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第四三二条へ 第四三三条へ 第四三四条へ 第四三五条へ 第四三六条へ 第四三七条へ 第四三八条へ 第四三九条へ 第四四〇条へ第四三一条 「神仏に会いたいと思えば、人のいやがる仕事を喜んで引きうけ、人の好くものに、遠慮して通ればよい。」
「神仏に会う」という事は、むつかしいのです。人間が神仏に会うと言うた所で、仏さん拝みよったら、仏さんがとびらあけて出て来るんじゃないのです。そういう場合もありますけれども、会うというんじゃなくして、神さんというのは、こういうお方である。仏様というお方は、こういうお方であるという事を目の前へ感じるのです。人間の感覚と違います。そういうような有り難い目に会いたいと思うならば、どうしたらええか。だれしも仏さんに会いたいです。なかなか会うて来れやしません。人間と仏との間隔が遠い。それを本当に神仏に会いたいという時には、どうしたらええか、という先生のお話しです。それはしよい事です。別にむっかしいのではない。「人のいやがる事を、 自分が引き受けてせえ。」と言うのです。 たとえてみますと、大勢が仕事いたします。できるだけ仕事の楽な方へまわりたい。それをそうせずして、人がいやがる方へ自分が回れ、人を楽な方へ回してあげ、こういうのです。こういう事は沢山あります。それから人のすいとる事は、なるべくこちらが遠慮せえ。これに付いて面白い事があるのです。
残り物に福があるという昔からの話があります。所がどうでしょうか、果たしてその通り、世の中に残り物に福があるでしょうか。さどい者勝ちという言葉もあるのです。ここに一ツの食べ物があるとします。おせんべいとか、あるいはいり豆とか、沢山な数の物を盛り上げてある。そこへ大勢の人が互いに手を出して食べる。自由に食べられるのである。こういう事になっとる席に出会わした時分には、よいのから、よいのから、食べる。ついには、くずが残るものです。もし、人の後へ回ったほどええんで、残り物に福があると言うんならば、みんなが人にええ物上げようという精神の人が寄っとった場合には、くずからくずから食べて、後へ残っとった人がええ物食べる。こういう事になるのです。
「それを先生がおっしゃる。仏様に巡り会うて、有り難いお蔭を自分の体に感じるようなお蔭を受けたいと思うならば、もう一ツ言い換えたら、仏に会いたいと思うならば、人の好きな物は譲ってやれ、人のきらいな物は引き受けてせえ、こういう事で会えるんじゃ、とおっしゃったのです。 泉先生のご信仰は別に神様の前で、ああせえ、こうせえとおっしゃらんのです。人間として日に日に暮らしよる、その日頃の生活を、信仰に合わせとおっしゃる。おっしゃる事は簡単でしょう。別にむっかしい事おっしゃらないのです。私は長らく先生にお付き合いしましたが、それはここに書いてある通りです。いつもご自分は後へ、後へ、寄っています。人に譲っています。それは私つぶさに拝見した事です。誠にこれはええ信仰だと思います。人間の生活をそのままに信仰にかえるのですから、お陰受けやすい。そういう風にせえよ、という事を一般の信者に教えたのであります。
(昭和三十八年九月三十日講話)
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第四三二条 「真心は神に通う。欲心は悪魔に通う。所が真心と欲心との区別がつかぬ。これが悟れたら大きな得である。」
真心というのと、欲心というのとは違います。けれどもよく間違うというのです。真心であったならば、神様に通じやすい。つまり仏さんに通りやすい。欲心、我心であったら悪魔に通りやすい。ちょっとむつかしい問題ですが、 真心というのは どんな心かといいますと、それをもう一ツ言い換えますと、「わがというものを除いた心が真心」 「わがを第一に置いたのが欲心」と解釈してよいと私は思います。先生は、いつもご自分という事をのけて、人を第一に考えますから真心の生活をなしたお方です。我々はひょっとすると、自分の好きな事やりたい癖があります。
所が、自分の好きなという事するのもよろしいが、それが果たして人にさわりやせんか、人の邪魔になりはせんか、という事を考えぬといかんぞと先生はおっしゃいました。それが四三二条です。これは簡単な様なけれども、大事な事です。
世の中に善という事と、悪という事と二ツあります。良い事と、悪い事、何によって区別するか。この区別覚えたら、お蔭もらえるというのです。先生の信仰は大分違いましょう。その先生の答が面白い、簡単です。わがというのを抜いて考えた事が善じゃ、わがというのが第一になっとるのが悪じゃと、こうおっしゃる。すると、悪な事していると悪魔が付けると言うのです。この悪魔というのは、人間が皆不運とかいう風に解釈して悪魔といっておびえています。それは外から来るのでない。わが心の中に、わがを第一に置いていたら、すぐに悪魔が付ける。知らん間に付ける。甘酒に小ばえがわくごとく、欲心が出来たらすぐ小ばえがわくとこうおっしゃって、常日頃の事を先生がいましめました。
(昭和三十八年九月三十日講話)
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第四三三条 「まごころは神に通じ、我心は肉に親しむ。それであるから肉を捨てれば神に通ずるのは当然のはなしである。」
真心は神に通じて、欲心は肉に通じる、というのです。簡単ですが、そうしてみると、この肉身すなわち、自分の体、物の方です。それはわが欲である。こういうとむつかしいようであるけれども、もう一つツ言い換えますと、わかりやすいのです。人間と動物と、どれだけ違うんならとこういうのです。まず動物と言いましょう。他の生物と人間と、どれだけ違うんなら、と言いますと、動物は自分の体を保護する事ばかり考えています。人間は又、それとは違って神仏の心に通いますから、真心持っていますから、とうとう、この世の中を征服して人間世界に変えてしまった。
元はそこにあると言うのです。見てご覧なさい。とらでも、ししでも、どの動物でも、わが身を守る道具持っています。きばとか、つめとか、あるいはけるとか、ひづめとか、大体そういう武器を持っています。人間何も持っていません。きばだって芋にかみ付く位の歯です。つめだって背中のかゆい所かく位のつめです。とても敵を防ぐというようなつめではありません。すなわち真心なのです。気をゆるしとる。敵はない。そういう弱い体でございますから有り難い事には、知恵というものに恵まれていまして、その知恵という物で、真心で、人を大事にするから人界という出世した世界が生まれたのです。人間は、自分という事を第一に考えて、人はどうでもええという考えを起こしたならば、これは一番悪い、動物の中で一番悪いものになります。そこを先生が、面白う、おっしゃったのです。
真心を持っとる者は神様に通じやすい。言い換えますと、わがという心のない人間は神さんに通じやすい。わがの心ばかりで生きとる者は、動物に近い。神様がきらいである。こういう事をおっしゃった。四三二条と四三三条は、よく似とる事でございます。
(昭和三十八年九月三十日講話)
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第四三四条 「寄附をして建札を遠慮する人は沢山ある。又、人に施して礼を求めぬ人はこれも沢山あるが、日常の生活に人によい事をして、その返礼に悪い事をしむけられたら怒らぬ人が幾人あるか。すくなくないだろう。日常に施行していると心得たらよい。」
寄附をするのです。そうしたら、建札を立ててくれなんだら怒る人があります。それから人に物を施して、有り難うございますと言わなんだら怒る人がある。先生は、それらをしてくれん方がええと言うのです。大分違いましょう。
物を上げるという事は、人に上げたんでない。神さんに上げたんじゃから、人に広告せいでもええじゃないか、こういう先生のお説です。ところがもう一ツひどく考えますと、人にええ事をして人が喜ぶだろうという事にして、 あべこべに怒られた事がある。その時分にはどうするか。それは自分が神さんに好かれとらん所があるから、やられたので、有り難うございますと言うて、しかられた事を中心に反省せないかんぞと先生がおっしゃった。これも日頃、目が覚めて、寝るまでの間の行じゃという先生の証拠です。
先生は、神さんの前や仏さんの前でもしますけれども、それがほんとの行でないというのです。それも大事だが、四六時中、すなわち起きとる間、神さんの前におると思えというのです。それは窮屈なかというと、そうじゃないのです。先生は誠に朗らかなお方です。いつも笑うておいでる。面白くこういう生活をする事がええとおっしゃる。
これは先生の信仰は、しやすうて面倒なのです。しよいようなけれども、すきがないのですから行がしよい。いつも目がさめたら施行しとると思うとれ、こうおっしゃる。施行というのは、施行、忍行、戒行、精神行と行は沢山ありますけれども、目が覚めたら施行しとるんじゃと思うとれ、わがは得するなよ、と言うのです。面白い教えでございます。
(昭和三十八年九月三十日講話)
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第四三五条 「大慈悲に燃えておる人を聖人といい、知恵ある人を賢人といい、自分の事だけか知らぬのを凡人という。」
人間には聖人と言うて、お大師さんとか、泉先生とか、あるいは遠き昔を言えば、釈尊とか、こういう人は聖人です。聖、尊い人という。もう一ツは、賢い人、賢人というのがある。知恵があって、賢いと言われる。もう一ツの種類は、凡人というのです。凡人と、賢人と、聖人と、三ツに先生は分けています。 先生は、凡人というのはどんなのかというと、わが事ばかり考えとるのが凡人、賢いという人は道徳的にきれいに見える事をよく考えとる。しかし人の身代わりになって、その人を助けてあげるというような行為は薄いのです。それが賢人、その上が聖人という。そういう事を先生がおっしゃったのです。先生は、字はあまりお知りにならんのですが、こういう事をおっしゃった事がある。
ここに偉い人と偉うない人との間に一本線を引いてみい。横に一文字を引くのです。そこへ人という字を書くんじゃ、下手へ、そうして、人という字をずっーと上へ持ち上げていったら、横の線の上へ頭が出たのが大人物と言うのじゃ。なるほど大の字です。所が、それがずっーと大の字の頭を突き抜けて上の天に一本ある、天等はんに頭つかえたら それは天に通ずる人と言うんじゃ。そこまでは、人間が出世出来る。普通の人間の線越して、大の字になって、もう一ツ、天等はんまで頭がつかえたら、それが天に通ずる人と言うて、これ聖人になれる。ところが、もう一ツ門天を突き抜いて、頭が出たら慢心して偉者、偉遠と言う人になるぞ、と先生おっしゃった。偉い方が遠うなるぞというのは、どんなのならと言うと、人夫の夫の字です。天の上へ突き抜けてご覧なさい。そういう面白い事を先生が話した事がございます。それと同じように、聖人というのは天に通ずる。天地に通ずる。これが聖人。賢人というのは人間の中の偉者です。凡人というのはわがだけを考えとるのが凡人、どれがええかと先生おっしゃった事がございます。それを私が書いたのでございます。これは、人間を三ツに分けとるというだけの事ですが、その分け方は、わがという事が、どこにおるかという事で決まるというのです。これは、釈尊が言われたんでも、この凡人というのはわが事ばかり考えとるのです。所が人の事考えるようになって来るとこれは名が変っとります。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声門、縁覚、菩薩、仏とこう十に分けておりますが、人の考えるようになって来たのが菩薩です。これは人間で言えば大人物という方です。もう一ツ、今度ぶり、わがの事忘れて、人を助ける事ばかり考えるようになると仏さんになる。いわゆる聖人になる。こういう風に、先生は、いつも三ツに分けておいでました。どうぞ、凡人を越して六道を越えてそうして上の位でも まだ声門じゃの、縁覚じゃの、いう位では、わが事考えていますから、いつも人の事考える所の菩薩になれという事を先生よくおっしゃいました。こういう風に、いつも先生は、人間に段階を置いておいでますから、こういう事も、日頃の、わしは今どこにおるぞいな、凡人かいな、賢人かいな、聖人とは行かんけれども、という風に考えたら、わが身の修行になる。先生そんな事おっしゃいました。あのお方は、カタカナしか知りませんけれども、そういう事を人に言う時には、必ず聖人の言葉が出よりました。これが本当の信心の仕方じゃと私は思います。
どうぞ、この四三五条は、別に信仰という時間を特別な時間に信仰するんじゃなくして、目が覚めて寝るまでの間、信仰という先生の事を考えていたら別に苦労しなくても、お蔭が受かる、という大事な事のように私は思います。
(昭和三十八年十月十五日講話)
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第四三六条 「知ってするのを習性という。知らずとするのを天性という。知ってする事がたびたびかさなれば天性と同様となる。これが修行である。」
知ってするのを習性という。自分が知ってするのです。日に日に、したり、言うたりする事を知っていてしている。
これは悪い、これはええ、という事、知っとってしている。それを、その人の習性と言う。知らずしてするのを天性と言う。悪いとか、ええとかいう事が知らんづくにしている事が人を喜ばしたり、人にさからったりする事になる。
それと、もう一ツは知ってしている事と知らずにしている事と、あっ私はこれ知っていてした。知らんとした。しかし、人が、こういう風に見た。こういう風に考えた。これは腹が立つけれども、わしの習性でない。わしの天性じゃ、これは直さなんだらいかん。こういう三ツの種類があると先生はおっしゃる。どうですか。ちょっとわかりにくいですけれども、知っていてしている事で人に憎まれる、ほめられる。という事は、これはその人の習性と言うて、苦痛だ。ところが何も考えぬのに、自分がした事が世の中の人におこられる事をやる。これを天性と言う。お母さんのおなかの中からけい古しとる事です。天性をもう一ツ、言い換えたら、これは自分が知らずしているのでございますから本能と言います。本能というのは非常に大きな力が有るのでございます。
あひるはご承知の水の上におる鳥であって、子を卵からかえすの、へたです。それに比べて鶏は卵をかえすのが、ごくじょうずです。それで鶏に卵をかえさすのです。鶏の卵と、あひるの卵と一緒にして暖めてかえす。やがてひながかえります。ところが鶏の卵から、かえったひよこは、もう、かえると同時に早、庭をかいて、物をくちばしで拾う所作をしるのです。足でピンピンとかいて、何か拾う、これ、鶏の習性です。もう、鶏、教えなくともするのです。天性です。あひるは、 かえると同時に、歩くのがへたですから、水の中へ入って泳ごうとするのです。そうしたら親がびっくりして、自分の子が水の中へ入って泳ぐから、びっくりしてしもうて、ぐわぐわという、という話がございますが、これは親が教えとらんのにするのでございますから、これを天性というのです。言い換えますと本能といいます。と、こういう具合に、鳥の事いうと妙でございますけれども、生まれたての赤ちゃんが教えんのに、乳吸うのどうですか。だれも教えてありません。乳房持って行くとすぐ吸うのです。これは本能です。こういう風に習性と本能とは違います。
それから、もう一ツ、先生のおっしゃるのは習性、私はこういう事知っとってした、それにあんなにほめてくれた、あるいは、悪口言われた。これ習性の方です。ところが、知らんとした時に知らんとものを言うた時に、あるいは知ってものをした時に人からほめられたり悪く言われたりする。これは本能、本能が悪かったり良かったりする。
ところが本能というのには、お母さん、お父さん、あるいはじいさん、ばあさん等がした事が体へしみ付いとるのです。そうして、生まれてくると、知らんとした事が、人に非常に尊敬せられる。お大師様のごときはそうです。反対に五衞門のごとく、生まれて人の物とるというのも知らずと覚えている。人におこられる。こういう差が付いて来るのです。そこで、ここに偉い人が、ああ、わしこれ知らんとした、知らんとしたのにこれおこられる。どうしてかと反省します。これをざんげと言います。どうして、こんなに、わし、おこられるのかいな。わし、悪いつもりでしとれへんのにな。
そこで調べてみると、なるほど自分の祖父、祖母がした事が間違っとる。あるいは親がした事が間違っとる。それを、自分の身に負うて、出て来るのです。見てご覧なさい。何でも動物が、親の通りしましょう。カマキリの子は生まれたら、両方の手でかま振り上げて、かまを突きさしてやろうとしています。構えています。ご覧なさい。それから、まむしの子です。私のしり合いの人が小豆島へ行った人が有るのです。つい道端で、二寸くらいのまむしみたいなへびが居る。。それでつえでそれにふれたそうです。するとつえの先にそれがかみついた。わずかに、一寸や二寸のまむしの子がつえの先へかみついた。これは親や、ぢい、ばあが人にかみ付く癖が有るのが、生まれながら知らずしてやっとるのです。それを本能と言います。泉先生は、そこをせずに四百三十六条には、あんた方は皆お父さん、お母さんから生まれた子である。で、おとうさん、おかあさんから良い事も教えてもらっとるし、余り良い事でない事でもおなかの中から教えてもらっとる。それが一生の運を決める事になるんだから大事です。
ところが今、あんたが私の話しを聞かれている。それが、やがてはあんたの子孫に上げてしまうのです。向こうがくれと言わなくても上げてしもうとるのです。どうぞ良いもの上げてくださいよというのが先生の願いです。どうですか。先生はそういう深いお考えを持っておいでたのです。この四百三十六条はそれを書いてあるのです。
まあ、あんた方見てご覧なさい。あのまむしの子は一寸や、二寸の時から早人にかみ付く気がございます。これを 孔子が「蛇は寸にして人を呑むの気有り。」といっています。へびの子は、一寸位の時から、はや人をのんでやろうとする気持ちが有る。こう教えとります。それで親御になった方が、親御になったあんた方が、子が悪い事したという事でも、それを頭からしかるという事は、それはいかんと思う。先生はそうなさるなとおっしゃったのです。
これは、なぜ、あんなに言う事聞かんのだろうかとこう考える。なぜという事、先生すぐおっしゃったのです。ああ、 これは先の世に、人の事聞かん人がおった。それで、あんなにしよる。これを直すには、私が人の事聞かないかん。そうして柔らかい心でその子育てるなら、直ると先生がおっしゃった。いかにも立派なお言葉です。 どうぞ習性というのと天性というのを、それと今度ぶり両方知っていて直そうとするのを修養と言うのです。今日信仰の上で修養という事はそれを言うのですから、どうぞ、どなたもこれはあります。習性が有ります。天性が有ります。そこで、悪い所治すのが修養でございますから、その意味で、どうぞ信仰していただきたいと思います。そうすれば、お子さん、孫さん、これは非常に運のええ子供しができるという事は間違いないと、先生がおっしゃったのが第四百三十六条でございます。誠に尊いお言葉でございます。
(昭和三十八年十月十五日講話)
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第四三七条 「草木の花は国柄をよく知って居ると思う。日本の花は奥ゆかしい。香もよければ葉も美しい。よその国の花ははでだが香もなく、葉もないのが多い。」
ある日、私が「先生、このボタンは木に似あわん、きれいな花が咲くのですね。」と言ったのです。すると 先生はヒヒヒとお笑いになって教えて下さった。「村木さんよ、このわしは、花という事で考えるんじゃが、日本の国の花は菊の花を尊びよるなあ。」「へえ、そら陛下のご紋でございますから、ご紋にする位に菊をとうとんでおります。」
「ところが村木さん、支那ではボタン大事にするというでないか。わし知らんけれどそんなに言うなあ。」「へえ。 そら支那ではボタン大事にするそうです。」「よう考えなよ、村木さん、菊はとても香りがええなあ。」「へえ香りよろしい。」「見てもきれいだなあ。」「へえ見てもきれいです。」「そして芽を分けたら、それでいくらでも広がっていく。それで日本の国の代表の花というのは、菊にして有るんじゃ。それは決めたんではない。人間の心がそういう風になった。支那ではボタンを大事にするが、これは、見ばえを飾る。なるほどきれいだな。しかし香りが悪い」ボタンの香り悪いです。いやな香りします。そうしてどうかすると枯れます。「村木さんなあ、国には国花というて国を代表する花が有るんじゃ。そこで村木さん考えないかんなあ。人間の家にも、家の花というのがあらないかん訳じゃなあ。それは、花を話しよる時じゃからわしは花の事言うけれども、内は何が大事じゃという事を人の家の家風にするんじゃ。これを神武天皇以来、日本の国には国柄というて柄が有る。家柄という柄建てたらどうぞい。」
そこで泉先生が花にたとえて家の風、家風という事をこしらえよとおっしゃった。その事を私がここに書いたのでございますが、世の中でよく言いますが、寄付とか何とか言う慈悲心から生まれた事言うて行くと「あすこへ行ったってあかんわ。」と言う。「あすこへ行ったらしかられるぞ。」という。これは、家風が有るからです。家風というのをどうぞ大事にしてくれよと先生がいわれました。
ところがあんた方は旅行なさった事お有りでしょう。信心仲間で鐘たたいてお参りするのですね。詠歌を言うたりして。ところが、所によったら受けてくれません。それから昔よく言いますのに、宿屋の少ない時にゼンゴン宿と言いまして、修業して回るのに、泊めてくれる所と、泊めてくれん所とがある。所によるとお遍路はんを泊めてあげたら、お大師さんがお喜びになるというて、うちへ泊まってくれというて、ゼンゴン宿をするお家が有る。「村木さん、この家の風というのは大事じゃなあ。お遍路やうちいらん。お通りと大きな声でいがりとばす。そらまあ、それでよろしい。よろしいけれども、お大師さんを慕うて通りよる人じゃから、お大師さんが喜んでくれるだろうと思うて、その人にご報謝をする。こういう事が信仰になるんぞ」と先生がおっしゃった。
ちょっと簡単な言葉でございますけれども、お遍路さんが来たら、お通りというて、いがりとばすのも、これもちょっと考えものでございますなあ。折角尋ねてきとんじゃから家だけにご報謝を上げてもええ。家見てから頼んで来とるんだから、あまりそげない事言うなよ。と先生がおっしゃった。これが四百三十七条に書いてあるのです。
日本の国の花は菊というて、立派なもの、国に国花という花が有るように、家には家の風というものを作らなければ 子や、孫の時には余りようない結果になるぞ。と先生がおっしゃったのです。これは実に立派なお言葉じゃと私は思います。どうぞこれは、慈悲心でございますから、ひょっとしたら、悪い人にも物上げるかわかりませんけれども弱って頼んできとる時には、それは慈悲心で迎えてやるのがええと私は思います。
このように先生のご信仰という事は、神さん拝むのでないのです。先生もう人間が立派であったら、神さんが好くという事です。先生、人間中心の信仰です。今真言宗の事調べてみますと、やはりお大師さんは、そう書いとります。 お書きになっとります。神さん仏さんというのは、人間を幸福にする為にお頼みする柱にしてあるんだから、神さんにお辞儀するより、人間をかわいがれとおっしゃったのが先生の教えぶりです。
どうぞ、そういう風に信仰をしていただきたいと思います。
(昭和三十八年十月十五日講話)
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第四三八条 「自分を守る為に精を入れておる人は、神から見はなされやすい。我を忘れて人の身を思いやる人は神に好かれる。」
これはまことに先生がよくご覧になっとるのであって、あの下等動物を見てご覧なさい。自分の身を守るのに精を入れております。あのはちにはしり針があります。イラには体中針がはえております。人間にはそんなもの一ツもありません。自分の身を自分で保護しとるのです。その他色々ございますが、あのくぬぎの根本に穴を空けて、くぬぎの木の汁を吸う色々な虫がおります。ちょう、はち、かぶと虫等ありますが、妙に山ばちがあれを吸うているのです。あのくぬぎの根のカサボタに、山ばちが集っとる事があります。所がそこへかぶと虫が又行っとるのです。あのかぶと虫はどこ刺してもこたえません。山ばちが刺したって、よろい着ております。こういう風にわが身を守るのに精を入れとります。何でもそうでございます。
あのうさぎが山におるのを見てみましても、ちようど、しばの枯れた葉のような色をしています。背中が、そうして、人の目をくらましております。前足が短かいのです。後足が非常に長い。これは山を駆け上がるのに非常に早う上がれるのです。馬のようなものでも前足が長過ぎると、上へ上がるのに骨がおれる。何の動物でもそうです。前足が長いと山の上へ走るのに邪魔になります。ところがうさぎは前足が短い、その山の上へ上がる事には非常に早い力を持っております。しかし下へ向いては、うさぎは走れません。私よく猟に行った事ありますが、うさぎを見付けると必ず上へ走る。自分の得手です。こういう風に自分の身を守るのに非常に力を入れています。どの動物でも見てご覧なさい。こういうふうに、わがでに、わが身を守る事に精を入れておる者は、神様から縁が遠いと言うのです。先生がそうおっしゃる。わが身はどうでもええ、神さんにお任せしとく、人の身を安じてやるというのを神様が好いとると言うのです。なるほどお話は、ちょっと面白い話のようですけれども、実際に世の中を見てみますとそういう風になっております。人間の世帯でもです。
これは、私が形を言うたのでございますが、心の方を考えて見ましても、自分の家、自分の身、自分の親、子、兄弟、自分という名の付くものを大事に、大事にして精を入れとると、いつの間にか信仰の方が遠うなってきます。わが身は神様が守って下さる。困っとる人が無いようにという人は運がよろしい。こういう風に先生がご覧なさるのは、そこをご覧になって皆に教えたのでございます。
自分の身を守るのに精を入れとる。そういう事は神様の方へ遠ざかる事だとおっしゃる。なるほどそうです。考えてみますと、いかにも自分の事は無頓着でおる。人の事を安じてあげる、という人は何やらかわいらしい人に好かれる、運がええ、こういう事になっております。これは、まことに先生がご覧になっとるのは、やさしいにご覧になっとるようでございますけれども、これは誠に意味が深い事でございます。これ一回だけでも考えたら信仰にはいれる訳でございます。
(昭和三十八年十月三十一日講話)
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第四三九条 「人に話しをするのにじょうずになるより、人の話の聞き方がじょうずになれ。」
話をするのに、話がじょうずになるより、聞く方がじょうずになれ、と言うのです。ちょっと聞きますと、何でもないようですけれども、ここに一ツのたとえを置きます。嫁入りなさる方があるとしますと、自分の家庭を離れて知らん家庭へおいでるのです。その時分に話をじょうずにする事もええ事ですけれども、聞くのがじょうずでなかったら、 たちまち失敗するのです。どういう訳かと言いますと、おしゅとめが、ねえさんこれなあと話しがあったら、ハイハイと軽い返事をして、聞く方はじょうずにする。家の嫁は賢い、とすぐ言われます。それを、返事をろくろくせなければ、聞く方がへたであったら大きな損があると先生はおっしゃるのです。もっとも、話しするのもじょうずなという事もいるけれども、聞く方をじようずにせえ。なるほどと私は思いまして、これを書いたのでございます。昔から、よくお年寄りの方が話しなさって、人を呼んだ場合です。あれは「立ち声より居声」というのですが、まあ何かなさっているおしゅうとめさんが「ねえさんよ」と呼ぶとします。すると立ち声、立って後返事しないで立つ前に「ハイ」と返事をじょうずに軽うにしておいて、つい立つのが少々遅うてもかまわんという事になる。昔から立ち声より居声、居なりに軽い返事をすると、早く向こうへ気持が通じてよいのです。やはり先生がおっしゃるように、話し方がじょうずなよりも、聞き方がじょうずな人が大分感じがええとおっしゃいました。
それから、この中には、兵隊においでとった方もあるだろうと思いますが、軍隊に入りまして、一番先にやられるのが声です。返事声です。古兵の人に呼ばれるのです。だれそれッと呼んだ時分に、「ええ」など言ったら、たちまち、ちょっとこい、ほおべたを一ツ見舞われるのです。これ位、軍隊は厳しかったのです。それで返事の仕方を入営すると二、三ヶ月させられます。すると軽うに向こうの人に「ハイ」と言う、いかにもやさしい朗らかな返事をする。 それでよろしいと言うのです。これあんた方よく考えてご覧なさい。人を呼んだ時分にです。相手方が、気の抜けたような返事してご覧なさい。あれどうしたんぞ、あれしんどいのか、きらいなのか、こういうような気がします。けれども軍隊でそれを言うのです。だれそれと言うと「ハイ」と、この軽い返事が出るまでは、いつ、ほうべたを見舞われるやらわからん。これは、おいでた人はよくお知りだと思います。ほうべたが舞うや言うたら、そんな事あるかと今の人はおっしゃるか知れませんけれども、兵隊においでた人からお話しを聞いてご覧なさい。まあ、ほうべたが舞うのが早いのです。へたな返事すると、すぐ、ほうべたをたたかれとるのです。軍隊はひどかったのです。これは、無茶にひどかったのではありません。あしこは、出来るだけ早く一人前にしてやろうと、こういう考えから、上官がやかましく言うたのです。
我々は、家庭におりましても、返事という事はあまり重きを置いていませんようでございますけれども、じっと広く世の中を見ならしてご覧なさい。返事を軽く朗らかにハィと言える人は得があります。そうして聞いても気持がよろしい。呼んだ人も喜ぶだろうし、何やらその間に朗かな空気が通うものです。これは私が返事だけを言うたのでございますが、話の聞き手です。聞くのをじょうずにする、これも大事です。ああそうですか、ハイハイ言うて、その話を聞いている。聞き手の方です。それを 気ぬけした返事をしてご覧なさい、話をする人は力が入りません。それをじょうずに「ハイ」「ハイ」と言うと、話す方も面白く話が出来る。そうして、話しなさる人が力を入れて話をしてくれるし、又力を入れて親切に扱うてくれます。話をするよりも、聞き手になった時分に気をつけよと先生がおっしゃった事は誠にこれ意味が深いのでございます。先生はこういう風に、小さな事を大事になさった方です。
信仰なさる方が、神様仏様の前に行った時分に、じょうずに、ええ声で朗らかに拝むのも、これもよろしいけれども、 それよりも人の感じを悪くしないように、小さな事でも気を付けて人に気を付けるという事が神様がお好きだという事です。これは先生の教えがそうなんでございます。先生は、どこの書いたページを聞きましても、神さんよりも、人に感じ悪くすなという事を、始終おっしゃいました。これもその一ツでございまして、あんた方が日に日におためしになったらよくわかります。
学校へ行っている子でも、「だれそれさん」と呼ぶと、「あいッ」とその返事の朗らかなほどええのです。私等が、学校へ行っていた時分に、先生が返事をするのを教えてくれました。私が悪口言うようでございますけれども、どうでございますか、この頃の児童や生徒を呼んだ時分の返事はよろしいか「ウン」というようなおかしい返事します。
そんなに言うと悪いですけれども、どうぞ、返事を軽くしたいもんじゃと私は思います。そういう風にご家庭で、こういう事をお教えになったら、そのお子が、運がええと思います。
(昭和三十八年十月三十一日講話)
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第四四〇条 「神仏に緑が切れたら、いかなる知恵があっても学問があっても、目くら同様、つんぼ同様である。肉の目が見えいでも、肉の耳がきこえいでも、心が神に通えば不自由はない。」
神仏に縁が切れたら、いかなる知恵があっても、学問があっても盲同様、つんぼ同様である。目が見えないでも、耳が聞こえないでも、心の目や耳が達者であったら、それは、不自由はない。と、こういう事を先生がおっしゃったのです。これは、私らが小学校へ通っていた時、先生がおっしゃったのでございますが、塙保己一という学校の先生があります。そのお方は目が見えないのです。目を無くして非常に学問がよく出来ておった方で、人を教えていました。
昔の寺小屋です。たくさんの生徒がきておりまして、あんどんに火をつけていました。あんどんと言うものは、今の人は知らない方もおいでると思いますが、今の電気です。昔は紙をはった中へ火をつけて、あんどんと言うており ました。行燈つけて、そこで学生が沢山集って、先生の教えを受けていましたところが、そのへやへ、風がすーっと吹き込んで来たのです。そして、ともし火が消えた。先生は目が見えんから、火が消えたのがわかりません。どんどん講義をする。「先生、ちょっとお待ち下さいませ」「どうしたんぞい」「あの行燈が消えました」そうすると先生が、 「おい、よろしい、よろしい」その時に、塙保己一先生のおっしゃった言葉が面白い。「ああそうか、目の見える者は、不自由なもんじゃなあ」とおっしゃった。
又心の目、心の耳、あんた方は、耳があいとったら聞こえるとお思いですか。中々、耳って聞こえやすいようであって、聞こえにくいものです。どうしてかと言いますと、一生懸命に、根限り力を入れて将棋しよるのを見てご覧なさい。
「あいた、やられたなあ、せこいなあ、ふうん」って、腕を組んで考えとるのです。将棋しよるのです。その横へ奥様が「お昼が出来ましたから、ご飯上がってください。」知らん顔しとる。「ああ、せこいなあ。これ痛いとこやられたなあ。」って頭かきよる。ご主人が「もしもし何ぞい。」「ご飯召し上がったらどうですか。」と又言う。「ああそうか。」と言うようなもので、なかなか「ご飯召し上ってどうですか。」と言う事が聞こえんのです。苦しさ一杯に、そういう風に、心が他へ向いていたら、耳がつんぼします。これを、心の耳と言うのです。心に屈託が無いと、どんな事でも聞えて来ます。勝手つんぼって 昔からよく言いますが、勝手つんぼ、というのは、つんぼで無いのです。他の事考えとるから、耳の方がつんぼになるのです。
目でもそうです。目でも自分の心が他へ飛んでいましたら「今日、道で面白いもんがあったなあ、道ばたでこういう事しよった。」「ほうかいな、わし知らなんだ。」と言うようなもので、心がこもっておりませんと、目は開いていても見えんものです。
それから又、面白い事は、他へ遊びに行くとします。大勢の方がバスから降りて、方々見物するのです。ところが、景色のきれいなのも、神様や仏さんの松林の中で有り難そうなのも知らず、ただお参りするだけしか知らん。何があったのやら、それ一ツも知らん。これは目に写っただろうけれども、他の事に気をとられているから、景色も何もわかりません。こういうようなもので、目や耳というのは、まことに勝手なものでございます。
ことに、ここに先生のおっしゃるのは、神仏に縁が切れる。縁が切れたら知恵があっても、学問があっても、だめじゃ。こういう事、先生がおっしゃったのですが、これは神仏の縁が切れるという事は、神仏を一ツも思わない、有り難いとも何とも思わない。そんなになって来ると、学問がいかにありましても、知恵がいかにありましても、人中へ行った時分にいやがられます。私は信仰する人をほめると言うんじゃありません。心に神仏の縁がつながって、何事にでも「ああ有り難い、お陰で」という風な人は、人に好かれるものです。信仰のある無しにかかわらず、それで泉先生は、そこでおっしゃるのです。神仏に縁が切れる。すなわち神や仏に縁が切れたら、有り難みもわかりません。
理屈ばかり言う、苦舌ばかり言う癖が出てきます。そうしたならば、たとえ学問があっても、人に好かれません。 知恵があっても、それは人に好かれません。いやがられる。それではいかんのだ。そんならどうすれば良いのか、同じ耳が付いて同じ目が付いて、どうすれば、その耳や目がじょうずに使えるか。そういう事になりますと、結局は、ご先祖大事、神仏大事、人大事、わが身はまず後から、というような人であると、必ず、耳も目も、ごじゃになりません。人に通ずるのです。その人の言う事、通ります。そういう風になったならば、心の目が見える。目先が見える。昔からよく言うでしょう。あの人は、目先の見える人じゃ、それは、人に好かれる人なんです。目先が見える。耳もよう聞える。
それは肉の耳や目がよう見える。耳が聞こえるというのでないのです。心の目や耳がよく見える。こういう風にお考えになった方がお得かと思います。
どうぞ、この泉先生がおっしゃった、この四四○条というものは、心の目を働かせ、目先が見え、耳もその通り、心の方が大事ぞという事を先生が教える為にこれを書いたのでございます。
(昭和三十八年十月三十一日講話)
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