351~360条

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第三五一条 「世の中にかんちがいが沢山ある。ィ、わが身の汚れに神に塩ばらいする。 ロ、助けるためのひつけをたたりと思う。 ハ、神へのご進物を人よりもらう。 ニ、神に貸せばよいのに借りつける。 ホ、たのめば良いのに苦舌いう。」


世の中には、信仰の上で勘違いがたくさんある。第一に自分の身に汚れがある場合、神さんに塩払いするのです。
間違ってはいませんか。自分の身に汚れがあるのに神さんの方を塩払いする。神さんや仏さんは汚れたりしません。
わが身の汚れというものがあったら、自分の身を清浄にせんならんのに、神様に塩払いする。こんな事がよくあるのです。これは、先生が大笑いなさっとりました。
たとえば、自分の身にぶくがあると、神様にいいわけしてしたらええのですが、自分の身に汚れがあるのに、神様の 方に塩払して通る人がある。これは、大きな間違いじゃ。だいたい、ぶくというのは、どんな事か、よく調べて見るというと、もともと、ぶくというのは、ないんじゃとおっしゃって、泉先生は、もし、ぶくがありましても、その日からでも 先生は、神様拝みなさった人です。結局、ぶくという事は、どんな事かといいますと、つらがるという事がぶくなんです。つらいのに違いないのですが、つらいというのはかわいそうなというつらがりようでありまして、決してそれがぶくになる訳がないのです。しかし、つらいという事があった場合には、神様の前でそれをお見せするのは、よくないから遠慮せえと、こういうような事を先生がおっしゃいました。それに神様に塩払いして自分が拝むのは、大間違いでございます。 その次に助ける為のひつけを、たたりというております。神の助けをたたり、あるいは仏のたたりとよくいいますが、これを泉先生が、例をあげて、私に話してくれました。決して神さんや仏さんは、自分の子孫に向いて、あるいは人に向いて、さわりとかいう事はないんです。それは仕方が間違うとる時分に教える為に、ひつけをする。そのひつけをたたりと間違うて、崇り、崇り、言うとるのです。
たとえてみますと、こんな例がございました。ある大きなぶげん者のお内に、非常に立派なお墓が建っておる。それを、石屋さんがわけてくれんかと言うて、その墓をわけてもろうたのです。その墓ひいて行く途中で車ごて川の中へ転がり込んだのです。知っとる人が来よるもんですから、そのままにしてわが家へ帰り、しばらくそのままにしておきました。ところが、息子さんが病気したのです。どういう病気かというと、恐水病というて、水を見たら、すぐにてんかんみたようになるのです。そしてみてもろうたところが、仏がさわっとるというのです。泉先生は、仏がさわるとは言わんのです。あとでわかってきますが、お話いたします。泉先生に拝んでもらいよったところが、「おまえさんとこは古い家じゃなあ。一番大きな石塔があったのに、それが足らんでないか。」「ヘイ先生、そうでございます。」とわからん返事をする。「ヘイそうでございますといったとて、それいかんでないか。一つ足りませんな。」 「ヘイ先生足りません。」「これ、おまはん、此の塔が川の中へ落ち込んどるがな。」「先生落ち込んでいます。」 「落ちこんでいますだって。」 私が先刻お話したとおり、知り合いの人が きよるから、わざわざ川の中へ ほり込んだ。転がし込んだ。そのあげくに息子が水を見たらびっくりして、てんかんおこす。先生が、拝みまして「これ上へあげて、元の通りに建てなはれ。すぐ治る。」そして、夜行って車に引き上げて、元の通りに建てたら治った事を私知っています。
これを、仏がたたったと言うたら間違いです。泉先生のお話は、「村木さん、ここぞ。こういう事をしよるのを、見のがしにするというと、その家がかえって運が悪くなる。それだから、間違いという事を知らす為に、むすこが水を見たら、てんかん起こすころの病気をわずらわしてある。ひつけである。そうして、それを元の通りに建てて、お言いわけをして、祖先崇拝する。それができるようになったならば、そこの家は、信仰の上において間違いがない。
ざんげしたから、これで助かるんじゃ。こういう風に神や仏というものは、ひつけはするけれども、決してたたったり、さわったりするものではない。」と言うような事でした。「それを神さんがたたった、仏がたたった、そういうとその仏があとの子々孫々を憎んどるように見えるけれども、そうでない。大事な事を教えてやる為に、ひつけをしたんじゃ。これは勘違いぞ。」と言う事を先生がお話してくれました。いかにもそうじゃと思います。
こういう風に神さん、仏さんに、ご無礼しとるというと、ちょうどさわったり、たたったりしたように見えますけれども、決してそうでないんであって、教えてくれとるのです。道が間違うておる。これはこうしなさい。運がよくなるからという事を教えてくれとるのじゃから、勘違いせん様にしなければいかんという、お話がありました。これもその一つです。
それから、又、神さんへ捧げるものです。差しあげるもの、それを人からもらってきてあげる。これは間違うとると、 泉先生がおっしゃりました。たとえば、その例として言いますと、これは 以前にもお話いたしましたが、ある人がきれいな鶏頭の花を五本持ってきて、「先生これ神様に差し上げて下さい。」「ええ有り難とう。」そうして先生がそれをもろうて、束をほどいて、あっちへやり、こっちへやりして、三本と二本とにより分けたんです。「おばさん、これ二つあんたの方へお返ししとくけん。」「先生どうしたんで。」「いやおばさん、わからんか。私がお返しする訳わからんか。」「わかりません、折角持ってきておるのに。」と言うて、おばさんは、ご気げんがわるい。すると先生がニコニコ笑いながら「おばさん、これはなあ神さんに祭られんのじゃ。」「先生どうしてですか。」「どうしてって、おまえさんとこの畑、細長いでないか。巾が一間ほどであって長い畑でないか。」「そうでございます。」
「そこで、おまはん、鶏頭作ったのう。」「ヘイ作っておりました。」「あんたの隣りも同じように、こまい畑がある。」「そうでございます。」「ところが、おまえさんとこの畑には三本かはえとれへなんだでないか。これお隣りのを、ちよっと失敬して、この中へ一緒に入れてあるけん、お返しよるのだ。」「先生、ようお知りなはっとる。」
「いや知っとるたって、これ神さんがきらうがな。」「先生、それならどうぞ、こんどしまへんけん、おこらいなしてつかなれ。」「ほんなら、折角持ってきとるけんな。」と言うて、それを先生が言い訳をして、神さんに祭った事があります。これは私の目の前で、先生がなさったんで、私はよく知っています。
これが、勘違いという事です。神さんにあげるんならば、お隣りの家へ「ちっと足らんけん、つかはれよ。」というといたら、神さんに届くのです。黙って失敬してきた物を、神さんにあげるという事は間違うとる。これはまあ、勘違いです。そういうような事がございますから、神さんにあげる物は、清浄でなければいかんと言う事が、よくおわかりでしょう。
それからその次に、お話いたしますのは、先生がこないおっしゃったことです。「村木さんよ、皆、銀行へ、よう金を預けるな、通帳につけてもらいよる。」「ヘイ、そないしよりますな。」「神さんやって、預けといたらええのに、皆、神さんに借りよるぜ。」「そうですか、先生。神さんに借るって、どんなんでございますか。」と私が聞いてみますと、先生がニコニコ笑いながらおっしゃるのには、「例えば、神さんへお参りに行くのに、バケツ持っていてお手洗の水を新しくかえる。あるいは、ほうきを持って行って、お庭をはく。あるいは唐ぐわを持っていって、草をそる。こういう事をしてきれいにしといたら、これは神さんが借ったんじゃ。手間を神さまに差し上げたら、神さんはお返しにならんのじゃけれども、帳につけてある。これ神さんに貸したん。ところが中には、神さんに手をたたいて、一生懸命に頼んで『私とこどうも、貧乏で困ります。どうぞ運のええように頼みます。』と、こん限り頼んどいた。頼んだのは借ったんです。神さんが助けるのに借った事になる。それを具合がようなって、手元がうまくいって、運が向いてきたと思うても、神さんの方へ有り難うございますと言って、行く人がない。お陰で助かりました有り難うございます。と神様にお礼を言えばよいのに、知らん顔しておる。これは借りずてになっとる。神様には精一杯貸しときなさい。神さんは借るんすかんから、直ぐ払うんじゃ。折があったら払おう払おうと神さんなしとる。ちょうど銀行でお金を預けて、通帳につけてもろうたんと同じ。銀行と神さんとは違うけれども、たとえたら、そんなもんであって、神様はお返ししようと思って時を見よる。そういう風に、貸したら、あんまり借ったら気の毒な、と神さんがお返しなさる。これがご利益です。ところが、神様へ頼んでおいて助かっとるのに、お礼にいかんのは、これ借りずてになっとる。ここを勘違いせんようにせないかんぜ。」と先生がニコニコ笑いながらお話して下さった事があります。
よく考えてご覧なさい。どうも世の中には、神さまに貸す事が少なくて、借る方が多くありませんか。これは、先生が笑いながらお話しして下さった事です。どうぞ、神様には、精一杯貸すのがよろしい。何でもよろしい。神様に気の毒なほど貸したらよろしい。借るのはかまいませんけれども、借るより、貸す方がよろしい。神様へ貯金するのです。どうも、近頃神様に貯金する人があまりないようでございますが、泉先生は貸すようにせないかんとおっしゃいました。
それから、こんどは、頼めばよいのに、口舌をいう。神様とこへ行ってお参りして、神様、こういう風にして下さいませ。ああいう具合にして下さいませ、と頼むのはかまわんのです。その悪くなって、神さんに頼まんならんようになったのには、訳があるわけです。だから、頼むのはかまいません。こういう具合に頼みます。ああいう具合にたのみますと、頼むのはかまわないけれども、口舌いうのです。「神様、このごろ、うち弱って困るんでございます。だれそれがこなに悪い。」あるいは「こういう具合に、思うとおりにいかんのです。」と口舌をよういいに行きますけれども、頼む事あまりしない。こういうことを先生がおっしゃりました。頼むのには頼み方があるのです。
泉先生はこれも、にこにこ笑いながら、おっしゃったのに、「神さんに頼んだ時には、『神さまどうぞ頼みます、 そのかわり私の手でできる事だけは、村の事でも、何の事でも、いたします。あるいはこうもいたします。』と、いうてお頼みしたことに対する代償です。『代わりに、私こういたします。』とこういう頼み方が一番上手なんだぜ。
代償払う頼み方は一番上手じゃ。」中には、こんな事する人がある。『神さん、どうぞこれ一つ頼みますぜ。金の鳥居、あげますけん。』神さんに金の鳥居建てるというと大変な事じゃと思いますけれども、そうでないのです。
金の鳥居みたような格好した物を、神さんにあげる。そういうのは、代償ではありますけれども、それは何だかおかしいのです。そういう事でなくして「何か自分の手で、かなうことを世の中の為にいたします。神さんの為にいたしますから、こういう風な事を、ひとつ聞いて下さい。」と、こういうのが、ええなあ、と先生がおっしゃいました。 どうぞ、これもお間違いのないように。
ただいま信心するのに、勘違いしておる事をいいましたが、皆さんも、お考えになってごらんなさい。ボツボツそういう間違いをしとります。そういう間違いのないように。どうぞ神さんは決して、こわいのでないのですから、人間をかわいがって下さいよるのですから、おじいでもよろしい。神さんに甘えていってもよろしいんですから。それを間違いないように、どうぞお願いしたいものです。泉先生の教えはこういう訳でございます。
ただいま申したのを、もういっぺん、繰り返して見ますと、わが身に汚れがあるのに、神様に塩払いするという勘違い。その次には、神様が助けてくれて、ひつけしてくれよるのを、たたっとると聞いて、おじる。これも勘違い。
それから神様に差しあげる物を、人からもろうてくるということは間違いだ。自分の力の及ぶ限り、自分の心で、神様の方へ差し上げるというのがよい。これも勘違い。それから神さまに、貸せばよいのに、借りるばかりしとる。これも勘違い。神様に借りるよりも神様に貸す方がほんとうの信仰です。勘違いしとる。それから頼めばよいのに、口舌を言う。口舌は、神様に言わんようにせないかん。お頼みしたら、何でも聞いてくれますから、どんなことでもお頼みする。口舌は言わないように。こういうような五つの事を先生がお話して下さいましたのを、ご参考までに、三五一条に書いてございますから、どうぞ、その積りでご覧下さい。
(昭和三十八年一月三十一日講話)
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第三五二条 「人と神とが別別にかけ離れて暮らしておる場合を凡夫という。人と神とが合うて、一つになって暮らしている人を聖者といってよい。」


人の暮らしというのと、信仰するというのと合うていますか、どうです。あんた方、よくお考えなして下さい。神さんにお参りしよる時の心は、まともになっとるのです。お四国へ行ってもそうでしょう。お四国回りしている間は何もかも、まともにまじめに考えとるのです。それにお参りすんで、わが家で暮らす、村中の人とつき合うと言う時分には、利己主義をやるのです。自分がよかったらええ、人の事あまり考えとらん。そういうような事が、神さんと人間とが離れて、暮らしとるというのです。先生はそうおっしゃる。信仰と人間とが離れたらいかんのじゃ。それをいつも、一つに考えとる人を、聖者と言うんじゃ。神様、そういう人すきなんじゃ、とこういう事、先生がおっしゃいましたが、これはまあ、たとえでございますけれども、今日も、お話しして、大笑いした事でございます。
山に居る、きじという山鳥が、卵をぬくめて、しばの中で子にかえっとる。そして親が子供を大きくしよるうちに 山が焼けるのです。もし山が焼けても、その時、赤ちゃんはまだよう飛ばんのです。外へ連れて行く事ができん。 「ああ困ったことじゃ。」親鳥は、そう思うて、子を両方の羽根で抱えて、火の粉があたらないようにおおっております。そして、親が焼けても、子にけがささんようにというて、守りをしとるという事が、昔からよくお話しに残っておりますが、ほんとうに、きじという鳥は、子を非常に大事に思う。山は焼けても、山鳥は飛ばんというて、歌にさえ、うたわれる位です。これくらい子を、わが身は焼けて死んでも大事にする。その心を、慈悲心というのです。
だれでも、わが身大事にします。わが身大事にするのは慈悲でありません。わが身より外の人を、子であろうが、 隣りの人であろうが、だれであろうがわが身を大事にするように、人に向けてする事を慈悲と言うのです。山鳥は慈悲を持っとります。人間でもそうです。火事がいく。子があぶないといったら、助けにはいります。これは慈悲心です。ところが、自分の子であればそうするけれども、外の事であったらそうしないように見えるのです。
泉先生は、「それはどうもよくない。自分の身をかわいがるごとく、人の方も慈悲をかけないかん。人間ばかりでない。外の生物でも、草木でも、慈悲心をかけておる事が、信仰になるんじゃ。」とおっしゃいました。その事をここに書いとるのでございます。得てして、どうも信仰と日常生活とが、かけ離れとるように見える。そんな事があるように思われます。あんた方、よく考えてごらんなさいな。信仰と、その日、その日の色々な暮らし向きとを別にしとる、これはいかんと先生がおっしゃった。どうぞ、なるべく信仰と生活とは、一緒にして下さい、との先生のお話しです。
(昭和三十八年一月三十一日講話)
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第三五三条 「物を食べる場合に、自分だけの時は、わるい物から先に食べるが、人と入りまじりの時には、良い物から先にとる。この道の誤りがなければ、信仰に入れる。」


これは、よそへ呼ばれて行くと仮定します。そして、何かお菓子のような物を一人毎に、別々に、くれた時分には食べるのは、わるいものから、わるいものから食べる。まあ下品なお話しをいたしますけれども、そら豆です。あれのいったのを、めいめいの前へ、一握りずつくれた時分には、どんなのから食べるかというと、くずから、くずから食べていくのです。ところが、大勢寄っとる所へ一盛り盛ってきて、さあお食べなさいと言うたら、その時分にはどんなのから食べるかというと、良いのから、良いのから食べる。そうでしょう。泉先生は、そういうところへ気をおつけになっとるのです。大勢が入り組んだ時分には、人にええのを取られる。自分の前へ別にくれた時分には、人がとりはしないから、わるいのから食べる。こういう区別をしとる。この区別のないように。いつもええのから、ええのから取ったりせぬように、いつ慈悲心で、人によいのを与えるというような考えでいくのがよろしい。先生が、そういうことをお話しした事があります。
いかにも、私考えて見ますと「なるほどなあ、一ぺんに余計くれた時分には、だれでも良いのから取るな。自分に別にくれた時分には、わるいのから、わるいのから食べる。なるほど。」泉先生は、こうおっしゃるのです。 「それを考えて、いつもわるいのから、わるいのから食べて行く。残り物に福があるというように、あとになるほど良いものが残ってゆくというようにすると、これで信仰ができるんじゃ」と、先生がおっしゃった。昔からよく言うでしょう。残り物に福があるというでしょう。ところが、良いのから取ってごらんなさい。残り物が福になりますか。くずばかり残るでしょう。泉先生、こういう細い所へ気をつけておいでるお方なんです。その日、その日の暮らしに、人の事を思うておいでる証拠です。残り物に福がある。これ一つの信仰でよ、と先生がおっしゃった。いかにも、 その通りでございます。
(昭和三十八年一月三十一日講話)
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第三五四条 「人は目の前の事のみに力を入れて、先のことや人の事には、無頓着にやり通す、神仏に仕える人は、先を見通して目の前の事には迷うてはならぬ。」


こういう事を先生がおっしゃいましたが、私考えて見ますと、なるほどなあ、信仰の無い人は、目の前の事ばかり考えとるなあと思います。これ先でどうなるや言う、見通しをしとりません。こういうところへ先生が気をおつけになったのです。目の前の損じゃ得じゃ言うのでなしに、先でこれどうだろうか、先々になったら、どうだろうかと言う事に、考えをするのが、これがまことの信仰じゃと。たとえてみましょう。目の前だけに力を入れんというのは、仮に雨が降って道がわるい時分に、はだしで歩きょるとしましょうか。そのはだしで歩きょる時分に、ひょっとガラスの破片が、どろの中へ、うまっているのに気がつく。それを踏まなんだらええんでしょう。自分が踏まんと、またいで通ったら、けがせえへんでしょう。これは目の前の事です。ところが、これほんに、私は今見つけたけれども、もし目のうすい人が通って、このガラスのかけらの上へ足がいたら足を切る。これはいかん、と思うて、そのガラスを拾うて、踏まん所へ持って行くでしょう。先の事を考える。たとえてみたら、そういう事です。そんな事、だんだん有ると思います。今、目の前では、何でもないが、それを先の方まで考えて見て、こういう事があってはならんと言うて、それを処理して行くのが、信心になるんです。
先生の信心なさるのは、こういうところから組立てた信心でございますから、立派な信心ができとるのです。これは簡単な事でございますけれども、考えなして、ご覧なさい。非常に大事な事でございます。そういう風に、先生のご信仰というのは、大きいところより、こまかいところへ気をつけとるのです。どうぞ、そういう風にご覧願います。
(昭和三十八年一月三十一日講話)
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第三五五条 「自分の心の主となれ心を主とするなかれ。」


自分の心の主人公になれと言うのです。心を主人としたらいかん、という事なんです。これは、ちょっと迷いやすいところです。よく気をつけてご覧を願いたい。自分がこうしたい、ああしたいと言う心は、どなたでもたくさんあるでしょう。ところがこうしたい、ああしたいという心のままに、したらいかんと言うのです。心の主人になって、そんな事したらいかん、と言うて、止める力がなけりゃいかんというのです。心を主人としたら、欲がかったら、すぐにしますけれども、その外に、心の主人というのがあれば、そらいかん。こらええと、こういうふうに判断する。
すなわち、学校あたりで、よく良心がとがめる、というようなこと言いますが、泉先生は、それをここへ書いたのです。
小説などで二階笠、柳生十兵衛という小説がございますが、あのえらい剣道の先生があります。この人は、武士でございますが、朝起きたら神様の前へいって拍手打って、今日ご主人おいでますか、お留守でございますか、と尋ねるのです。ああ主人居る。主人居る、と言うた時は、外へ出るんじゃそうです。今日主人が留守じゃというたら、もうその日は一切外へ出ない。さむらいが外へ出たら、敵が七人あるという事を昔からよくいいますが、それ位気をつけないかんのです。その主人というのが、すなわち我々今日言うところの神仏の事です。同じわが心でありますけれども、その主人が、おらないとき、心がしたいと思うたら、したいままをやる。それではいかんというのです。
「今日、神仏のお守りを受けられますか、どうですか。」と問い、受けられると言うたら、外を出てもよいと。今日はうけられんというたら、やめないかんと言うのです。朝起きて、神仏の前へいった時分に、静かに、今日は、神さんどうぞよろしくお願いしますと、拝むんと一緒です。どうぞ、そういう風に、自分の心は、したいさっぽうのものでございますから、取りはなしをしないように、まず神仏にお守りを受けてという方がええと、先生がおっしゃったのでございます。
(昭和三十八年一月三十一日講話)
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第三五六条 「形直ければ影おのずから直し。形直からんとすれば心おのずから直からざるべからず。」


形が真っ直ぐであったならば、その影も真っ直ぐです。あなた方、日向で棒を立ててごらんなさい。棒の通りの影が映ります。それにたとえたのです。たとえば、はかまをはいて、紋付の羽織を着て、焼芋かじりながら歩くのは、格好がわるいでしょう。又お説教をするときに、鉢巻ねじあげは、ちょっとおかしいでしょう。こういうようなもので、形が真っ直ぐであったならば、心も自然真っ直ぐになって来る。形を真っ直ぐにしようと思えば、心の方も真っ直ぐにしなければなりません。このような関係があります。
ご承知の人もあると思いますが、泉先生は常に巻きそでを召しとるのです。そして黒い三尺帯をしまして、前だれをしておいでる。そのままで、神様の前で拝んでおいでるが、決してそれは、道楽になしとるんじゃないのです。きちんとなしとるのです。泉先生はそういうような姿でおいでて、すこしもこった様子がありません。威張った事がありません。まことに何をなさっても、確実に、ニコニコと笑うてなさる。これは先生の主義です。それを私は「形直ければ影おのずから直し。」と書いたのでございます。
風儀を乱さない様に、きれいな物着よと言うのではないのです。先生のおっしゃるのは、粗末な物でもきちんと着て、道楽な風をするなという事でございます。そうすると、自然に心が引きしまって来ると、おっしゃったのでございます。いかにもと思います。やはり、道楽に、帯をしりの上で、すぼぬける様にくくって、ほおかむりでもなしてごらんなさいませ。まじめな話が出来ん様になります。どうぞ格好だけは、まじめにきちんとするのがよろしいと先生が教えたのです。
(昭和三十八年二月十五日講話)
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第三五七条 「世の中の出来事は必ず遠い原因と、近い原因との二つがある。この二つの原因を知らず、近い原因のみを見て通る事はあぶない。」


これは、いかにもその通りで、世の中に出来事は、いろいろございますが、その出来事には、その場の原因と、ずっと大昔からの原因とがある訳でございます。常に二つの原因を考えねばなりません。ただ目の前の事ばかりをいうのが、人間の癖でございます。これはよくないと先生がおっしゃる。
たとえば、ここに一例をあげてみましょう。ある所でけんかが出来た。その近いところの原因をいいますと、両方がかちあたった。こういう場合に、「おまはんが、よけんけんじゃ。」「いや、おまはんが、よけんけん。」と、すぐ人間はその場の事を原因として争いをするのです。ところが、これに遠い原因があるのを考えよと、先生がおっしゃるのです。これはどういう事かといいますと、若し、おとなしい同志が道のかわし合いして、かちあったとします。ああすみません、といって、笑うて事がすむのでございます。ところが、それが大きなけんかになるというのは、そのうち、どちらかの人、あるいは二人共が、遠い遠い昔からの理屈屋だからです。何事にも、理屈言うくせがあるのです。人に、すまないと言うた事がない。後へよったことがない。私がある時、後へよるの好かん人に出あったのです。私も悪かったかわかりませんが、「あんた田圃するのに、一人引というのがありますな。」「ヘイございます。」「あれは、 手木を持って後へよるんぞない。」「ヘイ、そうでございます。」といったのです。私は そこで冗談に、その人に 「おっさん、あんたが一人引を引くのは、前へ押して行けへんので。」というと、その人は「私、後へ寄りゃしません。」「そうで。一人引つかうのに後へよらんと、前へ押していって出来ますかいな。」「ええ、出来ますとも、出来る段でごわへん。」こう言うて、後へよらんのです。「それではおっさん、一ぺん、一人引を引いて後へ引張らんと、前へ押して田圃するの見せてもらおうか。」というと、「そらおみせしますわ。」「そんならおっさん、借りて来ますけんな。」といって、私が借りに行った間に、逃げて帰ってしまいました。こんな話があるのでございます。
これは、生まれつき、人と話をして、後へよるのすかんのです。ゆがんでおっても、突き通すというような人です。そういう人がもし、衝突したら、後へよりませんな。あっち、こっちへつきあたるのでけんかになる。それは、そういう以前から、お父さんとか、お母さんとか。あるいはじいさんとか。ばあさんとかいう人に、理屈いうのが好きでおれんたちの人があったのです。そうすると、その子が又理屈いいます。負けぎらいです。あとへよりません。そういう事があるので、「ただ、人が後へよらんからというたところで、その場だけのことを言うな。遠いところの先祖に、そんな人があったから、その人は後へよらんのだ。」と先生が深い意味のことをおっしゃったのでございます。
もう一つ例を申しますと、あの、かにのはうのは、横の方へはうていきます。かにの横ばい。これはご先祖からの習わしでございます。そういうふうに先祖伝来の、くせというものがございます。皆、めいめいに、くせがあるから、そのくせをよく知って、今した事で理屈言うたり、けんかしたりするのはいかんぞと、先生が教えてくれたのです。 親ごが負けぎらいであったら、子が負けぎらいになります。これは正直なものでございます。負けぎらいをよくいうて、けんかする。その場の事だけ言うと、どちらかが悪いに違いありませんけれども、遠い原因からみれば、自分は知らんといよるのです。それだから、そういうときは怒らずに、よけておあげなされと先生が教えたのです。
この三五七条に書いてある事は、遠い遠い原因があるのじゃと、こういう事を先生がおっしゃった。これは前に簡単に例をあげましたけれども、国と国との間もおなじです。今、日本と朝鮮とが問題をおこしております。日本に漁ささんとか、日本の漁船は、この線からはいったらいかんとかいう事を、いうとるのです。日本から行った漁師も、その線からはいりません。遠方の方で漁している。それに、朝鮮の方から日本の漁船を引っつかまえて連れて行くのです。
向こうへ行って、きびしくとがめられるんだそうでございます。これも近い事からいいますと、きめられた線から日本がはいっていたか、どうかということです。近い原因はそうでございますが、しかしよく考えてみますと、あの朝鮮は、ちょっと前に、日本の国であった訳です。それをこんどは、元々通りに朝鮮が独立したのでございますから、朝鮮人から言うなれば、日本へ向いては無理が言いよいのでございます。あの李大統領時分に、随分日本へ無理な事言うたことがあります。なるほどあの人は気の短い人でありますけれども、昔日本に支配されておったからという原因がありますから、向こうも根性悪く言うのでございます。
これは日に日に、おつきあいする上によくある事でございます。近い原因と遠い原因と二つを考えて、どうぞ、腹を立てて怒ったりするな、とこういう事を、先生が教えて下さったのでございます。そういう風に遠い原因の事がありますから、ただ一事の事をつかまえて、悪いとかええとか言うな、こういう先生の深い意味があってのお教えでございます。
(昭和三十八年二月十五日講話)
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第三五八条 「悪人でも本心までけがれておらぬものである。たとえば忠臣蔵を見て、感心せぬ者はないでないか。」


これは、先生が深い意味をこめてお話しなさったのでございます。仏様の前に蓮の花を祭ります。蓮の花は仏さんが非常に、すきなというので造花でこしらえたりして、お供えしておりましょう。あの蓮は、連根を吉野川のようなきれいな砂の中へ植えましたならば、花の咲く蓮でも咲かんようになるのです。きたない、どろの中へ植え込んだら、花が咲きます。そうして、赤なら赤、青なら青、白なら白と、その花は、どろの中から生えたからって決してよごれておりません。実にきれいな花が咲いて、かおりは、ふくいくとした気持のよいかおりを放っています。
「これと同じように、人間がいかに零落しましても、いかに盗みをしようが何をしようが、その本心は汚れておらんというのです。これが仏の教えです。自分のした事が悪い為に、人格は落ちております。いかにも、わるい事をする人がありますけれども、その本心は腐っておらんのじゃ。改心して、改めたならば、立派な人間になれる。とこういう事を仏法では教えております。泉先生はそういう事聞いて「人間は、いかに悪人でも、その人間をみさげてはいかん。
その悪人の裏手に、はきれいな慈悲心があるぞ。決して、ちょうしおろさんようにおつきあいするのがよかろう。」とおっしゃっています。こういう先生の実に恵み深い話から、私が書いたのです。
そのことは、試験をする事が出来るのです。それはある悪い事する人間に、催眠術をかけるのです。催眠術をかけん前には、わしが、どろ棒であるとか、わしはスリであるとか、どこそこで何を盗んだ、とかいう事を隠しとります。いいません。しかしいったん催眠術にかかりますと、ひとつも遠慮がないのです。催眠術をかけて「おまえさんは、こないだやった事をひとつ話してみよ。」と言うと、はばかる所なく、「わしは、この間の夜の十二時ごろに、あそこを通っていたところが、戸口があいとる家があって、こっそりは入ってお金をお借り申した。」こんな事でも、平気でいう。すこしも恥じとりません。これは本心、いわゆる良心がそれを言うのです。警察が悪人を調べるのに、長時間かけます。宵のうちにはなかなか白状しませんが、十二時が鳴る。夜ふけになる。うしみつどきといいますが、一時か二時頃になると白状しとります。これは何かといいますと、人間の心の奥にはどんな悪い事しても、汚れないところ のきれいな魂がある、良心がある。その良心が、ツルツルと言うてしまうのです。
こういう事を私が申すと、そんな事なかなか出来るかいな、とお思いになるお方があるか知りません。しかし人間の心を分解いたしますと、本心と人間心の二つに分けられます。人間の本心、これを仏法の方では、阿頼耶識といい ます。又真如といいます。大我ともいいます。そういう風に心の奥には、汚れないところの、玉のようなきれいな心があるのです。それと人間心の二つがあるのです。そうしてそれを、どういう風に試験するかというと、ここにある人が寝とるといたします。いびきかいてゴウゴウと熟睡しとるのです。その横へいって、その人の悪口を根限り言うのです。怒りそうな悪口を言う。そうして時間が経ちました時分に、「おまはん、さっきによう寝とったな。」「ええ、私よく寝とった。」「あの寝ている時に、何ぞ聞けへなんだで。」「いや、わし寝とったけん、何や知らんわ。」あたりまえです。熟睡しとるから、知ろうはずがない。ところがそこに知っとるものがあるのです。
どうしてそれがわかるかといいますと、その人に催眠術をかける。その時分に「おまはん、さっきに寝とったんだが、寝とった時にその横で二人が話ししよったのを、おまはん、言うてみなさい。」と言いますと、色々言い出すのです。そして自分の事を、この人というのです。この人が寝とる時分に、あんたとあんたの二人がこんな話しをしたと言うて、ぼろくそに言うた悪口を、話しを、いたします。よその人のように言います。これが仏法でいうとるところの、 阿頼耶識というのです。第八識ともいいますが、そういう立派な魂があるのです。だから、悪い事しよる者でも、悔悟して、そうしてざんげし、み仏の教えに従うて、仏法にはいった時分には、立派な人間になって、み仏や神さんの力を借って、人を助ける事が出来とるのです。玉というものは汚れません。如意宝珠ともいいます。どんな悪人でも、本心は汚れるものではない。人間の心が汚れとるのです。それで人格が低く見えるけれども、決して、その人の腹の中心の本心は汚れるものでないから、調子をおろしてはいかんぞ、と言う事を先生がおっしゃった。いかにもその通りでございます。
あの多宝塔の上に建ててあるところの丸い玉、あれをたとえて如意宝珠と言うのでございます。あの玉のような立派なものが人間の心の内にあるのじゃ。その如意宝珠があらわれたら、いかなる事で知っておる。又出来もする。
こういう為に、人間には、如意の宝珠の玉を、生まれながらにしてくれてある。お釈迦様がおっしゃったのは、これなのです。どの位、力があるんかといいますと、その お話をすれば、随分たくさんの事例がございますけれども、ひとつお話申し上げます。
ここに砂糖を粉にし、焼塩を粉にして置いてあります。両方真っ白な粉ですから、それを紙の上へ置いて、同じ量をおいてあったら、これどちらがどれやらわかりません。なめたら判ります。砂糖は甘い、塩は辛い。におうてみても、塩はにおいがない、砂糖は砂糖くさい。しかし距離をおいて、これどちらかいうてみい、といったら判らんでしょう。そこで試験をするのです。焼塩の粉をたくさんこしらえて紙につつむのです。又、白砂糖の粉をたくさんこしらえて紙に包むのです。丸い包んだ紙を、そこへ盛り上げるのです。そうしてある人に催眠術をかけます。その人、太郎さんとしましょうか。「太郎さん、ここに焼塩と砂糖を包んだのを盛りあげてある。これをにおったり、なめたりせずしてわけて下さい。そうしてにおうたらいかんから、おまえさんの鼻をくくらしてもらう。」鼻と目を手拭でくくって、わけてそういいましたら、その人が「分ける。」と言うて、遠方から手を出して、においもせず、見もせず、それを右と左に分けます。わけてあるのを見てみますと、ちょっとも間違いがないのです。砂糖は砂糖ばかり、塩は塩ばかり、きれいに分けます。これだれが分けたのでしょう。無論その人は、催眠が解けたら、もとのよごれた人間ですから、わかるはずがない。これ位おどろくほどの力は、どこにあるかといいますと、その人間の中にある如意宝珠、すなわち魂です。その力はだれにでもあるのですが、人間根性をもって、慾にからまれていますから、その欲の為に、生まれながらにして、神仏からくれてある如意宝珠の魂を、よう使わないのです。それだからして、なめてみなわからん。見てみなわからん。実に人間そのままの力しかあらわれていません。隠れとる魂は、これ位の力があるのでございます。
その如意宝珠の力をみがき出すのは、何かと言いますと、信仰でございます。常々欲を離して、慈悲の生活をすれば、自然とそれが出て来るのです。催眠術をかけなくても、出てくるのです。催眠術をかけてもらっても、かけたその場だけしか使えませんから駄目です。それを信仰の方でみがき出したならば、ただ今の話しよるように実に神仏の力を出す事が出来るのです。
それなら、その欲と言うのは、何ならという事になりますと、欲と言うのは人間心です。こうしたい、ああしたいという、その欲心がいけないのです。しかしながら、ここに欲心と申したところで悪いという意味でないのです。今五欲と言うことを簡単に申します。まず一つは食いたいと言う欲です。腹が減ったら食いたい。しかしそれも、普通なみならば、よいのですが、食うて、食うて、食いまくりたいというといやらしいです。人間根性が表われてきます。それからこんどは寝たい。寝るのも、普通寝ればよろしいが、仕事せずに、なんぼでも寝たいと言うのは、欲心が強い。寝る欲が強いのです。それからもうひとつ、名誉心といいまして、人にえらいと言うてもらいたい。えらもんになりたい。これも欲でございます。えらもんになりたかったら、えらい事したらよいのです。そうしないで自慢のたらたら言うのです。これは欲心があるから自慢言うのです。人にほめてもらおうとしとるのです。悪い根性です。これはない人ありません。すぐに自慢話しがしたうなって来る。これはいけないのです。それからこんどは、財欲(物俗)と言いまして物を沢山集めたいのです。一円よりも二円、二円より五円、五円より十円と言うふうに、いくら、ためても、ためてもこれでよいと言わないのです。人間の欲は、ほんとを言えば、暮らしに不自由が無かったらよいのでしょう。不自由がないのに、ためたいと言う欲があるのです。ただ今四つ言いました。食欲、睡眠欲、名誉欲、物欲、もう一つ、これは性欲と言います。男女の欲でございます。これを加えて五欲といいます。これらが最も人間の立派な力のある玉を腐らしてしまうのです。力をにぶらしてしまうのです。そんなら、その玉は消えたのかと言うと、消えとりません。
この三五八条の悪人でも本心は腐っとらんのじゃから、ちょうしおろすなとは、ここなんです。「如意宝珠の玉は決して、欲があるからといって腐るものでない。悪かったとざんげして悔悟すれば、すぐに立派なものになれる。
そこで、そういう者に調子おろすなよ。どろの中で、きれいな花を咲かすところのあの蓮は、泥がしみ込んどらん。
それと同様に、人間の心の内には五欲と言う、きたない根性があるのに、それに、泌まんと立派な玉がうらに隠れとるのじゃ。これをみがき出すのが信仰じゃ。仏さんに蓮の花を供えるのは、そういう訳じゃ。」と、先生が力を入れて私に話しをしてくれたのでございます。誠に先生のお話しに、ありがたさがあるのはここなんでございます。
先生はどんな悪人でも憎みません。どうして憎まんかといいますと、その如意宝珠と言う立派な玉をもろうとるのに、五欲が強い為に隠れとる、ふたせられとる。その向こうさんの本心を思うて、ちょうしおろしてはならん、と先生がおっしゃったのには、実に深い意味があると思います。このようにして先生は、ただ神様を拝んだり、荒行したりするんじゃなくして、こういう心の行をなさっとればこそ、今日神様として立派におなりなさっとるのは、こういう訳なのです。皆さんも、同じように、この如意の宝珠をもろうておいでるからして、どうぞ、ともどもにみがき出していただきたいと思います。
(昭和三十八年二月十五日講話)
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第三五九条 「人は自分で値うちを付けたがるものであるが、価値というものは、人から付けるのが本当である。神や仏は、ご自分は価値をかくしておられるが、人を助ける時に、止むなくあらわれるのである。」


この価値という事、物の値打ちという事は、非常にむつかしい問題でございますが、自分が値打ちをつけるという事は、早く言えば慢心です。自慢です。それは人が買うてくれません。価値というものは、そのものに価値があろうが無かろうが、人がつけるのです。
例えば、ここに、千利休がお茶に使うた茶せんが一本ある。竹でこしらえてある。もしこれを、それそのものの価値から言うのであれば、たきぎにしたとても一厘の値打ちもないのでございましょう。しかし、これを千利休が使うたとしたら、好む人からいうなれば、何万円もするのです。価値と言うのは、そういう物でございますから、ありませずして、人がこれはこうだ、あれはああだと言って、理由をつけるので、値打が出て来るのです。
そこで昔の開山祖師です。そういう祖師級の方が、どういう風に、言われとるかと言う事を履歴から見てみますと、どの開山の祖師でも、わしは非人の子であると言うとります。恐れ多いけれども、お大師さんでも、身は旃陀羅の子と仰せられとります。旃陀羅というのは非人と言う事です。これを見ても、ご自分は低くおっしゃっておるけれども 人が高く買う。という事がわかるでございましょう。何だか自分の仕事や、あるいは力を人の前で広げまして、その光を人の方から高く買ってもらおうとしとる事がありますけれども、それは自分が宣伝するほど下るのです。お大師さんのごとき身は、旃陀羅の子とおっしゃったところで、人がそれを許しません。人が高いところにさし上げるのでございます。これがほんとうの価値でございます。これは、世の中の人と交際なさった上で、どうも、自分は低くおれよ、そうしないと値打ちというものが下がるぞ、という泉先生の教えでございます。そして私が聞いたのを、ここに書いたものです。
先生は、いかにおっしゃったかと言いますと、「村木さんよ、私は出放題いのこけ徳利を言うとるのに、それに皆さんが有り難い有り難いとおっしゃって、それを聞いておいでる。私が有り難いかなあ村木さんよ。」とおっしゃった事があります。これを見ても、いかに先生が、ご自分では価値のあるもんだと思うておいでんのがよくわかります。
しかし、そのお話しを聞いたところの人は、これが千金の値打ちがあるので、ああ、もっ体ないと感じる。そこに先生の光があるのです。どなたでも、えらい人は皆それでございます。
この三五九条は、先生がどうぞ、世の中の人と交際する上に、あるいは、神さん仏さんの事を信じて信仰する上は、自分は出来るだけ低くおれ、そうすると値打ちがあるぞとおっしゃった事なんです。
(昭和三十八年二月二十八日講話)
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第三六〇条 「本当の自分の力を知る事はなかなかむずかしい事で、大ていの人は、自分のうわつらだけの力しか知らぬ。そのようなお粗末なものではない。生まれながら 神や仏になれる玉は恵まれて居る。」


だれでも、まず小さい時は、おかあさんに育てられて、幼稚園、小学校を出て、そうして世の中へ出るのでございますが、その戸籍についておる何の何兵衛というところの、その個人という者は、人間の力しかないのです。言い換えますと、小学校出たならば、小学校だけの話、文字もそう、又仕事もそう。ところが「そんなものでないぜ、村木さん。」と先生がおっしゃったのです。と言うのは、ご自分が、かなさえも知らんお方です。しかるに、百里隔てていようと、千里離れとろうと、その遠方の事が先生はおわかりになる。「えらいもんだな、ひどいもんだな、神仏に力を借りたならば。ああ、人間それだけの値打ちと、神仏にお陰をいただいたのと、天地の違いがある。」とご自分がおっしゃったのです。何げなくおっしゃった。先生は、自慢でおっしゃったのではないのです。ご自分が、ご自分の力にあきれて、神さんの前で感謝したお言葉であったのです。それを私が、三六〇条に書いたのでございます。
これを、わかりよくいうてみましょう。人の目玉は写真の機械のように、物が映るのでございますが、人間の目は、 とても五里先は見えぬでしょう。ここから、徳島の城山の上の天気の信号の旗があがっとるの、何があがるかわかる人 あまりないだろうと思います。みえるのは、まず二里かそこらです。わしの目はよく見えるそうです。空を飛ぶわし、 あれなんか十里も見えるそうでございます。そらそうでしょう。高い空から見ていて、下のえを探すんですから、それくらいの目が必要でしょう。しかし不思議な事には、人間の性根を除いてしもうて、第八識、阿頼耶識、真如ともいいますが、もしそれが表われた時分には、どういう力がはたらくかと言う事です。
それはこういう事があったのです。古いお話ですが、お大師様が高野の山奥でおいでた時に、京都の嵯峨野が火事だとおっしゃって、そうして手洗鉢の水をしゃくですくって、ぱっとおかけになった。不思議やそれが大雨になったと言う事なのでございます。それで火は消えました。
これは昔の事で、ほど遠い事ですが、近い事で申すならば、泉先生から私が直接お話しを聞いた事なんでございますが、先生のお伴をして、生駒さんへお参りするお約束をしたのです。讃岐の津田で、「先生、私一ぺん、阿波へ帰りまして、岡崎で今晚船に乗ります。それで先生は津田からお召し下さったら会う事にいたします。」と言うて、私は帰ったのでございます。ところが限った用ができまして、どうしても私がその晩船に乗れん事が出来たのです。それと、もう一つは私の左の足の太ももについ小さいもの(腫物)ができ、それがいたみ、熱が出て、また寒くもあったので、どうしても行けません。先生は津田で船にお召しになる前に、聖天さんの前で、「ただ今から生駒さんへお参りにまいります。道で村木さんが岡崎から乗ってくれる事でございますから、行って参ります。」「おお、行ってこいよ。しかし村木は、こんど足に豆粒が出来とるけん。来んわ、来んわ。」とおっしゃった事を、その津田で一緒に先生のお供していった人から、あとでききました。が、ついに、私はその晩、岡崎から乗りませんでした。先生がおっしゃる通り、足に豆粒が出来て、船に乗れなかったのです。先生の目は、津田から段関まで見えるのです。これはまあ、近い話でございますが、仮にこれが何百里あったとて先生は、わかるのでございます。これは、おそれ多いけれども、肉の目玉の力ではありません。心の目でございます。先生には、そういう眼力があった訳でございます。この先生の心の力という事をお話しすれば、いくらでもございます。
ところが、だれでも人は、自分の力は、ほとんど知りません。お米の入っとる俵をかつげば、ます四斗はいっていたら、けっこかつぐ。あるいは道を走ったら一時間に四里はけっこ走るとか、五里を走るとか、まあこれ位のものでありまして、ほんとうの力というものは、誠に知らんものでございます。これは神仏の力を借りるというまではいかずして一生懸命になったところの力なのです。
ある所に火事がいきまして、火事で焼いてしまうたらつまらんと言うので、そこのご主人が、沢山の米俵を隣の庭へ運んでおいた。そうして火がおさまってもって帰って来るときに、これだれが持って来たんぞ、というのです。 その人は一人でようかつがんのです。もう一俵を、かつぎかねる力しかないのです。ところがそら近所に火事だというた時に、ひょうたんのごとく軽がると、かついで十何俵の俵を隣の庭へ持ってきたのです。お礼を言うて、持って帰る時にようかつがなんだ、という事です。その軽く持って行ったのは、だれが持っていたでしょうか。すなわち、その人は、そんな力があるのを知らんのです。一生懸命になったら、そんな力があるかと言う事を知らなんだのです。その事を 三六〇条に書いたのです。ほんとうの自分の力というものは、まだまだ何倍の力が出る。耳の聞える力にしても、目の力にしても、あるいは肉体の力にしても、随分ひどい何倍かの力が出るものです。これを宗教では、神の力を借ると言うのです。その力を借りた場合には、驚くべき力が出るのでございます。
先生は、このお話しの事については、随分ご経験があるのでございます。先生はこの生駒さんへ、いつも夜お参りになるそうでございます。今は電燈がたくさんついていますけれども、先生がおいでになった時は、そう電燈もありません。暗いのです。その坂道をのぼっていたところが、先生のつい横の道端に坐って、パチパチと手をたたいて拝む人がある。先生はそれをご覧になって、どうやらこの人わしを拝んで、わしの方へ向いていると思うて、「おばさん、 あんた、どこをお拝みになっとんですか。」と言うと「あら、あんた人間ですか。」「おばさんどうしたんですか。」 「いやもう、あんたに、ご光がさいとったけん、こら神様がお通りじゃと思って、今手をたたいたのです。」「ああ、 こりゃもう有り難う。私は今、生駒さんへお参りに行きよるんでね、おばさんよ。」と言って、その人に挨拶をした事があるそうです。これなども、先生ご自身、人間の先生、人間泉庄太郎先生は、体が光る人でもありません。そんなご光のさす人でもありませんが、心に偉大なる力を持っておいでる為に、生駒さんの坂では、体からご光がさして、それを、お参りしよるおばさんがびっくりして、道ばたにすわって拝んだのです。
自分の力を、わがでに知っとるという事は、誠に無いのでございます。大勢さんの中には、お知りになっとる人もございましょうが、一生懸命になった時分には、驚くべき力が出るもんでございます。これを泉先生がおっしゃったんでございます。どうぞ人間の五尺の体の力は、たいしたものではない。神仏の力を借りなさいと言う事を、私にお話しのあったのを書いたのでございます。
(昭和三十八年二月二十八日講話)
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