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第一四二条へ 第一四三条へ 第一四四条へ 第一四五条へ 第一四六条へ 第一四七条へ 第一四八条へ 第一四九条へ 第一五〇条へ第一四一条 「人より悪く仕向けて来たとて、悪くかえしてはならぬ。善くしむけて来た時は よく返すことは誰でもできる。悪くしむけられた時がおかげのわかれめと思え。」
私は、若いお方がお嫁に行かれるとか、ご養子に行かれるとかいう時に、よく泉さんがおっしゃった事を、私が又お伝えしているのでございます。この悪く仕向けられた時に善く返す事です。これが出来ると、家庭の平和という事は、ほとんど出来るのでございます。長い月日の間でございますから、よほど修行せられた方でも家庭が違い、おい立ちが違うので、従って向こうさんへ行ったお家の生活状況というものと、自分が育った家の生活状況というものと同じという事はほとんどありません。そこで嫁に行ったところのお家の人々が、気が合はないという事がある事は当然なことなのです。憎むという事でなくても、日に日にの生活状況が合わないという事は、これはどこでもある事です。その時分に、話しせられる事が良ければ教えてくれる。悪ければしかられる。このどちらかでございますが、その時分の聞き方です。いい換えると、おこられ方、これができる事が一番大事な事です。これを受け方といいますか、今日あんた方よくテレビでご覧になっておるレスリング、あるいは角力です。この投げられる時分に受け方が悪かったら、パンとほうったら、後、立ち上がりが出来んそうです。足が折れたとか、手が折れたとか、折れんにしても筋が違うたとか、必ずおこるそうです。これがあのご承知のレスリングで投げられても、クルッとすぐ起きているでしょう。練習せんのに生まれつき上手なのが猫です。猫見てご覧なさい、投げたら決して背中とか腹とかをドンと打ちつけるような事はしません。必ず立っております。すなわち受け方、これは角力やレスリングでございますけれども、人間の気合いの上でも、やはり受け方というのが非常に大事な事です。
これは口で一寸いい表わしにくいものですけれども、気分はどういう風にしたらよろしいかという事ですが、泉さんのお話によりますと、先生は怒られた時は、怒った人の身になれというのです。なるほど、そんな事考えてみたら受ける時分は怒られません。
たとえば、嫁さんが前日にお洗だくをしてありました。所があくる日起きてみると、雨が降っていた。すると洗たくした物がぬれている位なら宣しいけれども、嫁さんがその洗濯した石けんをしまっておくのを忘れて、外に置いてあった。そうしたらその石けんが溶けてしまって、そこら辺り白い水が広がっていた。ところがその朝それを親ごが見まして「ねえさん、夕べ洗だくしたあとで、どうして石けんをしまっておかなかったので。」こういうお話しであったのです。その時分に嫁さんがいうた言葉がなかなか面白い、笑い話ではありません。実際嫁さんはつらかったんだろうが「ああ雨でしたんですな」「雨が降らなんだら石鹸は溶けなかったのに」というたのです。嫁さんがそういったから、それが問題になりまして、強くしかられた事を聞きましたが、その時にどういったら良いのか考えてみてご覧なさい。 「おまはん、夕べ石けんしまっておけば雨に溶けないでよかったのにな。」といわれた時分に「ああそうでしたか、本当にうっかりしておりました。昨夜からの天気見ても大体降るか降らんかわかるのに、わたしゃ誠にうっかりしていました、しまっておけばたとえ降ったって構わないのに、それをおそかったので急いでしもうて忘れました。誠においい訳のしようがごわへん。今度から気を付けます。」こういうてご覧なさい。もう後でいえんでしょう。そうしたらお母さんになる人が、まあ内の嫁は事がようわかっとるとほめてくれる、かえってほめてくれる。
ところが私が聞いた嫁さんは、雨が降らなんだら溶けるんでなかったのに、成程それも間違うておりません。雨が降らなければ、石けんは溶けはしません。しかし、それはいい訳というのであります。言い訳したら必ずそれは向こうへ当る事になるのです。向こうはせっかく怒っているんですから、本当にこちらに間違いないのでしたら怒りはしま せん。怒るというのは、取り違いしとるかも知れないけれども、こちらの欠点を見い出したからこそ怒っているのです。ああ違いございませんと受け入れて、そして向こうを柔げた方が逆らわないでよいでしょう。これが今のレスリングであったら、ほうられたら柔かにして、放られる通りにほうられて、打ち込んでおらないのです。
つまり人間の体には、手でも足にでも関節があります。ちょうつがいがありますから、それをゆるめていたら、それがゆるゆると動くのです。手でも足でも、棒みたようにかたくしていると折れるのです。こういう風に柔かく受けるという事、これは簡単でございますけれども、日に日に暮らす上になかなかむずかしいことですが、それができますと家族の間に、和気というのが出来るのです。柔かな空気が出来るのです。家族の人が皆そういう風でありましたならば、日に日に遊山か、物見見物かの調子で、朗らかな家庭が出来る訳です。
それと反対に、いい訳するという事になると、それが固くなり、理屈になる。理屈いうと、片っ方も理屈をいう。そうなりますと、両方が固い同志で日に日に打ち合いせんならん。もうゴツゴツした家庭になります。従って、仕事が面白くない。日に日にの暮しが面白くない、そうなると良い物が生まれません。こういう事になりますから人に悪く仕向けられた時は、それを決して悪く返してはならない。いつも柔かく出て、そうしてあだを徳で返すという風にしたならば、運が良いと、先生がおっしゃった事は、実にこれは大きな教訓でございます。
どうぞこの一四一条は、日に日に暮らす大事な事ですから、特にご注意願いたいと思うのです。昔から「笑う門には福来たる。」何でも宜しいから笑うような気分を作ったならば福が来る。福というのは平和な、なごやかなという空気でございますから、一家が外から見ても、うらやましいような家庭が出来る訳です。その意味で一四一条を見て下さい。
これは泉さんの教え、最もこういう風に常にお教えになっていたのでございます。
(昭和三十五年三月三十一日講話)
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第一四二条 「見る人の心、心にまかせ置きて、高根にすめる秋の夜の月のようにしたいものである。」
月にたとえて世の中の事を読んである歌です。だれが読んだ歌でございますか、まことによくできている歌です。
お月様を見て、ああきれいな、ことに空に澄み渡った月はきれいなものである。こう見ておる人があり、あるいは、桜の上に春のオボロ月が出ておる。いかにもきれいなものである。と見る人もあり、あるいは、ただ簡単に、ああ今日はお月様ようさえとるな、何げなしに簡単にいう人もある。悪う言う人はございますまいけれども、こういう風に見る人の心、心にまかしといたら良い、おまえ、わしをほめとるのは何だとか、悪う言うて何ならと、お月様おっしゃらない。見る人の心、心に任せておいて、無関係に高い空で澄み渡っておる。こういう歌です。
これを人間の人生に置き替えますと、人がほめてくれても、悪う言われても、色々見る人の心、心によって違うのでありますから、それには気をつかわないようにして、自分は神様の前で、神様に恥ずかしくなかったらよいという風にして、日に日にを気持ちよく暮らして行くようにしたいもんだと、という歌です。
この頃は争いの世とでも言いますか、ご承知の通り新聞らんを見ますと、日に日に争いがよく出来ております。
この争いの原因は色々ございますけれども、これはこの世の中を見ておる人の心、心が違うのでございますから、世の中を見る人の心に任しておいて、自分は自分の任務だけを真っ直ぐにして行く。こういう風にしたいもんじゃというのと同じもので、この頃は何かと言えばすぐに鉢巻きをねじ上げて、旗を立てて戦争みたいな事をしております。 日に日に新聞に出とるでしょう。こういう事をする人は、そういう事をするだけの理由があるのでしょう。無ければしませんが、たとえそれが立派な理由があるにしましても、そういう形を取るという事はあまり感心しません。世の中の見ようが、色々になっておりますけれども、人は人だ、おれはおれだ。人が何と見ようと、世の中をいかに解釈しようと、自分は自分で教えの道を真っ直ぐに行くと、こういうようにすると苦労が無いという事なのです。
今は色々あるでしょう。この鉄道あたり、あるいは電信、電話、こういう交通機関とか、通信機関とかに携わっている人は、実に日本中で大した数があります。その大勢の数の人がストライキやると、その為に汽車の時間が狂うて来る。あるいは通信機関が乱れるという事が再々起ります。そういう事をして、皆が団結していくのが、流行しているとでも言いますか、泉さんはそういう事に対してでも、すなとはおっしゃりませんけれども、人に話しを合わしていく必要がないと言うのです。
人は皆見ようが違うのだから、おれはおれで教えの道を守っていたらそれでよいのだ。こういう風にして行くならば、労働争議というつまり雇われる人と、雇い主との間で戦争が出来ないのでございますけれども、泉さんは、それをすなとはおっしゃりません。おっしゃりませんが、どうぞ人人に意見が違うから、自分は自分の意見で進むという風にして団結して困らすような事するなというのです。
国と国とで戦争が起こるのもそれです。もとはといえば各々の意見である。その意見が大勢になるほど群集心理というのになりまして、とっぴな事考え出して来る。仕舞には戦争する。こうなるのです。こういう事は信仰の上においては良くない。「見る人の心、心に任せ置きて高嶺に澄める秋の夜の月」こういう歌のような風に、自分が心を固めて進んで行けという教えが一四二条です。これで今日の新聞見ましても分かる事ですから、どうぞそういう事の無いように、泉さんの教えは朗らかな家庭を作って、そうして運の良い暮しをしろと、いう教えでございます。
(昭和三十五年三月三十一日講話)
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第一四三条 「我を捨て得る者は、神、これを捨てず。という事があるが、我を捨て得る者は神これを捨てずという。ゆえに我を捨てたる者は、 神を偽る行いである。」
我を捨てるという事は、すなわち無我と言う事なので、人の身の事を先に考える。自分の身の事は考えない。これが我を捨てると言う事なのです。我を捨て得る者は、神が必ず助ける。すなわち何事でも、わしは損じゃとか、あるいは得がいくとか、我の損得で物事を決めていく人はいけない。わしはどうでもよいが、世の中の為にはどうか。人はどんなに感じるか、自分を第二に置いて、世の中とか人を第一に置く人は、神これを捨てず。必ずそういう人にはお陰がある。と、こう昔から教えておるが、我を捨てる者は、神様が救うてくれるんだから、おれ、わしを捨てるんだという考えを持つ人は、これは神さん偽りだと言うのです。ここは一寸考え違いする所なんです。
こういう事も言うでしょう。「積善の家に余慶あり。」つまりよい事を積んだ家にはやはり余慶、すなわち後々の者が良くなる。こういう事を言う。積善の家には余慶あり。なるほどその通りで、良い事を積んでおる内は良い事に限っとるが、それを真以する人が、積善の家には余慶ありと言うから、おれ、これから徳を積むと言う。こういう事を言うた場合には、これはいけないと言うのです。
そんなら、もし、これが兵隊さんであったらどうですか、あの兵隊が胸につっているあの勲章、これは国の為に働いた人にほめた印をくれとる。もし勲章がもらいたさに良い事したらどうなりますか、これ、人物いけないという事になる。あれはもろうても、もらわないでも良いのじゃ、おれはこういう事するのが任務だとして、我を捨てて、働いて滅死奉公をして、働いた人にくれとるのだから、良い事した結果がああいう事になる。その結果ほしやと言うて進んで行くのはいけない人物だと言うのです。よく間違う所ですけれども、泉さんは全々その根から、葉から、洗い切ったご修業をなさるお人であったのです。我々に教える事でもそういう風に教えとります。
これをもう一ツたとえてみますと、春になりますと、よくお接待というのがあります。あるいは紙を折ってお四国まいりの人に、一人一人に差し上げる。あるいはお餅をついて、これを霊場へ持っていって、お四国回りしている人に一人一人に差し上げる。これを接待と言っておりますが、お接待をするとお陰がある。夏病みせんとか、何とか言うて、皆よくしよりますけれども、これも泉さんから言うならば、それはいけないと言うのです。お接待するのは、あのお参りなさっている人は、誠にきれいなお考えでお参りなさっとる。その人に恵んで差し上げる事は、お大師さんがお喜びになる。つまり自分が四国へ行ったも同然である。という為に上げるのなら良いと言うのです。
泉さんがおっしゃるのは、おれあ夏病みしたくないから、お遍路はんに上げるんだとか、運が良うなるからお遍路はんに上げるんだとかいう事は商売したんだと言うのです。本当の信仰じゃない訳なのです。なるほど、そういうと何だか固苦しいようですけれども、本当にお接待するという事は喜んでもらう為に差し上げる。それが為に自分が利得するという事考えたら、商売した事になるんだと、信仰の程度が低いと言うのです。なるほど考えてみますと、泉さんのおっしゃる事は、意味深遠です。
ああ、ほんにこの長い旅路を、背中に荷物を負うて、お大師さんのお跡を慕うて行く事はなかなか出来ない事だ。まあ出来ん事でもあるし、お大師様が皆の難儀を救う為にご自分が八十八ヶ所をお開きになる。尚開いたばかりじゃなしに、後の世までも人がすがりやすいように、生きの世で生きながら定にお入りになって、この世をお去りになったという事を考えたならば、お大師様が慕わしい。このお大師様のした業績を踏ませてもろうて、お大師様の心を自分の心にし、お大師様の真似がしたい。こういうのでお参りしよるお遍路さんでございますから、あるいは中には又そうでない悪いお遍路さんも中にはあるかも知りませんけれども、先ずそういう尊い方のみ跡を慕うてお参りなさっている方を尊敬する為に上げよるんだ。これがお接待だ。少しでもご便利になる事をして、お大師様に喜んでいただいてという目的の為にしよるのがお接待ですから、お接待に、我が身の損得があったらいけないというのです。
これはただ泉さんが簡単におっしゃっておりますけれども、日々の行動が、わしゃ得じゃけんする、損じゃけんしない。損得で自分が日に日に行動をする場合には、必ずその人は程度が低いのです。卑しい。おれあ、損であろうと得であろうと、そうする事がおれは好きだ。世の中の為になる事が好きなんだ。人の喜ぶ事が好きなんだ。人のきらう事、きらいなんだ。言うてする事が本当の行だと言うのです。そういう風にして、わが身の損得を度外視して、日に日に暮らしとる場合には、いつとはなしに神これを捨てず。遍照金剛言うて拝み回らなくとも神様が守ってくれる言う事が本当の信仰だと、泉さんはおっしゃる。
それでこの泉さんのご信仰と言うのは、一寸普通の人には見えにくいのです。木綿の黒っぱの筒そでを召して、黒の帯を横っちょに引っくくって何げもない、飾り気のない風にして、日に日にの仕事をなさる。そうして、そのもうけた金はお父さんお母さんを喜ばす。世の中の為になる事をする。そうして自分の身は極度に詰めておる。これが泉さんの日々の行動でございます。求めるものがないのです。おれ、したいからするんだというのであって、こうしといたら、こういう具合に神さんがしてくれるからするんだというのは、全々違うのです。こういう誠に気高いお考えで進んでおいでる為に、ああいう不思議な力が表われて来た訳なのです。これは、信仰のお話しをする時分には、私よく言うのでございますが、人間の心の奥には仏性と言う誠に立派な玉があるのです。如意、たとえると、如意、心の思うままになるという玉、これを仏性と言うておりますが、その仏性と言うのは、お釈迦様の仏性も、弘法大師の仏性も、日蓮さんの仏性も、親鸞さんの仏性も、我々の仏性も、仏性には変りはないのであって、まことに立派な全智全能の働きをする力を持っている訳です。これが皆心の中にあるのですから、その仏性の力を発揮さすのは損得を考えると出ないと言うのです。これが結論です。むつかしく言うたら、そうなるのです。
各々に生まれながらにしてくれてある所の宝物、仏性という宝物を光らすならば、全智全能の働きをするんだ。その大事な宝物を生まれながらにしてくれてある。その宝物を磨き出すのはどうしたらよいかという事は、自分の事を 第二に考えていけという事なのです。世の中の事、人の事を第一に考えて、自分の損得は第二も第三にもしておけ。
これが仏性を磨き出す方法だ。こう教えているのが泉さんです。どの宗旨にも教えておるのですけれども、泉さんは特にそういう事が目だって、大事だぞと教えておいでるのです。
泉さんの信仰を真似していくという事はしやすいのです。しやすうてむつかしいのです。ただいまお話するように 形はどうでもよい、心が神仏の好く様に仕向けないといかんぞと、言う教えなのだから、形は、むつかしい事一つもないのです。しよいんです。しかし、自分という事を抜きにしていけというのが、泉先生の流でございます。流や言うと相済まんけれども泉先生の信仰の流は、我というのは無いようにせよ、これだけで大きなお陰が受かるという信仰なのでございますから、大分世の中のありふれた信仰とは形が違います。実に立派なしやすうて高尚な、最も高い所まで行ける方法と言う、これが泉先生のお教えになった信仰ぶりでございますから、どうぞ、そういう風にお考えを願います。
(昭和三十五年三月三十一日講話)
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第一四四条 「カラタチという木はトゲだらけで実も食用にならぬが、其のトゲでよせ付けぬ所に我心がないために、生垣として重宝がられる。」
世の中に、あのカラタチと云う、ジャキチという木が有るでしょう。針もぶれの、あの針もぶれのジャキチでも、我が無いのです。俺、人を突いてやろう。突きまくってやろう。いう考えを、持っていませんから、ジャキチが垣に植えられて、人に重宝がられて、居るでないかと、泉さんはおっしゃった。
御承知の通り、カラタチという木は、こちらではジャキチと言うて居ります。まあ実が成ったって、すいいて、すいいてとても食べられません。種がいっぱい入っています。実がすいい。木と言うたら、針もぶれ、これでも我が無いんですから、俺がという俺我が無いんでございますから、人が重宝がって継ぎ木の台に使います。スダチ継ぐのにジャキチが良え、と言うて台に使います。又盗人の垣は、これが良えと言うて使います。だから人間は、針が有っても何が有っても構わない。お粗末で結構だ。我が有っては人に捨てられるぞという教えなんです。 それが百四十四条になって居ますから、御承知を願います。カラタチという木は、刺だらけで、実も食用にならない。けれ共、人が重宝がると云う事は、そこにあるんだ。あのジャキチの様に、針が有っても良えから我を徐けと言うのが、泉さんの信仰ぶりです。ここをどうぞお汲み取り願います。
(昭和三十五年三月三十一日講話)
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第一四五条 「信は力である、信ずる通りになる。」
「信は力である。信ずる通りになる。」この信ずるということに、二通りありまして、人間的に信ずるということと、他の一ツは、自分というものを心の底から信ずるという、この二ツ有る訳でございます。専門的にむつかしく言いますと、八識にしみ込んでいるか、ただ、上つらの人間根性だけで信じているか、この二ツの種類なのでございます。深く信じ込んだことは、力である。いかなる力でもそこに現われてくる。こういうことを、今日のような、科学の進んでおらぬ大正の時代に泉先生はおっしゃっています。先生の勉強は奥山へ神、仏を慕うて、おいでになり修行をなさるとともに、人間の間で信仰的なおつき合いをなさるうちに先生がおさとりになった訳なのです。実に偉大なものじゃと私は思います。
私が昔信貴山へお参りにいきまして、そうして大阪へ出て来たのです。船の出港までに少し時間がありましたので、最近大阪では、どんな興業をやっているかと思って、千日前へ参りました。ところが、ちょうど角座という劇場で「昭和の養老の滝」という看板が出ているのです。「昭和の養老の滝」はてなあー。これは昔、孝行な息子さんが、何とかして、おとうさんにあのお好きな、お酒を差し上げたいものだと思い、山へ柴をとりにいったあの話の芝居と思ったのです。その有名な話は、みなさんもよくしっていると思いますが、あの孝行息子が、おとうさんにお好きなお酒をと日に日に思って山へ行っていたところが、ある日白髪の有難そうなおじいさんが、つえをついて出てきました。「これこれ、お前さんは、日に日に山へしばを刈りにきているが、お父さんに酒が買いたくて買いたくて、おれんのじゃないのかい。」「ああ私はおとうさんに、それを差し上げたらどんなに喜んでくれるかと思って、日に日にそれを考えております。」とお答えしたところが、仙人が「それでは、こちらへおいで、今度来る時にはひょうたんを持っておいで、そしたら私が、お酒を上げるから。」という話です。「どうも有り難うございます。よろしくお願いします。」と言って、その日は別れましたが、あくる日しばを刈りに行く時、ひょうたんを持って行きました。すると、しばの荷ができたところへ、ひょっこり昨日の仙人があらわれて、そして「さあさあ、こちらへ、そのしば置いておいで。」 山の奥へ奥へと案内されて、ある小さな滝が落ちている所へ連れて行かれて、「ここに落ちとるのは、お前の目には、滝と見えるが、この滝の水を、わしが、お前の孝行に免じて、お酒に変えてあげるから、これをくんでお帰り。」と言った。変に思ったけれども、有り難い人のおことばと思い、一心に信じた訳です。滝の水というのは、目には、見えているけれども、その偉大な有り難そうなふうさい、言葉つきに感じ入ってしまって、いわれるままに、 ひょうたんに一杯もらって、しばの荷にくくりつけ礼をいって、そこで別れを告げて、よろこびいさんでわが家へ帰ってきました。
「おとうさん、今日は、山へまいりまして、こうこういう訳で、こういう有り難い人が、おとうさんに差し上げてくれと、おっしゃるのでくんで参りました。」父は、「そうかい。それは、有り難う。」手に取ってにおうてみると、プンプンとして、いかにもおいしそうな酒のにおいがする。「ああ、これはありがたい。しかし、不思議だなあー。お前さんの孝行が届いて神さんがくれたんだ。」と、言いながら、そのひょうたんの水を飲んだところが、おとうさんは見る見るうちに、まっかになって酔うてしまった。孝が天に通じたといいますか、そういう話が昔あったのでございますが、話は千日前の角座にかえりますが、つい三百人位入っていましたか、年の頃は四・五十位の人が舞台へ出てきました。舞台のテーブルの上にはコップとガラスの茶ビンとを置いて有ります。そして、皆の方へ向いてどなたでも、よろしいから、あなた方の方でご相談なさって、くんで来るお方を二人だけ選び出していただきたい。そのお方がご相談で、水道のネジを開けてくんでもらいますことにいたします。これは、あなたの方で抽せんいたしてもらうんでございますからどなたでもよろしい。そうすれば、たしかに水道の水に違いないと信じていただけますから、どうぞお願いします。さあどうぞ二人だけどなたでもといって、テープルの上へ置いてあるビンを、客の方へさし出しました。するとお客さんは、あちらの方から又こちらの角から、四・五人出てきました。二人がきまりまして、今から皆様くんできます。私はきょう田舎からこっちへ参ったんで、水道がどこに有るやら知りませんのですが、教えてもらってくんできます。と言うて、二人が行ったんです。そうして水道のネジ口を開けて、まさしく水道の水をくんできたのです。さあくんできました。これがいよいよ水であるか、酒であるか、どなたでもちょっときてあらためて下さい。といって二・三人の方にためしてもらいましたが、その人たちは「これ水じゃ」、「水じゃ」って、皆がそう言うているのです。さあ、水と言うことがわかったから、「これから、テーブルの上へ持って行きます。」と言って念を押しておいて持っていったんです。これはだれが見ても、水ということの疑い起りません。そういうふうに念を入れとるのです。すると先刻申した四・五十さい位の人が「これから始めます。それで、ここへ上がって飲んでいただく人を、これから五人だけ選んでもらいます。どなたでもよろしいが、お年寄りの方は余りお酒召したらよろけて倒れるとお気の毒ですから、なるべくお若い人に頼みます。女の方よりなるべく男子の方で若い方、どうぞ選んで下さい。」ああ、だれが良い、かれが良いと言うていましたが、しまいには今の中学生位の年令の人五人よってきました。すると、その四・五十位になる人が「ハイこれで五人が決まりました。ここへ並んでいただきます。
すると一列に五人が並びました。見るからにお年がお若いようだから、未成年と思いますが、ほんとうのお酒ならば未成年の方に飲ませてはいけないのですけれども、これは養老の滝で水が酒になるのでございますから、お許しを願います。お年の足らんのはお許し願いたい、という前置きをしまして、コップを五ツ置いてあるのを一ツずつ持たしまして、そして、その四・五十になる先生が、ずっーとコップに水を入れて廻りまして「さあ皆様、お上がり下さい。そして、五人がいっしょに飲みました。そしてコップを机の上へもどして一列に並んでじっとおったところが見る間に、五人の顔が、赤うなってきたのです。あらっ、不思議じゃなあー、それを見ている人はだれ一人として感心しない人はありません。見ている間に赤うなったと思ったら、今度ぶりはヒョロヒョロして、よう立っておられないようになりまして、あちらへふらり、こちらへふらり、終わりにはまるですわってしまう人があり、寝てしまう人があり、五人ながらが舞台の上で寝てしまいました。すわっとる人もありましたが。そこで、その四・五十になる先生 が、ご覧の通り顔がまっかになりまして、よう立っておれずに、この通り、休んでおしまいになりました。けれども、のまれた物はお試しになった水でございます。これが養老の滝として水が酒にかわったのです。昔話しにある孝行が屈いて、お父さんに上げる酒だと信じたが為に、お父さんが、酔うたんと同じでございます。お疑いのお方有りませんか。だれ一人として疑う人は有りません。もう感心してしもうて、チュウの声もあがりません。「しからば、これで元の体に帰ってもらいます。」というて、一人、一人背中をなでたら、皆ニコニコ笑いながら起きてきて、又一列に並びましたが見る見るうちに、顔はスッーと元の顔の色になりました。ニコニコして笑うてお辞儀をして元の客席にもどりましたが、そういうことを私見せられたのでございます。
これは、最も催眠術でやったことでございます。たとえ催眠術でした所であっても、からだは人間に違いない。
飲んだものは水に違いない。これは疑う余地は有りません。しからば、結論としてどういう事が言えるかと言いますと、信じ切った場合には必ず、思う通りになるという事、そういう事を、泉先生が、おっしゃったのです。もう信じ切ったら、信じ切った通りになるぞと、先生がおっしゃったことを、ここに書いて有ります。
ただ今の話は、催眠術の話でございますけれども、信仰のほうは催眠術よりもうひとつ力が強いのです。あなた方が神、仏にお参りになって色々なことを願を掛ける。あるいは色々なことを、お信じになるということが、そのままあなた方のおん身の上あるいは念じる方、家族、友人こういう人の方へ、届いて行くという例証になる訳なのでして泉先生は学問も何もなしておられんが、そういうことを短い言葉で、信は力である、と、おっしゃったのです。
実に偉大なお言葉と思います。
(昭和三十五年四月三十日講話)
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第一四六条 「金持ちになるのには、ある金額をある年月、ある利率で積めば間違いなしになれる、皆大きくなろうと思うているようであるが、実際にはそうゆかぬのが面白いではないか。道理はよくわかっているのにできん所に面白い事が見える。「とらぬたぬきの皮算用」と世の中でいうている。そんな算用はせぬがよい。」
いろいろなお話を聞いて、なるほどそうじゃなあーとわかるのでありますけれども、実は思うとおりにまいりません。考えはよいのですが実現にいたりません。取らぬたぬきの皮算用の算用は、よろしいけれども、その算用の通りの仕組みをし、その信念で、いたしておりませんから、実現しない。いわゆる、取らぬたぬきの皮算用と昔から言いますことを先生が戒めた言葉なんです。必ず信じて、力を使え、そうしたら、その信の力によって、何事でも現われるぞ。前の百四十五条と並んでこれはニツいっしょに合わしたらよくわかることなんです。皮算用すなよ。皮算用は一ツの欲のそろばんだ。信が伴なっていなければ何にもならんとこういうことです。百四十五条と百四十六条とを続けてお考えになると、よくわかると思います。
(昭和三十五年四月三十日講話)
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第一四七条 「信仰と言うのは神と人とのおつきあいをいうので、お陰と言うのは神様を慕う心によりて来る福である。」
昭和の養老の滝というお話でも、おわかりになっただろうと思いますが、信仰ということは神様と人間のお付き合いで、神様がこうして下さると信ずることなのです。お陰というのは、信じた通りになって来るというのですから、お陰の来る、福というのは、人毎に違う訳です。それを泉先生は「四万八千の区別が有る」と、こうおっしゃったのです。だから考える人に、四万八千の考えようが有りますから、健康とかあるいは、運よくとか、あるいは朗らかに とか、何とか念ずること、神さんに頼むこと種類が多いのでございましょう。その多いことを、自分の信の力を入れて念ずるから、その思うことがかなうておかげとなるのです。お経文には八万四千と書いてある。先生は八万四千とおっしゃらずに、四万八千とおっしゃった。癖が有るのです。そういう訳で、この百四十七条は、百四十五条に言うたことと、百四十六条に言うたこととを合わせて百四十七条になっているとお思いになったらよろしいのです。
これはあんた方が、常々お考えになっているのでおわかりになっていると思いますが、念じることが皆違います。
仮に念ずることが似ている二人の人があって、同じこと願っているとしますか。その二人の因縁が違うのです。 生まれ方が違うのです。その人が、この世で育った所の家柄、家の風、因縁、そういうものが違いますから、同じこと念じているにもかかわらず、そのお陰というのは、又二人に別々に有るのです。これを植物にたとえてみます。
とうもろこしをみてみますと、自分のうちには白粒のものを作ってある。その付近に赤い色の粒のものを植えてあったとします。あるいは又、あるおうちは西瓜を作っておいでる、そのおうちの横へ、白瓜を作ってあることをみることがあります。そうして両方のお家は、同じく並び田んぼであって、肥料もやるのも、ひどう変らず、近い所でございますから、日の照り方も、あるいは水のはけ方、湿り方までよく似ているのです。そうして、両方のお家とも、西瓜の甘いのができるように、又片方は白いとうもろこしができるように、又片方のお家は、赤が好きなので、赤のとうもろこしができるようにと、念じておりますが、赤いナンバの中に白い粒ができたり、白いナンバを植えてあるところには赤い粒がまじっていたりして、ちょうど両方とも「おこわ」のようになります。又、白瓜はあますぎ、西瓜は水くさくなります。これは不思議なことと思いますが、そこが、因縁が違うためです。念じることや、世話することは同じでありましても、その花粉が飛ぶという因縁が有ります為に、大きな西瓜が水くさくなって、白瓜が甘うなったり、おこわのナンパができたりするということは、目に見えん所の働きが有るからです。
これと同様に、同じこと信じて居る二人の人が有りましても、その方のこれまでの因縁が違いますし、思想も違います。心も違います。体質も違います。こういう訳でそこの二人のお陰が同じにはなりません。
又、もう一つ例をあげて申しますと、同じ神様を信仰している。拝む人でございますけれども、その拝む人の行や徳の積み方に因りましてお指図が違うてきます。ここを先生は「自分というものを無にしなければいかぬ」とおっしゃるのです。人間的自分というものを考えないで、そうして教えの通りの生活をして神様にお願いするとよく似たお陰になるはずなんでございますから、先生はここをよくお調べになっとると思うて、私は感心しているのでございます。
(昭和三十五年四月三十日講話)
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第一四八条 「お蔭は信仰によるのである。信仰は『神が人を助ける』ということを疑わぬによって起こる。疑わねばおれぬのが人間である。 この人間に信ぜよとか、疑いをはらせよ、ではだめである。 かかる人間の前で、神様に働いていただくのである。その時は 最早、信ぜよの言葉も必要はない。神様に働いていただくには 神に通じた人でなければ、できぬ仕事である。この人は、天地の代表者というてよろしい。それであるから、天地も、この人のいう通りになるのである。であるから、人間の常識を離れた 不可思議な事が出きるのである。」
神様、仏様にお仕えしている人は、人を助けることができる。その助けてもらう人の、性質によって神さんが細工して助けるということなんです。これは、泉先生にお付き合いした方なら、よくわかるのでございます。たとえば、同じ観音様でも三十三観音有ります。聖観音というのがあり、千手観音というのが有り、白衣観音というのが有り、観音様が三十三有るのです。この西国三十三ヶ所の観世音と、先生が念じておいでますが、これは同じ観音様が、人助けするのに、すべて人間は思っていることが違うし、性質も違うのですから、その人間に応じて観音様が、三十三の変化身によって、人間各自に得心させて助ける訳です。ですから、この百四十八条に書いてありますことは、神様が人を助けるのは、人間の性質に応じて助けるんだと、こういうことを、泉先生がちゃんと知っておいでるのです。
これはあなた方がどういう風に、お考えになっとるかといいますと、お四国へお参りに行きますと、うっかりせられんのだ、お大師様がどういう風をなさっとるやらわからん、どんな風で我々の目に見えるか、わからんのだから、たとえつまらんお遍路はんじゃと思うても、調子おろしてはならん。こんなこと、お四国を廻った人がよくおっしゃる。
私、そんなこと聞いたこと有りますが、これはお大師様が、人間を助ける上に、その人間が得心するように、あるいは、油断するように不思議を、見せておいでるということを、四国に回った方が、おっしゃるのでございます。
そのことなんです。先生がおっしゃりよるのは。自分がおかしいこと考えとると、神様の方からおかしいもの見せられるんだ。それで、真心で、神・仏にお参りせんと神様が化身として現われて、どんなことなさるやらわからんぞ。
と、こういうことを先生がおっしゃっとるのです。まことに先生は、お偉い方で、教え方が、まるっきり経文に書いてある通りの教え方なさっております。えらいむつかしいことお話しいたしましたが、かいつまんで申しますと、神様がご自分のお姿を変えて人間を助けるということなのです。
(昭和三十五年四月三十日講話)
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第一四九条 「自分の寿命は、天命の十五分前まで存在しておるといえよう。この自分という考えがあって、いかなる人も自分の心中に賊のいることを知らねばならぬ。これを知ると同時に、この賊を滅ぼさねばならぬ。さてこの賊をつかまえて見ると、自分という者であることがわかる。そうすると、この賊を滅ぼすには、自分を滅ぼさねばならぬことになる。そこで、この自分を殺してしまった後に、蘇生させて、はじめて真の人となるのである。 これから、神のお屋敷の門にはいれたのてある。これを大死一番と言うている。」
自分というものに二通りあることを、ご承知願いたいのです。ただ人間は自分自分、というておりますけれども、自分というのには人間的の自分というものと、もう一ツは、天地に通うている所の自分というものと二ツ有るのです。 それで、この人間の寿命です。命というものは、自分の息が止まった時に、それを天命が済んだと言いますが、その天命が終わる。すなわち死ぬ前の十五分間前に、自分というものが有るということがよくわかると言うのです。
もう一ツ言い換えますと、寿命のきれる時になると、何もわからんようになるのです。何もわかりませんけれども生きておるのです。わからないというのは、自分というのが眠っているから知らぬのです。その自分は、眠っているけれども、まだ生きている自分というのがあります。すなわち、天地に通っている自分です。このニツの自分があるということがここでわかりましょう。
その自分とは、どんなもんぞ。苦しいとか、もう死ぬんだとか、何とか知っている間は、まだ自分が目覚めとるんです。その自分というのはどんなものかと捕えてみると賊じゃというのです。心の賊じゃと、なぜ心の賊じゃというかといいますと、本来自分というものが無しになる。すなわち無我でありましたならば、神・仏のような実にさっぱりした欲のない、き麗な自分であるべきはずなのです。ところが目覚めると人間根性で、きたなくなる。それで捕えてみると何が寿命というものを知っとったんぞというと、捕えてみると自分で有ったとこういうのです。
あんた方がよくおっしゃっている、あの「うわごと」です。熱が高くなって、自分で知らずとうわごと言っている。こんなことをよく私は聞くのでございますが、そのうわごとの中に、なかなか大した問題があるのです。非常によくわかる。驚くべき力が現われております。私も今までに、だんだん国替えをなさりよる人にお付き合いいたしましたが、その言っている言葉を聞いてみますと、先のことを言っている場合もあるし、後のことをよく知っている場合もあるし、いずれにしましても目が覚めて気が付いた時には知らんようなことを、自分が知らずして言うている。
すなわち、天地に通うている自分が言うておるのです。それは誠に驚くべき大きな力で言っています。自分が苦しいとか、もうこら助からんとかいうことは寿命のある間、自分がわかっとる訳です。その自分というのを、一たん無しにしてしまわんと、ほんとうの人間の力は出ないと言うことです。で、禅宗当りでよく言う「大死一番」とは、文字で書きますと、大いに死ぬと書いてあるのです。ただ、死んでしまうのなら、大死とは言いません。一たん死んで 人間根性を洗いのけてしまって、生きかえったものが大死、大死一番と言うのです。そういうことをこの百四十九条に書いてありますので、もう少し、手短くわかり易く言いますと、人間根性をのけて、ほんとうの神仏に通ずる大我と言いますか、天地に通う自分、その心になったならば、人間は大きな幸である。大きなお蔭をもらっとると、いうことです。これを大死一番といいます。あるいは悟りが、出来たともいいます。これはなかなかむつかしいようですけれども、信仰では「大死一番」せなければ、ほんとうの信仰は届かん訳でございます。そのことを書いてある訳です。これを、一ツ例を上げて申しますならば、私の弟が、京都の大学病院へ入院していまして、折々私は、こちらから京都まで見舞いに出ましたのでございますが、行く度に「にいさん、今日どの道回ってきたな」とか、あるいは「今日はおみやげに、こういうものを持ってきて廊下に置いてあるな。」とか、もうそれが適確に当たるのです。よく知っているのです。ある時、弟の体が大分良くなりまして、弟が寝台から下りて歩いて見ようかとうようなことを言いよりますし、医者も、それをしても良いというようなことを言っていましたから、生駒さんの方へ私参りまして、そして生駒さんで、竹のつえを買って、京都へ見舞いに行ったのです。そのとき、寝台の上で寝て居まして、こういうこというのです。「にいさん、あんた今日は私に足をたすけるもの買うてきてくれたな。」「ええそうじゃ、足たすける。なる程なあー、つえ買うてきた。うん。」「その杖に、にいさん字書けえへなんだで。」「はあ書いた。」 ところが「字が一ッ間違うとる。」と、こういうのです。で、そのつえは廊下に置いてありました。私は、まだ見せてないのです。「そうかいなあ。」と心でいいました。私は電車の中で、ナイフの先で竹のつえに歌を一寸書き込んだのです。歌は今一寸忘れましたが、そのすがって立てる、これがつえになるんだというようなことを歌に書いたのです。その「つえ」という字が違うているというのです。寝ていてね。そんなにいうものですから、私は廊下から、 そのつえを室の中へ持ってきてみますと、つえ(杖)という字が、枝になっているのです。杖は丈という字、枝という字は間違いです。よく似ていますけれども、私そのとき感心したのです。なるほどこれ、枝になっている。一字違うている。そういうことがございましたが、これは何も弟のことに限りませず、もう国変えの前には、そういうふうに自分というのは消えていますから、非常に神・仏に通うてよくわかる。ということになるのです。そして良くなったら又消えるのでございますけれども、その力が現われているままで、良くなっていけば、悟ったということになるのです。そのことを、この百四十九条に書いてあるのでございます。
ちょうど人間が国変えする、その寿命期がきまる時に、こういう有様が有るが、その自分の心の中の賊、すなわち自分というものを追い出してしまって、後へ残る、き麗な自分になったら一生涯、大きな徳であるということを書いてあるのです。これは何も死ぬ前だけではありません。生きているままで、こうすることが、最も得ぞということを泉先生が教えて下さった訳です。
(昭和三十五年五月十五日講話)
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第一五〇条 「神は、すべての物を造り出す。人は、何一ツも造り出すことができぬ。ただ、できている物を、集散するだけである。卵は、何からできたか、鳥がこしらえた。鳥は何がこしらえたか、卵からできた。その卵は何がこしらえた。鳥がこしらえた。いつまでいってもはてがない。これは、鳥は神が造ったのであると、いわねばならぬ。しかし、進化論を持ち出してはならぬ。 進化するということは、生物の望みを神がかなえて渡したので、すなわち、神が造ったということになるのである」
ある小学校の生徒が、先生に「先生、卵と鳥は、どちらが先に出来たのですか。」と聞いた。先生、困ったというそうです。なる程そうです。ここに書いてある通り、卵は何が造ったかと言ったら、鳥が生んだに違いない
それでは、その鳥は何からできて来たかと言うと、卵から生まれてきた。これを幾らくりかえしても、おなじことになるのですが、ここが大事な所でありまして、泉先生は、そういうことをここで、はっきりおっしゃっているのです。なかなか、実に泉先生のお力は驚く位、立派なものです。
これは、何を説いているかと言いますと、不生と言いまして、真言宗あたりでよくお墓の上に書いてある、ぼん字のあの字を書いて有ります。あれは、あ字と申して、不生、生まれたのでないということを、あ字、不生の原理と言いまして有り難い文字があの字なのです。それは何かと言いますと、生まれたのでないことを、知るということなのです。そこで、この卵も鳥も生まれたのでないということを、私がこれからお話しいたしますが、これは何回もお話しいたしました通り、この宇宙というのは、はても、きりもない、非常に広いものでありまして、ここはお日さんの世界です。太陽を中心として、地球、月、あるいは火星とか、土星とかいう星がクルクルと太陽を中心として回って居る所の世界なのです。太陽の世界、こういう世界が何千も何万も有るのだそうです。宇宙は、どこまで行ってもはてしがない。こういう大きな世界を宇宙といっておりますが、そんな大きな宇宙の話をしても、取り止めがありませんから、小さくして、この地球のことについて、お話を申します。
今、地球は表面には、山有り、川有り、海が有り、色々高低になっておりますが、中には又、火山と言って火をふいている山が有ります。この地球が、下から煙や火をふいている、湯が出て来る、そこを温泉と言うております。 地球のしんは熱い火に違いないと言うので、それをもし掘っていったらどうなるかと言いますと、約三三m(百尺)掘り下げると一度増すそうです。摂氏の一度ですから、約(四キロ)一里掘り下げたら百度を越す湯が沸いている訳なのです。火が有る訳なのです。もう一ツ言い換えますと、この地球の冷えとる皮は、厚味が約四キロ(一里余り) あるとこういうことが言える訳です。元は火の球で有った。所が何十万年、何億年とたった今日になりました場合にこの表面が、四キロほど冷え込んどる訳です。元、火の玉で有った時に、何が生まれて来るかと言いますと、その上に何も無かったに違いないのです。無論動物とか、草とかこけとかいうものは有ろうはずがない。火の球ですから。
所が年代がたつに従って、ソロソロ冷える。すると冷えて来ると、水がたまって来る。まるでどろ田のような表面で有ったに違いない。そこへ初めて生まれたものは何かと言いますと、顕微鏡で見なければわからないような小さな生物が生まれたのに違いない。これは生まれたんでないのです。自然に火の玉から新宅したというような形で、できて 来た訳なんです。生まれるのには種が無ければなりませんが、そのときは種が無かったはずです。すなわち、火の玉が、そこへ生き物となって、変って生まれて来たと、こう言わなければならないのです。それを今日では色々な名前をつけております。
つまり顕微鏡で千倍にもして見なければわからんような生物、それが我々のご先祖です。それがだんだんと変わってきまして、魚も出来るし、あるいは鳥もできるし、蛙も出来るし、又ライオンのようなものも次第と出来るし、人間もできた。こういう風にして、次第次第と立派な生き物ができて来て今日になっとる訳です。その中に鳥も入っとる訳です。だからはじめは鳥というものが生まれたということになる。元々不生、すなわち生まれたのではない。
火のたまのばけ物が顕微鏡で見んならんような、それが生物になった。それが次第と出世して、鳥の元が出来た。
はじめは、殖えるのには細胞分裂と申しまして、雄も雌もなしでニツに割れてふえて行っきょったのが、次第に雄や雌が出来てきた。そこで卵が出来てきた。そういうことになるのでございますから、不生、生まれたんじゃない。火の玉の新宅だとこういうことになる訳なので、非常にむつかしい理論になる訳でございます。しかし、これはもう間違いないことでありまして、お釈迦さんは、これを不生の原理と申しまして、生物は元々生まれたのでない。火の玉から変わってきたんだ。こういう有り難いお説です。
今日の学問は非常に進んでおりまして、月の世界までも飛んで行けるようになっています。けれどもやはり、お釈迦さんのおっしゃった、その真理はそうだということを述べております。一ツも変わって居りません。生まれたんでない。元々種が有って生まれたんでない。その種というのは無いのです。火の玉そのままが、進化してきたんだということになりますから、こういう考えからいきますと土も、岩も、水も、木も、すべて生き物ということになります。 天地の魂がこもっとる。そういうことになりますから、宗教は不生の原理、すなわち生まれたんじゃないということから大事な信仰が生まれて来るのでございます。泉先生は、こういうむつかしい理論でも、お知りになっとった訳です。それを鳥と卵の話で、我々後々の者がわかり易いように教えて下さっております。
いつか申しましたように、すべて生きとるんだ。死んどるもの一ツも無いんだ。こういうことになりますと、天地の、いわゆる宇宙の魂というものは、土や砂粒の間で眠っとると言えるでしょう。たとえると寝とるんだ。死んでいるのでない。すると、草や木は夢見とるんだ。これは草でも木でも、芽が出たり、花が咲いたり、実がみのったりし ます。これは生きとるということが明らかにわかるけれども、これも夢見よるという位のものでしょう。動物になって初めて目が覚めた。人間になって悟りが出来た。こういうことが言える訳でございます。それで、泉先生は、木切れ、竹切れでも念ずれば神だと、こういうようなおっしゃり方をなさっております。死んどるもの一ツも無いんだ。
皆、魂がこもっているのだけれども、人間は我という根性の為に、一生に大きな損をしている。ほんとうの神様の子なんだからして、その生まれたままの魂で行くならば、人間は、神や仏と同じ性質を持って居るんだ。こういう風に泉先生は教えているのでございます。今日、経文に書いて有ることと泉先生がおっしゃったこととは、一ツも変り有りません。そういう風に、卵と鳥とにたとえまして、生まれたんでない。不生の原理であるという尊いことを、先生がおっしゃったかと思いますと、実に有難さが身にしみる訳でございます。
(昭和三十五年五月十五日講話)
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