬をひきしゃくる道具と心得たら馬は言う事はきかぬ。」


馬の手綱というのは馬の心と、人間の心とをかよわす綱じゃ。馬をひっしゃくったりする為につけたものでない。
先生、面白い事おっしゃった。馬のたずなは、馬に乗って、しゃくる綱でない。あれは乗っとる者の心と、馬の心とをあわす、あれがひとつの針金みたようなもんじゃ。それを通わしたら、馬がよう言う事聞く。先生まるで馬術の先生みたようなことおっしゃっていますが、これは私が岡山の野砲隊へ参って居った時の事を思い出すというと、ほんとにそうじゃと思います。私は町家に生まれて、馬追うた事ないのです。兵隊にいくまで。馬が恐ろしいのです。かみついたり、けったりしますから。
ところが私が岡山へ入ってみると、乗馬隊でございますから、時によれば、一人が六頭の馬を使う場合があるのです。一頭どころか六頭使う場合があります。まあ、私恥ずかしい話ですが、恐ろしくてかなわんのです。大きな馬が揃うて、沢山居るから。そこでこんどは、入営した兵隊に、一人一人、自分の手入する馬をくれるのです。ところが、いちいちくれました。私にも、一つ馬くれたのです。ところが、古兵が笑うのです。私を見て笑うのです。どうして笑うのかと思うて考えると、私のあたった馬が、非常によくかみつく馬です。けったり、かみついたりようする。それがあとでわかった。わたしはおそろしい悪い馬があたったな、馬は立派なんです。日露戦争に、分どりして来た馬ですから、非常に立派な馬です。きれいな、ところがその馬がかみついたり、けったりするのは、これ又、連隊一番、弱 ったと、その晩私は考えた。これ困ったなあそんな評判の悪い馬があたった。どうしようかと考えました。
ところが、有り難い事に、ひょっと私、こういう事思い出した。これ、かみつき犬でも、主人にはかみつけへん。わし、馬と、これから仲よしになろうかと。さあ、それから、考えたのじゃが、仲よしになるには、せんべいでも買うて、ポケットへ入れていて、まなしにやるのです。これは良いのじゃが、せんべい買うているとしかられる。それは軍隊には酒保というものがありまして、その中で食べるのは、かまわないけれども、営内へ持って帰れないのです。弱ったなあ これ、もうしかられてもかまわん、馬かわいがる、私が食べるのでないからと思うて、酒保へ行って、せんべいを買うて来たのです。堅パンというのを。そして、ポケットへ入れとって寝るのです。服たたんで、そしてあくる日、その服を着て演習に出かけて行く。間があったら、馬にそれを食わすのです。オウオウと言うて首をたたいて食わす。
ところが、私と非常に馬が仲よしになりまして、外の人にはかみついたり、けったりするのに、私が行ったらフンフンいうて、鼻をならすのです。妙なもので、私を乗せたら、いう事聞くのです。私が乗っとんでない。乗せられとるんです。それが評判になりまして、あの荒れる馬を村木がじょうずに乗りこなしとる。乗りこなしとんでない。乗せてくれとるのです。それいえません。いうとしかられますから。 せんべい買うて来ているのですから。 ところが、中隊で評判になりまして、連隊長がほめてくれよるから、村木行け、と中隊長にいわれた。さあ、連隊長が、用事があるって、これパン買うて来よるのがわかって、しかられるのでないだろうかと思うて、しりをあとへよして、連隊長の所へいって、戸をトントンとやったところが、入れという。入ったところが、「村木、お前は、あのむずかしい馬を、乗り回したと言うが、その馬術は、どこでけいこしたのか。」私は、馬術知らんのですけれども、パン買うて来よると言う事言えんでしょう。重営倉へやられるのですから。「いや、外に何じゃ、自分はじょうずな事ございませ ん。あの馬が、私乗せてくれとるのです。」「いやそんな事ない。中隊長、これどんな事言うてもしかるなよ。」 「ヘイ、しかりません。」そこで私は、中隊長や連隊長の前で白状したのです。「馬と仲よしになる為に、せんべい買うて来よります。」「そうだろうと思うた。」とほめてくれた事がございます。
その事をここに先生がおっしゃった。とに角、馬でもしゃくったら怒ります。たずなは、乗りのかわいがっとる心を、馬に通はす綱と思うとれと、先生がおっしゃった。これは非常に面白い言葉でございます。
(昭和三十八年十一月十五日講話)
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第四四八条 「すべて人の行いは忠であろうが、孝であろうが、わが感情がはいっておったり、わが利害などが含まれて居るようでは本ものでない。まことの至忠至孝でなければならぬ。」


こういうふうに先生のお話しがあったのです。これで私、よく思い出すのですが、あれ何という芸題ですか。 弁慶が十七年も自分の子に別れて居って、そして初めて子に巡り会って、しかもその自分の子、主人の身替わりにたたしてやろうと、こう思う芝居があるでしょう。あの時分に、弁慶の忠義という事は分かっとりますけれども、この小供に親であるという事を知らさずして、そうして刺し殺すという場があるでしょう。これなどは、弁慶の心という事は、ひとつもふくまれて居りません。殺すまでは。殺してはじめて、弁慶が十七年のため涙と言うて、わっと泣くところがあります。こういう風に何事をしても、自分という感情がまじっておらんのが良いのじゃと、先生がおっしゃったの です。
いかにも考えてみますと、ほんとうの真心の行というものは、自分というもの、はいっとらん訳です。親が子を思うのでも、自分が先で、よくしてもろうとか、末の五十日を大事にしてもろうとかいうような事言っていますけれども、これは間違いです。ほんとうに親が子をかわいがるのは、自分という者忘れて、子を養育してやったら、これがほんとうの教育です。子に間違うとるところがあれば、これを正してやる。甘い目みせずして正す。すなわち、かわいい子は、荒こもに巻けと昔から教えてある通りに、わが子であるのか人の子であるのかわけがわからん育て方しとるかと思えば、また目に入っても痛くないと言う慈悲の行をやる。こういう風に自分という考えを持たんのがよいと言う、こういう先生のお話しであったのです。
と申しますのも、私が先生のお身分を考えてみますと、先生は、お子さんが無いのです。産んだお子さんがありません。しかし、弁さんという子を、先生がもろうておいでますが、弁さんという子が、大阪の大きな岩おこしやの落し子です。その落し子を、もろうてあげると助かる人があったのです。子がついとっては、困るという人があったので、助ける為にその子をもらった時分に、先生のお言葉が、この子は大きな内の子じゃから、わしがもろうたと言うては、神の道がすたれる。いっさい親子という関係を持たんのなら、内で大きにしてあげるという先生のお話があってもろうた子ですが、その子、先生はもう産みの子同様にかわいがって、大きくしたのを私よく知っています。こういう風に、先生は、子であっても、わが子でないような大きな世話をするし、又自分の身を捨ててでも子を助けようとするところの非常に慈悲深いところを見ております。
そういうところを先生がおっしゃったのでございまして、すべて日に日にの行いの中には、わがというのがはいらんように、第三者になって、だれの目から見ても、立派な人であるというような行いをせないかんと先生がおっしゃった。実にその通りでございます。あまり子煩悩で、親が甘えて終うような事するのもいけません。又、荒々しく鬼のようにするのもいけません。そこが大事なところで、先生のよくおっしゃったもんじゃと私は思います。
(昭和三十八年十一月三十日講話)
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第四四九条 「人生を自転車にたとえたら、ぎやは折れておらぬか。
輪の軸は中心に居るか。  車体は丈夫なか。
腰かけは安定しているか。 機関部はよいか。
制転機はよくきくか。   舵は自由なか。
油はさせているか考えて見よ。どれ一つ欠いでもあぶない事である。」


これは、先生は自転車にお召しにならんのです。よう乗らんのですけれども、自転車にたとえて、人間の体を、こういう事をお話ししたのがこの四四九条です。人間は、この自転車を見てみよ。お弟子は自転車を乗りまわすんでしょう。 チェンが切れたとか、チュウブに穴があいたとか、行ききの途中で、非常にひま取ったり、人を待たせたり、困ったりするのを、先生がご覧になって、そこで話した事なんです。あのように気をつけよ。人間は、自転車と同じで、まあ乗る時に足でふんばるペタルがいたんではいないか、又チュウプはぼろ (古い)になってはいないか、腰かけはもてるか、又ハンドルはくるえへんか、すべて部分部分をよく調べとかないかん。そらいるというた時分に、間に合うもんでないから、常によく考えとけよ、こういうお話しを先生がなさいました。お弟子さんに向いてなされたのです。
それと同様に、自分の体です。体は無事にいっているかという事を二た通りに、考えよというのです。ここがむずかしい所です。体そのものに不自由なところが有るかないか、あるいは又、体と心と別にして、心の中に人を憎んどるとか、腹が立っとるか、なんか、心の中に、ちよっと弱っとる所ないかという事、この二つ考えよという大事な事を先生がおっしゃったのです。お大師様もそういう事おっしゃって、胎蔵界と金剛界とを二つに分けてお話しなさっています。泉先生も、それをおっしゃったのです。
船に乗るのですから。先生は、その時分に、もし手に痛い所があったら、ろが押せません。腰が痛うても、ろが押せません。陸の上におる間はわかりませんけれども、いざこれから遠洋航海に出掛けるという時分に、自分の体が、故障が起きたら困る。常に自分の体を大事にしとけよ。それと同様に自分の心はいつでも家の中で皆を喜ばしとけよ。
そうして、船で行ってもどるまでは、無事にしよるかいな。早う帰ってもらいたいという風に、人にこがれられる体になれよと。あいつが居らんので、しあわせじゃというようになったらいかんぞと先生がおっしゃった事がこれです。なるほど考えてみますと、一軒のうちでも、皆が思い合うという事が大事です。これをお大師さまは、拝み合いの生活とおっしゃいました。拝み合いの生活、これお四国の道へ出るというと、拝み合いでしょう。おへんろさん同志が 手を出して、お辞儀をして通りかわせしよります。ああいう風に、人はいつも、拝み合いで暮らさないかんぞと、こういう風に、二つに分けて、先生が、お話しなさった事は、まことによく出来とると思います。体を大事にせよ。家のため、家族の為、人の為である。心も大事にせよ。これ又、わが身の為、人の為、世の中の為である。
こういう風に二つに分けておっしゃった事が、お大師さまによう似とります。実にお偉いお言葉でありました。
(昭和三十八年十一月三十日講話)
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第四五〇条 「神に難の無いように祈るよりも、いかなる事があろうとも、これをきりぬける力をたのむのがよい。」


これ又面白いお話で、だれでも神様仏様を拝むのには、どうぞ無難に行くようにと、拝むのは結構でござります。
それは悪いとは申しません。結構です。それは息災延命を願うことはよろしいんですが、先生がここにおっしゃるのは、難が無いようにといって、拝んだとしても、一生の内に難は来るんじゃ、だからそれを願うのは結構じゃけども、難儀に会ってもそれを泳ぎ抜くだけの力を常に、神さんに頼んどけとここが大事なところです。難に会わんようにと いうことは結構ですけれども、そんな事は得られにくいのだから、もし難に会っても、それを切りぬけるように、自分が用意しとかないかんぞとこうおっしゃった。
たとえば先生、船によく召したのですから、船はかやらんとはいえん。かやった時分に泳げる力を持っとらんというと、船がかやらんようにと拝むのは結構ですけれども、もし難風に会った時分に、たちまち沈んでしまう所があるので、先生はいつもそういう事をお弟子に教えとりました。神さんにお参りして難の無いようにと言うお願いするのは結構じゃけども、それと同時に、もし難に会っても、それを切り抜けるだけの、自力を常に養成しとれと、こういう事を先生がおっしゃったのです。先生のお身の上を考えてみますと、先生は左ききです。左の手がよくきくのです。 ちょっとおかしいんですけども、その左の手がきく。ちよっと、不細工に見えるのですが、非常にきようでございました。仕事をするのも早いのです。実にきようなお方でありましたが、これもそうです。そらっという場合に、間に合う様な力を先生持っておいでになりました。これは、度々お話しすることでございますけれども、あの津の峯さんの南の橘湾、あしこで船の錨が下の岩にひっかかって、船出が出来ないのを先生が見つけると、すぐに裸になって飛び込みました。そうして錨の綱を伝って、下へはいっていって、いかりがかかっているのをはずして、助けてやった事がありましたが、そういう風に、先生のなさり方は実に機敏なのです。常には、悠々となさっとるのです。けれども、そらっと言う時分には、実に目に物見せん早さを持っておいでました。その事を四五〇条におっしゃったのです。神さんに難の無いように願うのは、結構じゃけれども、難に会っても、切り抜ける力を常に自分が養成しとらないかんぞ。 この先生のお気持は実に大事な事でございまして、あの徳島の、通り町に火事があった事があるのです。私は、その時代に中学校へ行っていまして、大きな火事で町がぼうぼう焼けとる。それにひきうすかかえて走り回っている人がありました。ひきうすというのは、火に会ったらはぜるのです。ところが出すものは、ひきうすよりももっと大事なのがあります。ところがひきうすかかえて走りよる人を見た事があります。こういう風にそらっ火事じゃというたら、何をしていいか訳わからんようになるのです。ただ、ばたばたと走りまわって、割に仕事が出来んのです。そういう事の無いように難があっても、その難に助かるように漕ぎ抜ける力を常につけとかないかんぞ。こういう風に先生は日頃の生活に非常にお気を使われた方です。
(昭和三十八年十一月三十日講話)
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