281~290条

TOP

第二八二条へ 第二八三条へ 第二八四条へ 第二八五条へ 第二八六条へ  第二八七条へ 第二八八条へ 第二八九条へ 第二九〇条へ

第二八一条「一日のうち、人にでも、木にでも、草にでも、土にでも、水にでも、お礼を言いたい心が出来た者は、神にかわいがられる。」


これは、私非常に意味が深い事であると思うのです。有り難い。あなた方、考えてご覧なさい。今日一日に、有り難いと思うた事が、何べん有るか。こう日が暮れて考えてご覧なさい。この信仰のお陰の厚い人ほど、有り難いと思う事が多いのです。口で有り難いとおっしゃらいでも、良いのですが、ああ、これは結構な事だと心で思うのです。
その数が多いほど、神様のかわいい子だというのです。まあ、そうでございましょう。この木を見ても、草を見ても、あの草や木の中に含まれておる所の薬分、これで生物が助かるようになっとるのです。
現在は非常に、良い薬が出来まして、人が沢山助かっとります。それで途中で倒れる人が無くなった為に、人の寿命が、十年も延びたと言っています。人生は僅か五十年と昔から言いまして、子供の時、無くなる、年寄って無くなる。その平均が五十年位であったそうでございますけれども、今日では、六十を越しとる訳です。それ何によるかといいますと、日常生活の心掛けにもよりますが、非常に良い薬が出来たからです。あのペニシリンという薬がございます。これは非常にきつい薬で、またよくきく薬です。あぶない薬ではございますけれども、人がよく助かっているのです。ペニシリンは何からつくるのかといいますと、しいたけや、ああいう物の、腐った物から、あれがよくできるのじゃそうです。カビの中に含まれている。こういう事を考えますと、草にでも、木にでも、もう人が助かるような物が含まれとる訳です。中には、非常に毒になるのが有りますけれども、それは使い方によって毒になるのです。
それを薬に使うた場合には、それが無くては治らんというようなものもあります。たとえば、今日、医者が手術をやります。あの手術する時分に注射します。するともう体中全体が痛いのがわからんようになるのです。まひします。
しびれ薬というのは、草から採ったものです。毒では有りますけれども、切ったり刻んだりする、あの痛い目を、このまひささんとやると、痛い痛いと思うて心臓まひして死んでしまうことがあるんです。それがしびれておるから知らん間にやってしまう、それで助かる。知らんと助かる。こう言う事になるので、いかにも有り難いと思いませんか。ほんとうに草を見ても、木を見ても、拝みとうなる気がします。そういうのが、自然に出来とるわけで、人間が助かる訳です。
つぎにこの土、あるいは水です。土と言った所で、元々一旦沸いて火になったものです。それが腐って出来たのが土でございます。ところが、土というのが無かったならば、草は、はえません。米も作れません。まあ今、地神様として これを、お祭りしてございますが、いかにも有り難うございますと、土地へ向いてお辞儀をしとるのが地神さんです。
地神さんという神さんが有ったのではございません。すべての物をはやし、すべての物を育て、そうして生物の我々が助かる。この元は、土地の力である。有り難いと祭ったのが地神さんです。
こういう風に、泉先生は、何にでも有り難いと思う数が多かったらしいです、泉先生は。それであんた方も、この三宝会でご信仰に入っておられる方々ですから、いずれご自分でに、ああ有難かった有難かったとお思いなさる事が、一日の中に何回も有ろうかと思います。この数が多いほど、信仰がよく進んで来るのです。これは泉先生のご経験の話を、私が書いたのでございます。
どうぞ、有り難い有り難いというような事を、お思いになる数が多い事を私は望みます。そういう有り難いと思う事が多い位の方は、怒る事が少のうございます。いつも喜んでおいでる人に多いのです。「笑う門には、福来たる」と昔から言いますが、笑っていると福が来るという訳ではございません。つまり、うれしい感謝です。感謝の心で暮らしておると、すべてがええぞ、という教えです。笑う門には福来たる。どうぞたとえつらい事が有りましても、そのつらい事をそういう人は有り難い方へ、考え直してしまうのです。
ある偉い人がこういう事をおっしゃっております。もし人間につらいつらいと言うけれども、そのつらい中で、一番つらいのは何ぞ、というと、死ぬということです。けれども、その死ぬという事が無いと、どんなになると思うか。死ぬという事が無いのであると、今度生まれるという事が無い様になるのです。死ぬから、生まれるのです。死なない。
だから生まれません。死と生とは同じものなのです。まあ仮にそういうむつかしい哲学問題は、言わぬといたしましても、死なんというのであったら、もうそれこそどんなにしても、死なんのですから働きません。もう死なない
為に家もいらん、働きもいらぬ。そうなって来ると、もう食わなくてもよい。こうなって来ると、もう丸っきり、人間というのは零落してしもうて、虫けら同然の性根になってしまうと私は思います。死ぬという事が有るが為に、勉強もしい、色々な仕事もしていくのでございます。死というのが無いのであったら、もう仕事しないようになります。
道楽者ばかりになります。そうなって来ると、もう目の前に地獄がはっきり現われて来ると思います。こういう風に一番恐れている所の死そのものさえも、ああ死というものが有るからこそ、生物が救われるのです。
こういう風に感謝に替られる訳でございますから、まして他の事は、どんな事が有りましても、これは感謝に替えられぬ事はないはずです。ことに我々がたすかりつつある状態を考えますと、有り難い有り難いと思う事が数沢山出来るはずです。泉先生のご信仰振りは、何でも有り難い、有りがたいという訳です。これは誠にささいな事のようでございますけれども、いかなる方でも、目が覚めて、寝るまでの間には、有り難い事は沢山有るはずでございますから、どうぞ有難いという思いが、多くなるように私はお勧めしたいと思います。
(昭和三十七年二月十五日講話)
TOPへ

第二八二条 「差別は、地獄の第一歩、平等は、極楽の道しるべ。


ちょうど今、二八一条で申した様に、考える事そのものが、直ぐに、早、極楽にでも地獄にでもなるのです。有り難いと思うと、これは極楽でございます。有り難うないと思うと、もう何もかも有難うないようになります。すると地獄です。そこで泉先生は、こういう事おっしゃっとるのです。差別、差別というのは、ええとか悪いとか、うれしいとか、つらいとか、重いとか、堅いとか、高いとか、低いとか、この区別しとるのを、差別と言います。何でもかんでも、差別を付けるのは、これは地獄の道入りじゃ。先生はそうおっしゃったのです。ここ簡単な様でございますけれども、よう考えてみますと、そうでございます。
たとえば、あしこは分限者じゃ、家は貧乏じゃ。とこう差別すると、貧乏というのは喜べんようになって来るのです。仮に、競争心が有りますから、あしこに負けんようにやる、競争する心、すなわち争う心、そうなって来ると 今度は、人とのすれ合いが出来るのです。争う恨性の強い者は、必ず敵が出来ます。世の中の人とウマが合わん。 自分一人が良かったらええんじゃというのに、近うなって来るんです。そうなって来ると、地獄の第一歩でございます。泉先生が、差別を付けたら、地獄の第一歩とおっしゃったのは、味のある言葉でございます。
平等は、極楽の道しるべ、と又おっしゃったのでございますが、平等というのは、どんなのかと申しますと、区別せんのです。たとえばお遍路さんが通っている。ああ、この寒いのに、たびもはかんと震えつつ通りすぎる。かわいそうになあとこう思うて、自分もあのような身であったらつらいのにというので、ここに恵みというのが出来て来るのです。平等というのは、向こうと同じじゃと言うのです。 泉先生はいつも、拝みなさる時分に、この平等が表われとるのです。
ある時、私は泉先生所のお座敷で、讃岐の人が拝んでもらっているその横に居りましたのですが、その拝んでもらっている人は、ご飯を食べないのです。これは以前にもお話し申しましたが、たもとへ、ねぎを一杯入れておるのです。貝がらも入れとるのです。そして、貝がらをガリガリと、気持の悪い貝がらをガリガリかんで、ねぶかを食べる。気違いです。その人をお母さんが連れてきて、拝んでもらっている。先生は、まあ帰命天等と拝みなさった後で「おばさんよ。よくお聞きよ。」とそう言うと、先生の声が細い声になるのです。今度、先生がどんなにおっしゃるかというと、「先生、私は犬の子でございます。」と、こう言うのです。泉先生に犬の子が話しをしとるような形になって、先生が犬の子になるのです。「この間の土用干しに、この人の家の庭でお麦を沢山干して居りました。そこへ、私が走り込んで行ってお麦の中へおしっこしたら、おっさんにしかられて棒でたたいて殺されました。」と言うのです。細い声で、先生はおっしゃる。すなわち、先生が犬と平等になっておい出るのです。これは、泉先生に限りません。ものに取りつかれると、自分の考えでないことを思わされたり、言わされたりする事が有るのです。
これ平等なのです。平等、向こうと平等になるという事になりますと、これは極楽の道しるベじゃと先生がおっしゃったのは、ここにあるのです。先生は、かわいそうにと思ったら、その人になってしまうのです。それ位、慈悲心が深い為に、ああいう立派なご人格が出来たのでございますから、差別の心を使うと地獄へ落ち込んでしまう。
平等の心を使うと、極楽の道しるべじゃと、こういう先生は大きな問題をおっしゃった事があるのです。それを私が、書いたのでございますが、これをよくあなたがお考えなしてご覧なさい。これは人のもの、これはわがもの、わがもの大事にしますけれども、人のもの一ツも大事にしません。これは差別でございます。これは、信仰のない人によくあります。自分の物使う時には、誠にケチケチとして大事に使うが、人の物は、大切にしない。これは差別しているのです。それで、偉い人になりますと、人の物もわが物も、同じであるというので、自分の物扱うごとく、人の物も大事に扱う。これが平等なのです。どうぞ、こういう例をあげれば、沢山有ると思いますが、どうぞあなた方がお考えになって、人と自分との区別せんように、何事でも自分の事のごとく人の事を扱う。平等の暮らしに入ると、 いつの間にか家の運が良くなって、そうして神様のお陰を受けやすくなる。こういう事を、先生が教えておいでるのですから、この差別というのと、平等と云うのが正反対ですから、どうぞ、これをよくお調べになってもらいたいと思うのです。すべて差別の心から悪い運が出来て来るのです。これは、人のもの、これはうちのもの、子供でも、あれは他の子、これはうちの子、こういう具合になるのです。これは地獄になりやすいと先生は言うのです。そうでしょう。あなた方お考えになるとわかるでしょう。自分も他人も同じであるという扱いにすると、いつの間にか、それが信仰に合うて来るのです。
どうぞ、そういう風に、二八二条は簡単に差別と平等と書いてございますけれども、よく味わえば、ほんとに有り難い事を、先生がおっしゃってくれとるのでございます。
(昭和三十七年二月十五日講話)
TOPへ

第二八三条 「どのような信仰をしている人でも、悪口言うてはならぬばかりでなく、もし、笑いたいような心ができたら、自分も神の園から遠く離れている。謹まねばならぬことである。


信仰には、色々種類がございまして、手を振ったり、足を振ったり、踊る信仰があるのです。新聞に出ていましたが踊る宗教と書いてありました。又歌、歌うように言うて拝む宗教もあります。それから、この体を、妙に動かし回って手を振り回って、ちょう度、踊るような事して拝んでいる人もあります。けれども、どのような事をしていても、悪口言うといかんと言うのです。先生は「悪口言うたらいかんばかりでなしに、そういう事が笑いとうなったならば自分も神様からきらわれとると思え。」とこう言うのです。なるほど、考えてみますと、手を振ったり、足を振ったり、踊り回ったりする事は、あまりかっこうのええものではございません。しかし、それは、一口で言いますと、自分というのを忘れてしまって、つられとるのです。その人の信仰の種類によりまして、考え方によりましたら、そういう風になるのでございます。
目、耳、鼻、口、体、心と六ツが六根と言いますが、六根のどこぞへ信仰が現われて来るのでございまして、そういう踊ったりしている人は、その人の目の前へ、あるいは神様仏さんが出て来て居るのかも知りません。そういう事は考え方によりますと、一寸おかしいのですけれども、一口で言うならば、自分というのを忘れて、神さんとピタッと一緒になっとるという気持で、しているのでございますから、笑うたらいけませんと先生は、これをよくおっしゃったのです。笑うてはならぬ。皆自分を忘れて神さんに使うてもらっているのである。自分がもし、あんなに手を振りだしたりした時に、かっこうが悪うて人が笑ったりするといかんと思ったら、どうしたらええかと言うのです。
自分が見てかっこうが悪い。これではかえって、神さんにご無礼である。こう思った時分には、どうぞ静かにお教えを願いますと言って、神さまに頼めとおっしゃるのです。すると、神様の方が遠慮してくれるのです。
これはあんた方経験した事があると思います。よく有るのです。一番最初、どういう風に、現われるかと言いますと、手を振るのがよくあるのです。手を振ります。体を動かします。あるいは、ひざ坊主で坐っとっても、飛び飛びします。これ何も悪い事ないのです。自分というのが、うすうに消えて来ると必ず動くものなのです。それから、それは外から見ると、手を振ったり、派手ですが、あの人、気が違うとるのかいな、のぼってしもうとるのかいなと人が言います。そういう時分には、「どうぞ神さん、人が笑うたら、あんたに失礼いたしますから、どうぞ、静かにお教えを願います。」と言うと、静かにしてくれますから、そういう時分には、自分が頼んだら良いんじゃと、人がもし、しよる時分には、笑うたらいかん。こういう泉先生のお教えなのです。これはよくある事でしょう。あんた方、 経験があると思います。
これは、経験のない人にはわかりません。拝んでいると、耳の所へ持ってきて人の声が聞こえるのです。何とかいう声が聞こえて来る。あるいは、鐘の音がする。又目に見えるのは、ご幣が前へ降って来たとか、あるいは、有り難そうな衣を着た方が出ておいでたとか、あるいは又、五色の雲に乗って飛んでおいでるとか、そんなのが目に映る事が有るのですけれども、それは人にはわかりません。人にわかりませんから、構いませんけれども、口に出る場合です。言葉に出る時分に、自分が言おうと思わんのに言葉に出るのです。その時分には人が笑うたりします。修行が出来ますと、人が笑うような事言いはしませんけれども、最初は色んなおかしいような事言うたりもいたしますから、どうぞ、そういう 時分には、人がしている時分には笑わないように、自分がもしなった 時分には、私は、構いません。有り難いように思うのですけれども、人がもし、笑うたらあなたにご無礼いたしますから、どうぞ人の笑わんようにお教えを願います。こう頼めと、先生はおっしゃいました。これは、ええ事です。
この二八三条はよく有りますからどうぞお間違いのないように願います。
(昭和三十七年二月十五日講話)
TOPへ

第二八四条 「広い目で見れば、人は皆、それぞれに、いろいろのふもとの道から山の上へ登っているようなもので、登り方がへたであっても見下げるな。じょうずな人を見習え。出来るなら親切に導いてあげよ。


ちょうど、信仰は、たとえてみたら、山の上に神様がおいでるとしたら、そこへ山のふもとから登って行くようなものです。楽な道を登って行く人も有れば、又がけの所を登って行く人も有り、バラが沢山有って、なかなか登れないような所を登って行く人も有る。そうでしょう。山登って行くのですから、登る方の口によりましたならば、相当難儀をすると思います。その難儀をするのは、それは何かと申しますと、その方が生まれて来る前のご先祖や、今のその因縁によって、難儀をせなならんような所へ生まれて来ておいでるのです。そんな人が信仰に入っておいでるのです。そうするとなかなか信仰が進みませんけれども、それが悪いのでないのであって、そのいかなバラが有る道でも、バラがきしもってでも行けば、山の上へ行ける。すなわち、神仏のお陰を充分受けられるのでございます。
たとえ人が信仰のみちにどんなに難儀していてもけいべつしてはいけません。私は折々聞くのでございます。「うちは、もう神様仏様拝んだ事ないんじゃ。隣の人は根限り、神様ああやって拝み回りよる。それに拍子が悪い」
そんな事言うて、自慢している人を聞いた事ございますが、それは、ちょうど楽な広い道を行きよるようなものです。
しかし、そういう人は、山の上へ向いて行きよるやら、下へ向いて行きよるやらわかりません。たとえ、道が難儀でありましても山の上へ向いて、バラがきしながらでも、行きょる方の人が上です。長い目で見ると、はっきりわかって来るのです。三十年か、四十年たつうちには、どちらが良いかという事は、わかるのです。ただ短い間を見ると、信仰してかえって難儀する。信仰せんのに楽なとこういう人もありますけれども、それは一時の短い間の事ですから、どうぞ、そういうお間違いのないように。たとえ難儀しながらでも、山の上へ根よう進んでおいでる方は必ず、上の上まで行けるのでございますから、人が難儀していても、笑わんようにという先生の教えでございます。
(昭和三十七年二月十五日講話)
TOPへ

第二八五条 「人の葬式に会えば、一礼せねばならぬ。人の世の修行がすんで今帰っているのである。


しばしば見受けるのでございますが、途中で、葬式に会いますと、だんだんその道を避けて、ほかの道へ逃げて行く人もあるし、あるいは、横向きになって知らん顔して行く人もある。まさか、つばをはくような事なさらんと思いますけれども、まあ、大体において、きらうというような傾向が有るのでございます。泉先生は、こういう事おっしゃるのです。「人がこの世に生まれたならば、必ず、人間の任務を果たすお仕事をする。どんなお人でも、仕事を果たしておいでるのです。そうして、その仕事が済んで、今卒業して、向こうへお帰りよるんだ。だからたとえ、どの国の人か知らなくても、葬式に会うた場合にはご苦労でございました。というあいさつをするのが本当だ。」こう先生はおっしゃいました。なるほど考えてみますと、決してきらうべきものでないので、「お世話になりました。」というあいさつが本当でございます。
先生は、いつも帽子をあまり召しませんから、そのまま心の内で挨拶なさって、お辞儀なしていました。まあせめて、通りかわせに、帽子位は取ってお辞儀をするのがよいと思います。これは、泉先生が、やかましくおっしゃったことです。祭って有る神仏と、今人間を終えて、神仏になりだちですから、それをきらうという事は信仰の上で合わんと。なるほど先生のおっしゃる通りでございます。どうぞ、そういう事に、先生のお話が有りましたのですから、なさる方がええと思います。
(昭和三十七年二月二十八日講話)
TOPへ

第二八六条 「働きは、人間最高の天職。まじめは、開運の指針。


こういう事を、先生がいつも御念頭に置いておられたのでございます。ある人がここへ生まれて来る場合、無論任務とか、目的とかは自分自身では知りません。ただ生んでくれた為に、暮らしよるんだ位の事言いますけれども、しかし、これお互いに親や祖先がして来た用事を、又、子が受け継いでする。子は又孫が又受け継いでする。こうして、順々に受け継ぎ受け継ぎして暮らして行くのでございますが、まあ、考えてみると、出て来た人から言うならば、そら目的が有って出て来たんではない事は、わかっております。けれども、それは知らんのです。本人が知らんというだけで、知らんという事は無いのと言うのとは違います。自分が知らんとて、目的がないという事は言えん訳でございます。
人間から、他の動物を見る。あるいは、草木を見る。これ皆やはり親から子へ、子から孫へと受け継いで行っていますが、それを人間の方から見ますと、皆、目的が有るように見えます。
たとえてみると、あなた方が、お米作りなさる。そうするとそれが次第と成長して来まして穂が出ます。花が咲きます。あの花も、雄しべと雌しべが付いておりますが、つまり天気の良い時分には、花粉が雌しべに引っ付きます。 そうして立派な米が出来るのです。もしその花粉という物が無かったなら、雌しべ、雄しべが無かったならば、米が出来ないのです。それから、もう一ツ。あの花が咲いとる時に、とうとうと雨が降ります。その時には、まあ、あの籾がらを開いて雄しべ、雌しべを出しているのは、ちょうど心が有ってしているように急いでもみがらを閉じます。
見てご覧なさい。これは、あなた方ご承知だろうと思いますが、天気が悪うて、雨がパラパラ降って来る。早う、つまえんと、大事な雄しべ、雌しべがぬれてしまう。それで、もみがらの中へふたするという所が、いかにも、もの言う人が、しているような感じです。ところが稲自身に尋ねると、稲の答えはございません。しかし稲は、雄しべ雌しべを濡らすと米に傷が付く。あるいは腐る。悪い米になるとつまらん。というので、それを保護しとる訳でございます。
こういう風に、人間からそういう人間以下の物を見ますとわかるのです。稲は何のためにはえてきて、大きくなってそんな事しているのかと言えば立派な米を作る。自分の一族をどこまでも繁栄さそう。こういう訳でございます。
そういう事から考えますと、生まれて来た訳は、人間界を出来るだけ進歩させて、そうして争いのない平和な極楽世界を、建設しょうという事が目的になっとる訳でございます。これは、お釈迦さんがおっしゃってあります。弘法大師も親しくそういう事を お説教なさって居ますが、目的は そこに有るのです。小さい時は、親が それを保護しとる。ちょうど稲がパラパラと雨が降って来ても急いであの花をしまって、もみがらのふたをしているようなもので、幼少な時には親がそれを保護します。そうして一人前になれば、今度は自分の任務である所の、この人間界を極楽世界にせなならん。それには、どうしてもお互いに働きというものが無ければならん。
働きには色々ございます。物を作る方もあれば、それを販売する人も有る。運搬する人も有る。とに角これ皆、働きでございます。それで、この人間の働きというのは、たとえいかなる仕事をしている人であっても、これ皆天職である。こう先生はおっしゃったのです。すなわち「働きは、人生最高の天職なり。」と先生おっしゃったのは、ここにあるのです。天から、それだけの任務を受け持っているのである。どうしても働かないといけない。又働きが、出きんような体の弱い方、あるいは、病気の方などは、達者な者がこれを保護してあげる事が人間の天職である。こういう風に先生はお考えになっていたのです。いかにも結構な事だと思います。
そして、まじめは開運の指針なり。まじめであるという事は、運が開けて来る所の羅針盤じゃと、先生はおっしゃった。それは、これもその通りで、世の中をごらんになればわかります。まじめと、まじめでないのと、どれだけ違うかと申しますと、この世の中を、極楽世界に変えて行こうとする所の働きは、皆まじめです。この世の中を乱そう とする所のものは、皆まじめでないのです。この分け方でよいと私は思います。まじめに働かなければいけない。
ちょうどあなた方が、草木を植えましても、花が咲き、実がみのり、そして立派な種が出来る。つぎに植えると、又もう一ツ立派なものが出来る。次第次第と、改良して行くように、今日の農業はなっております。その通りに人界も、 子より孫、孫よりも曾孫と順々にこの意味を徹底して、教え抜いて、そうして天職を奉じて行くという事が一番良い事じゃと思います。それで皆様も、ただ、ご自分がそれを実行するという事も結構でございますが、草木でも子どもを保護して、それを天職を全うする事を教えとるように、人間にしても、大事な事は、何が為に仕事をするのかという事を、子供らに知らすという事が大事な事だと思います。先生は、学問こそなさっていませんけれども、おっしゃる事は、こういうような立派な事をおっしゃっているのです。
二八六条の事を考えても、人間は自分の体に適し、自分の能力に適した仕事は、世の中の為にせなならんという事になるわけでございます。又出来ないような弱い方は、助けていかなならん。こういう事も今日の社会を見るとわかります。今、国ではずっーとお年が寄って、そうして人を扶養してくれる人が無い人を、養老院を造って保護する事になって居ります。又色々な災難で、親御が無しになってしまって、小さい子供が、残っているおうちが有ります。
まことにお気の毒な、そういう人は慈恵院へ入れてお世話をしている。やはり国でもそういう風に、この世界を極楽にするという事に対して精進しとる訳でございます。
(昭和三十七年二月二十八日講話)
TOPへ

第二八七条 「神仏を恋人のように、人の心のうちに愛着させる事が、人を救う第一歩である。


こんな事を先生がおっしゃったのでございますが、恋人なんかいうと誠に妙なお話しするようでございますけれども、これを清浄に考えたならば、信仰でお大師様をお慕い申すのも、これ一ツの恋でございます。愛着でございます。信仰というものは、いつもその相手方の神様仏様をお慕い申して、そうして始終朝晩に、心の上でお仕えするというと、ちょうど卑近に言えば、恋人を思うようにせねばいかんと笑われつつ、先生がおっしゃった事でございます。
(昭和三十七年二月二十八日講話)
TOPへ

第二八八条 「無限に接し、悲しみと、喜びとを呼び起せる人は幸福である。たとえ、それが間違いの量見であろうと差しつかえない。何も感じぬ人よりも、幸福である。


無限と言いますのは、自然物の事を言うのです。山とか、川とか、野原とかいうように、自然の大自然の事を、無限と言うのです。そういう景色に接して、これは、きれいだとか、うれしいとか、つらいとかいう心を呼び起こせる人は、大変しあわせじゃと言うのです。何も考えん人も有りましょう。たとえその考え方が間違って、人が笑うような事を考えていても、自然物を見て何か感じるという事は、大変ええ事だと先生はおっしゃったのです。
たとえてみますと、瀬戸内海から、鳴門の瀬戸通って、とうとうと流れている所のあの潮、向こう側の淡路が見え こちらには鰯山がある。その間を船が通うとる。実にきれいだなあ。 こういう風に見る方は幸福だと言うのです。
あのええ景色、鳴門の景色見ても、何ともない人も有ります。それは、脳に感じにくい所の素質で有って、悪うは言えないけれども、損だと先生はおっしゃる。先生に、私はよくお供をして方々へ行きましたが、津の峯山の上へ登りになって、そしてあの南の橘湾の方をご覧になって、「きれいだなあ、箱庭みたいだなあ。」しばらく、ジーッと立ってご覧になられているんです。色々な事思うておいでるのです。そういう事を、先生は、しあわせだとおっしゃったのです。何も感じないのではいけません。それで又、それが、うれしく、きれいに見える人も有るし、あるいは又悲しく感じるという人もあるのです。
それは、どういう訳かと申しますと、自分の家族が舟に乗って、漁に出て行って、難風にあって海へ沈んだというような事があった人でありますと、その海を見て、「あの海でなあー」と言うて悲しみを呼び起こすのです。たとえ悲しい事で有っても、それを見て同情するという事は、しあわせだと先生はおっしゃいました。もし、それが無いのならば、信仰は起きないのです。うれしいとか、つらいとかいう情が起きなければ、信仰は出来ないのです。そこで先生は、そういう心が浮かんで来る人は、しあわせだとおっしゃったのです。
デコ芝居に忠臣蔵というのがございます。これを私もよく見せてもろうた事も有りますが、実にその大石様をはじめとして、四十七人の方がかん難苦労して、ご主人のあだを打つという誠に勇壮な芝居でございます。これを見て感じん人はないのです。ほんとに面白いという中に、お気の毒、つらい、悲喜交りの感情が起きます。もう男の人でもだんだん涙を浮かべて、ハンカチでふいておいでます。ほんとに、もしそういう情がないのならば、人間は、もう誠にさみしい気持です。ちょうど荒れ果てたような気持だろうと私は思います。そういう潤いの有る同情心が有ればこそ面白くも見い、又悲しくも見い、するのでございます。もしそういう心がないならば、もう荒れ果てた野原みたような気になりますから、先生はそういう事をお話しになったのです。先生もあまり芝居など見においでませんけれども、忠臣蔵の話をすると、先生は涙ぐんで話なさったことでした。まあ同情するという心が、一種の信仰だ。信仰みたようなものだ。いやそれが信仰に違いないのです。そういう事を先生がおっしゃっていましたので、あんた方も、 お暇の時分には、津の峯山へおいでたり、あるいは中津峯山へおいでたり、時によると大阪、神戸辺りを見物においでになるでしょうが、いずれどちらへおいでになっても、その間にお楽しみ、お喜こび、世間を見て、自分の見聞を広うする こういう事が、一種の信仰の上に大変結構な事じゃと、先生おっしゃりました。
(昭和三十七月二月二十八日講話)
TOPへ

第二八九条 「子供は、する事そのものに、楽しみを持っている。成人は、する事より、来る結果に目的を持っているものである。する事そのものに、楽しめる姿は尊い。


これは、むつかしい書き方ですが、わかりやすく申しますと、子供が遊んでいるのを見ていると、しよる事そのものに楽しみを持っているのです。大人は、している事そのものの他に、それから生まれて来る何かを楽しんで居る。こういうふうに見方が違うんだ。ところが、それを比べてみると、している事そのものに、楽しみを持つという事が一番尊い事だと先生おっしゃったのです。一寸むつかしい言い方ですけれども。あんた方が田んぼなさる。唐ぐわで土を掘る。あるいはこの頃でございますと、機械で土をこなしていっきょるが、子供であったら、している事そのものに楽しみが有るのです。大人の方はどんな楽しみかというと、こうやっておいたら、これから立派に米が出来るとか作物が出来るとか、その結果の方に楽しみを持っておるというのです。なるほど、それも悪い事ではありません。
ありませんが、仕事そのもの、しよる事そのものに、楽しみを持っとるのが、尊いんじゃと、先生がおっしゃったのです。ここが考え所でございます。ややこしい言い方ですけれども、あなたがお参りにおいでる。これは無論、神仏のご利益を授かろうとして、行きなさるのではございますけれども、お参りそのものがうれしいておれんというのが、ええのです。
お陰の中にも色々ございますが、たとえば、もうけがしたい。もうけというお陰をもらおう、もらおうという心でお参りするというと、信仰が妙な事になりましょう。ここを先生がおっしゃるのです。お参りをする。お参りする所のその神様に会うのがうれしいて、お参りそのものが、楽しいのだと、子供はそうなのです。そうでしょう。あなたが、子供連れてお参りしてご覧なさい。お参りそのものがうれしいので、他の事はあまり考えとりやしません。おとなは、そうでないのであって、まあ、こうやっておいたら、こうなるだろうという、先のお陰というものを、重きを置いとるようです。けれども、そこで泉先生のなさっている事見ますと、ちょうど、子供がお参りしているのと一緒です。誠に恐れ多い言い方ですけれども、無邪気なのです。道を歩きながらでもおっしゃる事が誠に面白い。笑わなおれんような事おっしゃって、喜びかえっておいでるのです。 先生は、こういう、この二八九条に書いてある事は、お参りしたり、あるいは仕事したりするのでも、それそのものを楽しめと言うのです。むつかしい言い方ですけれども、あなた方が仮に、まあ農家のうちで、なわないなさる。 機械で、なわなうのが面白うておれん。これが、ほんとうの仕事しでありませんか。これ一玉が、一玉なうたら、何ぼになるんじゃというて、金の方、算用して仕事なさるのも悪うはありません。結構でございますが、なわがカリカリ言うて、なえて行くのが、面白うてならん人が上ではありませんか。確かにその人は朗らかな人に違いないのです。
人にすかれる人に違いないのです。これ一ツなったら百円になるんじゃ、と言うてなうと、きたないのです。先生が、そうおっしゃる。仕事が面白い、仕事そのものが面白いというのが、お陰が厚いと言うのです。
こうやっとると、こんだけ、もうけになるんじゃと言うて先の事楽しんでするのは、これは、あまり神様がお喜びにならんと先生がおっしゃりました。これは一寸わかりにくいようですけれども、おわかりになるでしょう。仕事そのものが面白ておれんという人は、と角、そういう人は朗らかな人に違いないのです。何となしに、体が健康です。
そういう人は、苦がないのですから。子供と一緒ですから。先生はこういう事まで気をお付けになるのです。実に有り難いお考えを持っております。これよく考えてご覧なさい。何の仕事なさりよる人でも、ジーッと見てご覧なさい。その仕事その物が面白うておれんという人は、大抵朗らかです。これこうやっといたら何ぼになるんじゃと言うのは、妙に考えますね。どうぞ、ここの所は先生のお気持が、そういう有り難いお気持の人であったという事を味わいなさって、先生のご人格をお慕いになる事が誠の信仰かと思います。
(昭和三十七年二月二十八日講話)
TOPへ

第二九〇条 「極楽世界は、この世そのままをとおして、実現せねばならぬ。この世を離れて極楽を願うは、苦の種をまいているのと同じ事である。


よくお寺などで、地獄、極楽のお話をなさります。又、私らも小さい時、よく聞かされたものです。地獄へ行くと鬼が釘抜きで、舌を抜いている絵を書いたりしてある。それから又、鬼がのこぎりで頭をさすりまわっている絵、これ大麻はんの市で、私見た事があるのでございますが、極楽と言えば、きれいな花が咲いて、どちらを見ても、もうきれいな景色で、至る所に、おいしい物を置いてある。食べ次第だ。まあこれが、極楽であって、地獄と極楽をそういう風に、子供の時にお参りしてよく見たのですが、泉先生のおっしゃるのはそういうのでなくして、この世でしている事を喜んでするのが、極楽じゃと言うのです。
たとえば、田んぼへ行ってお仕事なさるのでも、仕事そのものが面白い。ああゆかいじゃ。その仕事をとおして喜ぶというのが、ほんとの極楽だ。泣く泣く仕事をする。つらいつらいと、泣く泣く仕事をする。理屈言うて、怒りもって 仕事する。これは地獄じゃ。泉先生は、そうおっしゃったのでございます。なるほど、今日の仏教も、教えの上から言いましても、地獄、極楽というのは別に有るのではないのであって、この世を、極楽のごとく朝から晩まで、何を見てもうれしい。何を聞いてもうれしい。仕事をするのが楽しみだ。食べる物は美味しい。たとえそれが大きな分限者で有ろうと、小さな家で有ろうと、健康で皆が仲良く働く。これほど結構な事はない。家が大きくても、何ぼ物が有っても、口説があっては極楽でない。泉先生は常にそういう事おっしゃいました。たとえ家は大きゅうても、小そうても構わない。もう為す事、する事が皆、喜び、うれしい。うれしい喜びに巻かれている。これは極楽じゃ。
泣いたり、口説言うたり、けんかしたり、そんな一日は、それは、地獄を渡っているのじゃ。こういう風に考えて、どうぞ日に日にする事を朝起きて顔洗うのでも、ああ、この水が有るんで結構じゃ。これ戦争へでも行って、水がどこへ行っても無い。夜、ようやく水を見付けて呑んで、やれやれと言って、あくる日そこの水見てみた所が、まるで、どぶ水であった。こういうような話を、よく兵隊さんから聞いた事がありますが、たとえそれがどろ水でも何でもええ、ああこの水で、朝起きて顔が洗える。こんなきれいな水で顔が洗える。ああ結構だ。こういう風にそのままを喜んで行く。これがほんとうの極楽生活を、しよるのだ。決して、別に極楽というものを、望むような事では、ほんとうの信仰でない。こういう先生が有り難い教えをして下さったのです。
どうぞ皆様も、色々なご家庭で色々ご用も違いましょうが、どうぞそのお家を極楽に、気持を変えてしもうて、日に日に喜べると言う方は、幸福だと思います。どうぞそういう風に解釈なさって、二九〇条をご覧になっていただきたいと思います。
(昭和三十七年二月二十八日講話)
TOPへ