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第一二二条へ 第一二三条へ 第一二四条へ 第一二五条へ 第一二六条へ 第一二七条へ 第一二八条へ 第一二九条へ 第一三〇条へ第一二一条 「えびや、かにのように、わが身を守るのに精を入れているものには、毒なものが多い。草木も人もその通り。」
生き物は無論のこと、草木でも、自分の体を守っておる。その体に、守る所の武器を持っておらんものは、体に毒を持っている。この毒が武器になっている。こういうことを、先生がおっしゃっております。あんた方、なまこをご覧になったことありますか、なまこというのは、これは鳴門の潮を見に行った時に、岩の間を見ると、ねずみのような色をして耳がはえております。ああいう柔い体ですが、耳がはえてねずみがしゃがんどるようなかっこうしとります。それを、つえの先でちょっと突いてみますと、とてもきれいな紫色の汁をシューッと吹きます。その紫色の汁が毒なんです。それで自分の体を防いでおります。体には何も武器はありません。かにであると、はさむはさみを持っております。えびもはさみを持っております。又サッと後へけおどって飛びのく所の尾びれを持っております。
けれども、なまこはそんな物持っておりません。触るとそういう毒を出すのです。
それからあんた方がよくお知りになっております「ふぐ」という魚があります。このふぐは、あたりますと、一命を失うという位の毒を持っております。それから海月というのがあります。これはご承知でしょう。 コウモリガサみたようにふくれ広がって、海の上にただよっております。クラゲは、かさをすぼめる時分に中へはらんどる所の水をサッとつきますから自分の体がスッーと動くのです。そういう運動をして潮の中を泳いでおります。あのこうもりがさのふちのような所に、実に不思議な武器を持っとるのです。あれに触りますと、海月に刺されたといいますが、どういう風にして刺しているかと、顕微鏡で見てみますと、あのふちにズウーッとぜんまいのような物の中へ、針を仕掛けたようなのがふちに付いているのです。ふちに触れると、そのぜんまいがシューッと針を押し出すようになっている。その針に突かれるから刺されたというのです。そういう風な道具を持っております。これが武器です。
又、武器を持っとらんイソギンチャクというのが海のはたにおります。ちょうど菊の花みたいな開いたキンチャクみたいな、武器も何もありません。柔かい物です。ところがイソギンチャクも毒を持っております。こういう風に泉先生は、ちゃんとご覧になっとるのです。別に動物学なさったのではないけれども、えびや、かにのように武器を持っとるものは、その武器に頼って行く。武器を持っていないものは毒に頼っていく。こういう風にして、わが身を守っているのです。 こうした動物学の知識は泉先生はちょうど信仰の方からご承知なんです。
ところが人間はといいますと、人間は別に武器持っとりません。爪だってかきむしる位の力しかありません。歯だって、これは、芋にかみ付く位の力です。別に歯でかみ合いするような力の歯でもありません。頭には角があるんじゃなし、まことに武器という物は、ほとんど無い。仏さんみたいなかっこうしとる。その代り武器や毒の代りに知恵を授かっております。この知恵によりまして、わが身を守ります。かりに、敵を害する場合には、知恵で敵を害するという悪い事をします。人間は知恵というところの有り難い物を持っておりまして、毒なものは物っておりません。
まことに有り難い生まれ性であるので、その授かった自分の知恵を、丸く使って、運の良い方にいけるようにしなさいと先生は、おっしゃったのです。それが一二一条です。 どこの魚を見ましても、背中は、赤いのがあり、黒いのがありますけれども、腹は皆白いでしょう。魚の腹は、皆白いのです。烏賊でも何でも白いです。これは何で白いんならといいますと、ちょうどその泳いでいる時に敵が下から見ますと、空へ透けて見るから、皆白うに見えるのです。だから、腹が白かったら敵の目に付きにくいのです。
白い中に白いのがありますから、敵が上から見るとします。その時分には、そのあたりが黒い砂が沢山ある所では、かれいの背中みたように砂のような色になっているのです。あの蝶がべたんと岩にへばい付いていると、わからないそうです。こういう風に武器の代わりに色で自分の体を守っておる。こういう風に、すべてが助かるように助かるようにできております。ところがここを先生がお考えになるのです。
それなら魚にそんな知恵があるのかといいますと、智恵があるのでないのです。すべて動物はそういう風に敵に見つからんようにすれば、わが身が助かる。わが身が助かりたいという事は確かにどんな生き物でも考えております。
それを、自分はそういう事をようしませんけれども、そう思っておればかのうて来るのです。ここが信仰なんです。 魚にも信仰があります。神様、仏さんを念じる信仰、そういう信仰ではありませんが、こうして欲しいと、一生懸命に考えとるに違いないのです。こんな水の中を泳ぐ時に、下からねらわれた時分に腹が白うなかったらすぐに見つかる。こういう事を念じとる為に、自然と腹が白くなって来る。すなわち神仏のお慈悲なんです。魚が自分で製造したんでもありません。自然にそういう恵みを、天地の力によって恵まれる。これがすなわち神様仏様の力なんです。
そこであんた方も、いつもこうして欲しい、ああして欲しいという事を、慈悲の力で使うならば、必ずかなうと、先生が教えたのはここなのです。あれを害してやろうとか、あれを困らしてやろうとかいうものは通らないのです。けれども、慈悲の力で一生懸命念じ、わが身かわいやで念じてもかまいません。それで先生はいつもおっしゃるのです。神仏に願をかける。それは欲じゃないのです。欲でいうんじゃない、願をかけて自分の望みを神様に知ってもらいたい。そうすると望みが必ずかのうぞ、願をかけよとおっしゃったことはここにあるのです。魚がちょうど黒い岩や砂のある所へ行ったら、皆まわりの色のように変りわからんようになっとる。裏からのぞいたら、白いけれども上からのぞいたらわかりません。
この野崎あたりへ行けば、ハゼという魚がおります。あのハゼが砂やどろの上で遊んでいたらわかりゃしません。 それは周囲の色と同じような背中の色ですから、それは、ハゼ自身は知らないけれども、敵に襲われんように、わが身を守りたいというお願がかなったのです。 泉先生はいつも願をかけ、願をかけとおっしゃった意味はここにあるのでありまして、信仰心の薄い人になりますと、お願やかけたってそんなもんかなうか、通るものじゃないとおっしゃりますけれども、中々もって天地の間の、すべての生き物はお願で生きとるのです。私がこう申し上げるとおわかりになるでしょう。自分の望みが叶うたのが今日の色やかっこう、あるいは武器となっているのです。ですから、どうぞ、泉先生の教えは願をかけて、そうして代償払っていけ、自分が生まれる代わりに、何かそこに世の中へ代償払っていけ、代償払うたら必ず守られると、おっしゃったのはここにあるのです。
(昭和三十四年十二月三十一日講話)
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第一二二条 「人は生れながら、身を守る 武器を持たぬ。形から言えば、慈悲の形、姿からいえば、神仏の姿をしている。小さな虫に至るまで、この柔和な形は、見ることは出来ぬ。心も何とかして、神の心を持ちたいものである。」
人間だけはみ仏の姿をしているのです。爪も、虎や獅子のようなあんな鋭いかまのような爪ありません。かゆい所をかく位の爪なのです。何も武器というのは持っておりません。ですから、心さえ、丸く持つならば、いかなるお陰でも受かるみ仏の姿である。こういう事を先生がお教えになっとる。ここをよく聞いていただきたいのです。
と申しますのは、世の中で、のろうとか、恨むとか、呪い釘をうつとか、取り付いたとかいうことをよくいいますが、それは、相手には、こたえないのです。もし向うが誠の道でおる人をそういう事に念じたならは、あべこべに念じた方へ悪いお陰がさがる。これは昔からいう言葉で、あなた方はご承知だろうと思います。「人を呪えばわが身に七分」とこんな事昔から言います。これは向こうへ、ほとんど通らないのです。普通の人であらば、三分通って七分我に来ると、こういうんでございまして、たとえていうと、もし向うが非常に偉い聖人であった場合には、全部自分がかぶらんならん。それはどこでわかるかといいますと、あの妙法連華経第二十五に観音経というのがあります。
その中に書いてある事を見ますと、悪いたくらみをして人を呪うたり、毒薬を盛ったりした場合には、かえってわが身にそれがその通りにかえって来るぞと書いてある。「還著於本人の剣以て呪詛諸毒薬の病を滅す。」という事がそれなんでございます。ですから、どうぞあんた方も道を通って、み仏の教えに従うたご生活をなさりましたならば、いかなる呪いもこたえないのです。世の中によくありますから見てご覧なさい、いかに悪う言われたり、憎まれたりしても、自分は神仏にすがって決してそれを憎み返しをしない。仇打ちしない。そういう人は立派に運を開く事が出来ますが、一方呪うたり、悪う言うたり、憎んだりした人は、あべこべに七分まで、七、八分目まで自分にかぶるということは、あなた方もご承知のことと思います。あまり私は申しませんが、そういう意味で私は泉先生の教えの通りに、いかに言われても、いかにせられても、決して恨み返しをしたり、あるいは仇打をしたりいたしません。ところが、そういうお話し申しますと、ひょっと間違う事があるのです。そんなら忠臣蔵の仇打はいけないのか。こういう事になる。あれは、仇打ではありません。よくお考えになってご覧なさい。そのご主人に自分は大変ご恩になった。ご主人であるが為に、ご主人をお喜ばし申す。ご安心をして、差し上げるという為にご主人に代わってしたのでございますから、仇打ちといいましてもこれは、わがに悪いことせられたからそれを、オンデン返しするというのと意味が違いますから忠臣蔵のあの仇打の事は、立派な行ないでございます。ああいうものを泉先生は、いかんとおっしゃったのではないのでございますから、この点をお間違いのないようお頼みしたいのです。
(昭和三十四年十二月三十一日講話)
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第一二三条 「迷うが故に三界の城、悟れば即ち十方空、本来東西無し、何ぞ南北あらんや。」
このお教えは、弘法大師の言われた文句でございますが、この迷うが故に三界の城......四ツに切ってお話し致します。何で迷ったのか、この世の中で迷うのか、こういう迷いの原因を書いてある訳です。ところが中には「おれ迷うとれへん」という人があるかも知れませんが、もし迷うておらんというならば、その方は聖者です。すなわち座して真理を知り、一切自分の心の中に苦悩無しというような人ならば、おれー迷うとれへんというてよろしいのです。
けれども、そうでない限り迷うておるといわねばならん訳です。
何で迷うているのか、と迷うている原因を捜してみますと、欲にあるのです。この欲というものは、人間を非常に迷わしてしまうものです。おれ迷うとれへんという人はありますけども、欲がある限り必ず迷っているのです。
欲とは、どんなものが あるかといいますと、六ツに分けております。これは どの生きものにでもある 欲でございます。食欲あるいは寝る欲、寝る欲は、欲の中でも欲でないという人がありますけれども、寝なければどうですか、一週間寝なければほとんど病人になってしまいます。一月も寝なければ死にます。この欲というのは、自然から来る所の一ツの眠たいという欲なのでございます。これも欲のうちに入っております。それから楽をしたい、こういうのも欲でございます。ご恩返しに働かないかん、じっと休んでばかりではいけません。どの動物見ましても皆、仕事をしているのでございます。仕事したくない、これ欲なのです。道楽欲という方です。それから異性欲、これは天地自然の本能欲です。これもなるほど、欲と名付けてある通りに、それは、全々抑制の出来るものです。けれども、これを本能の通り、本能の命じるがままに放置するならば、世は乱れてしまいます。それから、この欲の方には貧る、我が物にしたい、何でも欲しいという欲もあります。
欲は六欲と申しまして、六ツと書いてありましても、なかなか六ツやではありません。実に欲の種類は数限りなくあります。一口に申すならば、自分という者を、好きな所へ持って行きたいという欲なのでございます。それが欲です。欲の性質を一口で説明しますと、自分を自分の好きな所へ持って行きたい。置きたい。そうしたい。これが欲の原因でございます。六ツぐらいではありません。実に多種多様な欲があるのでございます。欲界、六欲天といいまし て、天の字の付く欲もありますが、これはすべての願望がかないまして、出世しとる人を六欲天というのでございます。しかし六欲天といえども、物の力で自由にする、あるいは権力によって自由にする外は、すべて自由にならないのです。たとえば病気だとか、生命だとか、運だとかいうものは、自由になりません。ですから、ここに苦悩が起きるのです。六欲天、天の字が付きましても、まだいけない、これを欲界と申します。三界の城、三界と書いてあるでしょう、その中の一ツ、ただ今お話しいたしましたのが欲界、これは欲ばかりで明け暮れしとる人です。
その他に、色界というのがあります。これは、欲が無いのです。今申したような六欲はありませんが、物質欲があるのです。これはどういうものか、物的と申しましても、物が欲しいという欲じゃありません。そういたしますと、 神さん仏さんというのは、無いんだということになるのです。物を離れて何があるか、人間にしても自分の体は、物で出来ておる。だからして、この物の生活が止まって、腐ってしまえば、それでおしまいだ。何も無いんだ。こういうのが色界というのです。この色界というのは、物質界ということです。もう一ツ言い換えますと、これは唯物論です。唯物論すなわち科学者のような人は、唯物論の人が多いのです。神さん仏さんを認めない。人間の精神を認めない。これも欲界です。欲界の中に入るのです。三界の中に入る。
もう一ツ今度は三界の一ツという無色界というのがあります。色界に対して無色界。色が無い世界と書いてあります が、色というのは物質という意味ですから、色という意味でない。物質という意味ですから、物質論でない所の世界がある。人間の世界に、これは唯心論者です。それで物質を離れてしまって純粋の精神だけだ。こういう理論を立てる人です。そういう人の理論によりますと、ここに一ツの煙草なら煙草、煙草の箱というのがある。現在自分の目の前に見えておるけれども、それは夢だというのです。唯心論者に言わしたら、それは夢だ。その証拠に、ある人には見えない場合があるという。気違いなんかには見えない場合があるという。気違いなんかには見えない。煙草なんかは、見えるかも知りませんが、今ここに何もない、何もない空っぽの所へ持って来て、恐ろしいものが出て来たとかあるいは恨めしい人が出て来たとか、無い物が見えるようにいうのがありましょう。これは、あんた方ご承知でしょう。それは一種の精神病だというけれども、精神病でない者でも、それがあるというのです。ほとんど精神があるが為に、物があるんだ。物質というのは無いんだ。こういう理論を立てるのです。精神に異常ができた人からいいますれば、無い物が見えたり、見えなんだりするのです。そういうのも一つの病気です。迷うとるのです。もう一ツただ今お話ししたのをいい換えますと、迷うているから三界の城ができて、攻め合いをするんだ、こういうのです。
お大師さんがおっしゃったのを言いますと、欲ばかりの人は、無論迷うとるから、人とようけんかもする。つまり城を築いて攻め合いをする。戦いをする。欲ばかりの人が寄ると、必ずそれをやるに違いない。又物質論者、何でもかんでも物から出来とるんで精神なんか認めないという人が寄っても、又けんかの元です。三界に城を築いて攻め合いします。又、唯心論者、物を認めない、心だけで世の中があるように思うのです。なるほどそういう所もあります
けれども、唯心論者が言うごときことは、間違いです。
もう一ツ簡単にいいますと、欲ばかりで明け暮れしておる人、これは欲界それから物質のみを認めて、精神を認めない所の人、これは唯物論者。それから精神だけを認めて物質界を認めない所の唯心論者。この三ツを三界というのです。それで迷うが故に三界の城、今申した所の三ツの人は迷い、必ず迷うとるのです。迷うとるからして本当の極楽世界を人間が築けるという事は知りません。自分は尊い所の宝を持って生まれとるんだという事も知りません。
それが為に、わしが良かったらええということになる。 結局今日までの世界の状況を見てみますと、西洋歴史でも、東洋歴史でも、この地球の上においての歴史も、今日までの人間の歴史が五、六千年ございます。ある国は栄えて、ある国は又衰える、攻め合いをする。実に今までの攻防の有様を見ますと、ちょうど花火を上げとる、あしこへ花火が上がったかと思うと、それが消えてしまう。こういう風に変化をしております。
日本の国は、目出度いことには、神武天皇以来二千六百年の今日に至るまで皇統連綿として、続いとる立派な国です。こんどは、戦争に負けて少し黒星が付きましたけれども、これとても、けつまずいただけであって、皇統連綿とした、皇統譜には傷は付いておりません。こういう立派な国は、世界にはたった日本一ツしか無いのです。
この前にも剣山へ宝物が埋まっとるから掘りに行かんかと、掘りに行った人もございますが、これはソロモンの宝といいまして、今から四千年程前に、イタリャにユダヤという国がありまして、非常な文明国でありました。どんな建築でも、どんな事でも、その当時としては実に立派な開けた国であったのです。今こそ、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、ソピエトとかいいますけれども、その当時におけるユダヤという国、そこのソロモン王は、ご殿をダイヤモンドや、ルビーや、サファイアーなどの宝石でもって軒へずっと飾りを入れていたそうです。
夜になって灯がつきますとキラキラと光って、実に美しいご殿に住んでおったのです。そのユダヤが攻め滅ばされてユダヤ民族は各国へバラバラになった事は、皆様ご承知でしょう。あの有名なソロモン王の宝物を持って日本へ逃げて来た者があるというのです。その宝物を剣山へいけてあるんだと、こういう伝説があるので掘りに行った人がある訳です。こういう風に世界は、実に国が興ったかと思えば滅ぼされ、色々千変万化しております。ペルシャという国もありますが、これも非常に強い国でありました。今は衰えております。イタリヤもそうです。ドイツもそうでしょう。
こういう風にまことに変化極りない哀れな歴史を残しております。あなた方もよくご承知のあのロシヤ帝国、ロシヤが滅びまして今はソビエトとなっておりますが、あのロシヤの皇帝とその一族は、どこへ行ったのか、ありかさえもわかりません。暗殺されてしまったのでしょう。哀れな話しでございます。
こういう風になるのは、どういう原因かといいますと欲に迷っとるのです。強い者が弱い者を滅ぼしたということになっているのです。その元を正すと欲にあるのです。だから、ここに書いてあります通りに、そういう欲の迷いで城を築いて攻め合いするのと同じだ。人間は三界の城を築いて攻め合いしているのです。欲な者はいうに及ばんが、無欲な所の物質論者でも、あるいは無欲な精神論者でも、これも迷うとるのだから、けんかが絶えんのだ、三界はことごとく迷いのけんかしとるのだ。こういう事が迷うが故に三界の城というのです。これはむつかしくいうてありますけれども、簡単にいえば、欲があっても、無うても、悟りの出来とらない者は必ずけんかをする。わが身息災のけんかをする。あなた方がお考えになっても、自分が良かったらよい、人のことは考えない。又天地の法則というのがあって、こうしたら、こうなるんだということがあるにも拘らず、迷うて、そうしてその中へ落ち入って哀れな最後を遂げるという事も日に日に見ることでございます。すなわち、迷うが故に三界の城、こうなっとるのです。
簡単なことは、あなた方よくご承知でしょうが、その戦争前と戦争後と、どうですか、大津でも大いに変っとりやしませんか。無論大津ばかりではありません。全日本は、この戦争という波乱の為に、実に哀れ果敢ない最後になっておるような、お家もあるし、又迷いの浮き雲に乗ってサッと飛び上がって、偉い出世したように見える方もあります。しかしながら、これを信仰の上から見ますと迷うておる所の一つの浮雲です。成功しましても、又、落ち入っていましても、これは一時の波風にあおられたにすぎません。そこに悟りというものがあるならば、いつまでもこれは続くお家に違いないのです。こういう事を信仰する方は、大いに注意してほしいと思うのです。 栄枯盛衰と申しまして、家が栄えたり、衰えたりすることは、これはありうることです。しかしながら塗炭の苦労をして一家全滅というような事は、迷いでなかったらないことでございます。たとえ家貧になるといえども、笑うて暮せば長者よりましでございます。そういうような悟りを悟らそうとして、弘法大師はこういう言葉をお書きになった訳です。「悟れば即ち十方空」その次の句が悟ればすなわち十方空なんです。悟れば即ち十方空、これはどんなのかといいますと、悟ってみると、自分というのが無いんだというのです。自分という欲があるから、自分というのがあるように思うている。悟ってみると、自分というのは無いので、人も我も同じだ。世の中は、いろいろ変化しとるけれども、これ皆自分の一部分である。自分というものを認めなかったら腹が立つこともありません。けんかもありません。迷いもありません。自分が無いのですから、迷う訳が無い。そうなって来ると、どういうものが生まれて来るかというと、落ち入っている者、あるいは没落している者がかわいそうな、迷うておる者がかわいそうなという心が起きるのです。自分というものがない。そうして世の中を見はらして見ると迷うとる者ばかりですから、苦労しなくてよいのに苦労しておる、腹立てなくてもよいのに腹を立てている。そうして終には、病気になっている。苦労してついには死んでしまっている。これを哀れと思わなならんようになって来るのです。悟ってみると何もないのだ。
空んぽというんじゃないのです。すべて我が身と同じものだ。そうなって来ると、腹も立たん欲も無い、お互いに助け合い、お互いに助け合える。こうなって来ると、もう無論何事も問題起こりません。戦争やけんかや、警察や、裁判所や、いりません。本当に極楽世界に住んでいるような事になりますから、十方は開け放し、つまり開き方ということです。十方あき方と同じなので楽なものだ。こういう風な世界、十方空の世界というのは極楽世界の事です。
どちらへ行ったとて差しさわりない。どうですか、あなた方迷うとるから世の中、こういう風に、その苦労が多いんだと悟ったら、何もつらいものが無い。こういうことになるのです。ここは大事な所ですから、よくお考えになってご覧なさい。
自分という者があるから悪口いわれたら腹が立つ、金が無しになったらケチになる。金が出来たらおごりになる。ぜいたくになる。これ皆迷いです。自分という者を便利にしよう、自分というのをきれいにしよう、人はどうでもよい。ここに争いが起こって来るのです。もし自分という者が、無いものだということを考えたならば、すべてどちら向いても、神さんのたたりも無ければ、仏さんのたたりもない。有ろうはずがない。自分が神さんですから、自分が神さんと同様ですから、自分というのはないのですから、慈悲に燃えとるのですから、どこにさわりがありますか。たたりがありますか、そんなものは無いのです。何も苦労が無い、死というものは恐れない、自分が無いのですから。ここが大事な所です。
それなら、自分がどうしてもあるように思うのはどうしたのかというお方があるだろうと思います。必ずあると思います。けれども、考えてご覧なさい。自分という者がオギャーと生まれた時分に、自分がありますか、自分というのは、オギャーと生まれた時でも無い事わかるでしょう。ただ生きとるという事だけであって、そこに迷いというものがない為にちょうど赤んぼうみたいなものでしょう。生きてはおる、しかし赤んぼうはよく泣きます。おなかがすいて泣きよるのです。悟っていないから、そうなんですけれども、大人になって悟りが開けた場合には、もう苦が無いのです。腹が減ったら食べたらええんでしょう。そこに苦が無いのです。この自分という者が無いんだという事を知るだけでも、大きな悟りです。
どなたでも、今集まっておいでるあなた方は、自分というのがあるように思うておいでる方もあると思います。
それならどこが自分ならと捜してご覧なさい。わしや財産、というのが自分かいなと、考えて見た。財産が無しになったとて、自分減りはしません。名誉もその通り、名誉の全々無い人で有りましても、自分というのはやっぱり同じことです。この体が、自分かと、考えてご覧なさい。五体が自分であるか、そんなら戦争に行って、手や足を失うた方は、自分というのが不自由になっとるか、もちろん、自分というのは同じことです。どんな大きなけがしたって、自分というのは同じことです。少しも減っとりやしません。すなわち不垢、不浄、不増、不減のものである。自分と思う、自分というものは、捕えどころのないものです。世界中に広がっとるものともいえる。又よく考えないと、零に近いものにもなるのです。自分というものは、どこにもありません。考えてみてご覧なさい。
ある人が言いました。「自分という心は体の中にあるんじゃ、」こう言うた、そうすると、お釈迦さんがその人に「そんならお前さん、自分という心が自分の体にあるのであったら、食べたものが胃袋の中にあるの皆わかるか、今胃袋がどんなになっているか、腸がどんなにかなっているのか、わかりそうなものじゃ。」「わかりません」「そうすると、体の中に無いなあー、」そういうお釈迦さんが談段を詰めると、「そんなら外にあるんでしょう。自分というのは体の外にあるんだ。」「外にあるのならば、盤状の槌持って行って泥でもたたいたら自分の体へ響いて来て痛いだろうけれども一つも痛うない。外にも無い、内にも無い、針で突いたら一寸痛い、その上皮にあるんだろう、上皮、皮がむけたからといって自分は、一つも減っとりやしません。」こういう風に自分というものをためしにお暇な時に考えてみてご覧なさい。自分というのはどこが自分だろうか、どこにも自分というものはありません。一つもありません。自分という者は考えると、今富士の山へでも飛んで行ける、支那へでもアメリカへでも飛んで行ける。考えた所へ行ける。それが迷いのない人であると考えた所へ行って、はっきりと物を調べて、間違いないことを見るのです。泉先生がそれであった。どこへでも行ける自分です。それを迷いますと、自分が次第次第と固定してしまって、石垣にへばり付いたカキみたいに動けんようになってしまう。そうして欲ばかりに埋まってしまって、欲の為に日夜責め苦に会っている。これを欲地獄というのです。ためしにこれは、私があなた方にお話し申しますが、一つお暇な時に自分というのは、「どこが自分かという事を考えてご覧なさい。いかな偉い人でも、自分というものは、つかみ得ないものです。これが空なんです。空というのはこんなものです。十方空、どこへ行ったとて、どこを尋ねたとて、自分はおらないんです。ところが自分は考えた、どこにでもおるのです。それなら自分というものは、無いのかというとあります。あるのかというとどこにも無いのです。それだから空の字使ってあるのです。無いんじゃないのです。空なんです。どこにでも無いが、どこにでもある。こういう不思議な力を持ったところの自分という心が体の中に納まっているということは、まことに有り難い事ではありませんか。もしそれで、迷いが無いような修行ができましたならば、すなわち聖人でございまして、座っていて千里でも万里でも事がわかる自分の心を持っとるはずです。
お医者さんは、性根は大脳にあるんじゃ、頭の中の大脳に、わずか五寸差し渡しの鉄鉢の中へ、富士の山でも入るんじゃございませんか、考えるとどんな大きなものでも、自分の中へ入ります。どんな小さい物にでもなる。 これ位千変万化極わまりないもので自分という考えは無いのです。これがすなわち、お釈迦さんが、「天上天下自我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」とおっしゃったところです。自分ほど尊いものは、ないんじゃ。これは、自慢しておっしゃったのとは違います。これはたびたび言いますが、お暇の時に静かにお一人になってよく考えてご覧なさい。自分というものはありません。この自分というのがあるように思うのは、なぜかというと、それは天地が通うてきて、自分というのがあるように思うのです。そういう風に、自分というのを無いものじゃと、考えた時に初めて悟りが出来まして、十方どちらを向いてもアキホになるんじゃという事が十方空なんです。
その次に「本来東西無し、何ぞ南北あらんや」と書いてありますが、これは西というから東があるんじゃ。何しに南や北があるか、こういう事なんです。これは たとえなんですが、私が一つ本来東西が無いという、お話をいたします。今、日本に私がこうして立っている、そうするとアメリカは東です。支那は西です。すると東にアメリカがあって西に中国がある。こういうでしょう。ところが今、東がアメリカじゃと思うて汽車に乗り、それから船に乗って、あるいは、飛行機に乗ってでも、東へ東へ行きましたらアメリカへ来ます。アメリカへ着きます。アメリカから又、東へ東へと行きますと、西じゃと思っていた中国へ来ます。そうして、なお、東へ東へと行くと日本へ帰って来ます。こういう風に東やのいうのは無いのです。西やいうのは無いのです。無いというと話にならんから仮に、日の出る方を東という。日の入る方を西というてお話の便利をはかっとる。まして東西が無いのに南北があるか、こういう風にたとえてお話しをしてあるのでございますから、このお四国遍路の笠の上に書いてある十文字に書いてある所の「迷うが故に三界の城、悟れば即ち十方空、本来東西無し、何ぞ南北あらんや」これだけがわかりましても、もはや大きな立派なお陰が受るのでございます。どうぞ一つ、静かにお考えおき願いたい。これはお正月に、こういう事がちょうど当りましたのでございますがどうぞ正月休みに、自分というのは無いのだ。あるけれども、天地に通うた自分だという事を静かにお考えになったならば、大きなお陰でございます。
(昭和三十四年十二月三十一日講話)
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第一二四条 「目上の教育は、すまじき事ぞ。神に念じ、よきに進むよう心に何物も止めるな。恵まれる時至るべし。」
あんた方も、この事については、さぞ、ご経験のある方も多いと思いますが、自分の目上という人に教育するという事は、非常にむつかしい事で、年も上でもありますし、色々な経験を積んでおるので、たとえ悪い方に進むと、こういう場合にでも目下の者が、上の方に向いて、教育はしてならぬ。これは教育がしにくいということばかりでなくして、その結果が悪くなる訳でございます。それなら、どうすればよいかと言いますと、これは、ここにも書いてあります通りに、心にその人の幸福を念じて、そうして口には出さない。心に憎しみを一ツも持たない。どうぞ、その目上の人の見通した策が、よりよく行くように念じて上げる。憎しみを持たない。こういう事が一番大事だ、と先生はおっしゃっているのでございます。
そうおっしゃる先生はどうであったかといいますと、実に心からの孝行な方でした。口でやさしく言うとかあるいは、きれいに言うとかいう表向きでなくして、先生はもう心の底からご両親には、仕えられたものです。その一例と して、お話が残っております事は、ある時その先生の親御が、これ又先生同様に非常にご信心でございまして、伊予の石鎚山を信仰なさっておる。お山も三十六ぺん大先達で通うてお出でたらしいのでございます。その親御が急に先生を呼びまして、親御が 先生を呼ぶのは、庄太郎はんと呼んだらしいのです。「庄太郎はん庄太郎はん」すると 先生は、 「ハィハィ」と言って親御のそばへ行った所が「庄太郎はん、もう少しおまはんを手伝うたげようと思うたんじゃけれども、わしゃ帳が消えとるんで、それで親せき皆寄ってもろうてくれんか」そんな話なんです。それで先生は決して親御の言う事を疑うたり、変な思いをなさる事は一ツもないので「お父さん、そうですかよろしゅうございます」
と言うて、さっそく親せきを呼び集めたのです。親せきは「庄太郎はん、あない言うたけん来たけんど何じゃ、お父さん、何じゃ変わっとる所ない。常の通りじゃないか」それで先生は「まあ、あんた方が言う通りじゃけれど、お父さんのおことばでしたので、相済まんけど来てもろうたのじゃ」、まあこういうような事で、その夕方がきましたのですが、親せきの方皆揃うてお夕飯上がる。その時分に親御が「庄太郎はん、あのなあ、皆に御馳走したげてくれ、それからわしは、あのお粥がええ。やわらかいお粥を炊いてくれ、おかずは、何でもええが、」こういうお話で、それも先生がさっそく親御の言う通りに、おかゆをこしらえ、皆はごちそうでお夕飯を上がったのですが、親御は大きなおちゃわんで三杯も食べたそうです。おかゆを。「庄太郎はん、遠方歩かんならんけんなあ、ようけいただいた。美味しかったぜ。」もう一ツも変わりがない。そこで親せきもこれ何の事かいな、ちっと間違うとれへんのかと思うて、お話なさりつつ夜がふけたのです。そうすると、親御が「さあ皆集まってくれよ。庄太郎はん、こっちへ来てつかはれ、あのなあ、もう時間が来たから、木の葉でなあ、わしの口の中へ露を落とし込んでくれんか」こんなややこしい事言う。しかし先生は先刻から申す通り、一ツも疑いもせずに親御の言う通りですから「ハィハィ」と言うて、お茶碗に水を入れて木の葉で、お父さん口張って、ああーんしとる中ヘポッポッと入れたげた。「ああおいしいわ。」と言うてニコニコなしとる。そうして親せきのかたからそれをもろうて、「ああもうこれでくつろいだ。庄太郎はんなあー、わしはおまはんに頼みたいことが一ツ残っとるんぜ、あの石鎚山の奥の院のお大師さんになあ、お頼みし、お世話なって治っとんのに、まだお礼も申してないんじゃ、あれ又、日を変えてなあ、お大師さんにお礼申してつかはれよ。それだけおまはんに頼んどくけん」「ハィハィよろしゅうございます。」そうして、夜がふけて「さあ、皆集まってくれ」と言うて「わしは、どこも体一ツも悪うない。そだけれども、お大師様がもうこっちへ来いとおっしゃるので今から行きますけん、さようなら。」と言うて火鉢にかかえついてうつ向いたかと思うと、お国替えなしとる。こういう先生と親御との間柄で、実に両方が信仰で、人間の性根使いませんから、これ位きれいな間柄なかったそうです。先生はそういう親御との間柄ですから、別に親御のこと、先生がおっしゃらなくとも、心の内でこうしたら良かろうと思ったら、ちゃんと自然に、そうなさるようになっとるのです。本当に理想的な親御との間柄であったのです。
先生のような方は申すまでもなく、別な方ですけれども、或る家庭のことですが、そこのおうちのお父さんが非常に酒が好きなんです。酒呑むと「ああしんど」と言うて、横になりまして、仕事なさらん。するとその息子はんは、中々よう出来とるのです。お父さんに仕事してもらおうと思ったら、とっくりに酒買って来るのです。「お父さんこれ一ツ食べんかい」「うんそうか、ほな、よばれよう」そうしておいしそうにその酒をお父さんが上がるのです。
又その息子さんが「お父さん気持がええかい」「ああ気持がええ」「ほなそのほろ酔いきげんで一ツ今から仕事に行きまへんか。」「そうじゃな、ほな行こうか」こういう調子で、お父さんにいやな顔見せずして、それでお父さんをお酒で喜ばして、家の為に、仕事に連れて行ったという孝行息子もあるのです。
こういう風にともかく目上の人には、下の人が、こうしてもらいたいと思うた時分には、こうしてくださいとか、お父さんの気ざわりなこと、言わないのです。お父様のなさりたい通りに、見のがすんですけれども、心のうちではこれではお父さんの先が悪いというので、神仏に向かって、お父さんがこういう風にしてくださるように、お願いし心の内で念じとる。これが通るのです。これは、泉先生が、ご自分が孝行であったからして、こういうこといい残しておいでるのですが、私もこれをよく世間で見ますからいかに先生は立派に言い残しておいでるという事を感じる訳です。
(昭和三十五年一月三十一日講話)
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第一二五条 「祈るという事は、神に近づく道である。祈らずとても神や守らんという事は、凡夫のいうべき言葉でない。」
神さんに、お祈りするという事は、神さんに近づいてお頼みするという道なんです。だからして、これはだれしもせないかんのです。祈らずとも神や守らん。「おれ、そんなお頼みせいでも、神さん守ってくれるわ。」という事は、信心の浅い者のいう事でないぞ、こういう先生のお話しなのです。
これは、私が考えますのに、この神さんに願を掛けるということには、二通りあるのです。一ツは、神さんにお参りして神さんの前へお供えをする、そうして神さんの前で、どうぞ今度はこうこういう事をお願いに上がりました。 どうぞ、お聞き届け願います。その代わりにこういう事をいたしたいと思うております。といって神さんにお願いするのが一つの願の仕方でございます。これは、有相の願と申しまして、形のある願でございます。
所がもう一ツの種類は、これはそういう形はいたしません。ただ明けても暮れても、こういう風に守っていただきたい。こういう風にして欲しい。神さんの前では、お約束せんけれども、心の内で思うとるのです。願いは掛けんけれども、思うておる。これを無相の願といいまして、形は無いのでございますけれども、これが一つの願になる訳です。祈るという事は神さんに近づいてお頼みする事だから、それはせないかん。これは誰でもする事である。が神さんに祈らずとても神や守らん。守ってくれるだろうという事は、そういう風に無相の願でございますから、よほど、信心の深い人でないというとゆるがせになりますから、神さんの方は助けて下さろうとしておりましても、人間の方が忘れやすいのです。心でわがが思うとることを神さんに願うとらんのですから、わが好きな通りにして行こうとする癖がありますから、願が届きにくい。だからどうぞ普通の人は神さんにお頼みして、こうして欲しいというお頼みをする代わりに、私は、こういう事を心掛けて参ります。こういう方がよいのぞ。こういう事、先生がおっしゃったのです。なるほどそうなので、私が考えますと、すべて犬でも、猫でも、鳥でも皆無相の願があります。こういう風になってほしい。こういう風にしてもらいたい。これは無相の願でございます。動物が神さんにお参りして、こうして下さい。ああして下さいという願を掛けるのを見た事ありませんが、しかし一生懸命に明け暮れそういう事考えとるとかなうようになるのです。と申すのは一例上げてみますと、あの鳥目と申して、すべて鳥類は日が暮れると、薄暗がりでは、目が見えにくいものです。ミミズクあるいはフクロウとか、夜タカ、それからゴイとか、この夜働く鳥は、これは別なのですが、普通の鳥はもう鳥目と申して鶏でも夜は、あんまり見えないのです。ところがこういう工夫をするのです。あの鶏に昼は、えをやりません。そうして日が暮れてから、その鶏の寝床へ切り藁を沢山入れておくのです。その上へ米を振るのです。そうするとおなかがすいとるのですから、においがすると、米粒拾いたい。拾いたいが悲しい事には目が見えない。そこで目が見えたらなあー目が見えたら、これ拾うのに、心の内では、そう思うんでしょう。それを長く続けておりまして、昼はエサやらない。夜はやる。暗がりで置く。こんな事しておりますと、夜、目が見え出して来るのです。これがすなわち無相の願でございまして、見えたいなあ、これ見えたら、このええにおいがしよるのに。ほしいのにといつも思っていると、これがかないまして、鳥目といえども、暗がりで目が見えるようになる訳です。
これが無相の願。ところが人間がもしそういう風な場合でありましたならば、すぐ愚痴をこぼすのです。目が見えたらええんじゃが、ええんじゃけど、こんなに苦労させられて、こんなに切藁振られて、米粒拾うにも拾えない。こういうような事考えて、無相の願すなわち形の無い心で、一生懸命思う願いよりも、愚痴が先に立つのです。人間は知恵がありますから、それで神様にお祈りするという願より他には、人間はききにくうなるのです。どうです。あんた方考えてご覧なさい。自分が思うようにならん時につらい、その時分にこうあってほしいこういう風になってくれれば良いがと思うばかりで事足りますか。必ず愚痴が出るのです。どうです。このお正月前に寒かったんじゃが、こんなに寒かったらというて、天とうはんに苦情を言いよる。どうも人間は、願をかける心で念ずるよりも、むしろ愚痴の方が先に立ちます。知恵があり過ぎるのです。それで、お陰が受けにくい。こういうことになりますから、どうぞ祈るということは、普通の凡夫は、せないかん。祈らずとても、神や守らんと昔からいうけれども、それは偉い人のいうことであって、あるいは、我心の少ない人がいうことである。人間はどうも我心が強いからそれはいけない。
泉先生がおっしゃっとる訳ですが、牛でも馬でも、我心というのは少ないのです。もしあんた方が、我心が無いと思うんであったら、夏の盛りにあんな狭い所へ入れられて、蚊張もつってくれんと、そこでニコニコしていけますか。おれ、こんな薄暗い所へ入れられて、もう蚊がたくさんおって仕方がない。すぐ愚痴が出ます。馬は愚痴出ません。つらいとは思うでしょうけれども、こんなことせられてとは、思うていません。我心が少ない証拠です。ああいう動物に生まれとりましても、人間と違いまして我心が少ない。人間はどうも我心が強い。我という心が強い。これが人間の一生を不運にする元です。
此の前にお話し申しました、四国お遍路の笠の上に書いてある所のお大師さんのお言葉です。「迷うが故に三界の城、悟れば即ち十方空、本来東西無し、何ぞ南北あらんや」と、これを十文字に書いてあります。あのお話しいたしましたが、この迷うという事は、何しに迷うんなら、欲があるから迷うんです。思う通りに欲がかなえば、迷いませんけれどもかないません。人間の思う事必ずかないません。どうです。かなう人ありますか。ほとんどかなわないのです。それが為に、我が身を我が守らなければ、人は守ってくれない。こういう風な考えになりやすいのです。
わがというのが、それなら、果たして我というのがあるのか。我というのはどこ捜してもありません。先日お話し申し上げた通りに、仮に大けがをして手も足も千切れた。我がというものおりますか、けがする前の我がも、けがした後のわがも、やはり、我というものは同じものです。こういう風に我というものは、決して無いものです。それをあるように思うとるのです。どこぞ、あんた方捜してご覧なさい。我の体が我じゃと思うたら、当て違いです。 我というのは、何もありません。強いて言うならば、欲が我です。欲の固まりが我なんです。そういうきたない我というものが、お願がかなうはずがないのです。 自分というのをのけてご覧なさい。腹の立つものは、何もありません。わが身をかわいがるごとく、人の身をかわいがるのは、当然の事です。それを落ちぶれて、我と人とを区別するという風な根性前になっとる為に、人間は迷いが多いのです。不運に落ち入るのです。ここを先生がよくご存知ですから祈るという事は、自分を助けてもらいたいというんですから、はっきりと助けてもらいたいという方がよいのです。拝まなくとも、神様助けてくれるわというような事は、よほど我を除いた人のいう事であって、聖人に近い人の言う事です。普通の者は、神さんにお願いせねばいかんのじゃとこういう事でございます。
(昭和三十五年一月三十一日講話)
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第一二六条 「施しは、酬いを求むる心でしてはならぬ。施して求めぬのが頼もしい。」
このか条のことはよくある事で、あんた方のような、ご信心の厚い方でも、ひょっとすると、取り違える場合があるのです。もし、自分が施行して、施しをしてです。それにこうしてもらいたい。こうしてくれるだろうというようなことがありましたら、商売したのです。お布施したのではありません。商売したのです。これはしよいことのようですが大変むつかしいことであります。
たとえばお接待をする。お接待すりゃ、夏病しないとか、運が良いとかいいまして、お接待のお札を色々大事にいたします。それは結構なことです。必ずお陰もあり、又夏病どころか、自分の予想外のお陰が受かるのですけれども、ここがそのおかしいので、それがもらいたさに、お接待したのでは、くれないことになる。ただ、先生のような、お師匠様無しで苦労なさった方になりますと、こういう事を始終ためしておいでるのです。
人に物を施して必ずそれで裏手に良い事があるか、そうとは限っておりません。ほんにこの人は、いとしいなあ、こういう不具の身の上であって、こう寒いのに布団一ツ持っとらんし、お寺の縁の下や、お宮の御角で休ましてもらうと、さぞつらい事だろうなあ、と向こうの身の上を思いやって、わしは、これ沢山の物を貯えとるんじゃ、これは古いけれども、この人にあげたら喜ぶだろうと、思ってあげたのが本当のお布施なんです。こうやって困っとる人助けといたら、私の体が達者になるだろうというのは、これは商売です。よう似とっていかんのです。どうぞ、ここの一二六条に書いてあることは、先生がどういうお気持で人を救いなさったかという事を、自分の心の内でよく考えて、なさったのが良いと思います。
ところが、こういう事をいうことがあるのです。浄瑠瑠にもあります。朝顔日記に、あの朝顔が、自分の慕うとるところの山上甚五左衛門の後を追うて、大井川まで行ったのです。ところが大井川が、水が出て、先に自分の恋人は渡っとるけれども、自分は川止めくうた。その時に朝顔がどう言うたか「天とう様聞こえませぬ」と言うた。天とう様聞こえませぬ。なるほどつらかったらいうかも知れませんけれども、天とうさん恨んではいけません。これだけ私が真直に渡って、そうして世の中に出す事には、一銭もねぎった事がない。人を困らした事もなければ、恨まれとらんように思う。それにこんなにまあ私は、子供に別れ、主人に別れ、一人ぼっちになってしもうた。もう、神も仏もない。自暴自棄じゃ。もう無茶苦茶な生活してやれ。こんな事いうのを時々聞きます。私がこれほどつとめとるのにということは、よくいいますが、ここを先生がおっしゃっておるのです。それではお陰受からない。まだ私の行が足らん為にとなぜ言わんかというのです。これは、若い夫婦の間によくあるのです。
男の人が酒呑んでヨタンボになって帰って来て。「こら開けんかい、くそ」「まあ、あの言うん、どうしたん、我が酒食ろうてから、私が夜なべ、おそうに迄しよるのに、あんな事言うて。」早、もうまるで大立ちまわり。こういうような事では、いけないというのです。先生はもう本当に、奥さん大事にしました。というのは、大事にしたのではないのです。先生に我が無いのです。奥さんじゃとて人間ですから、間違った事おっしゃるだろと思います。私も聞いたこともあります。けれども先生ニコニコ笑うておいでる。人に親切にしたり、施しをしても、それが商売的でありますと恵みを、天とうはんに求めているならば、それはやがて天とう様聞こえませぬと言う人じゃというのです。
先生はどうですか。いくら自分が努めて、努めて、努めぬいて、それに対する報酬は、天とうさん神さんがくれんような形であったならば、まだ私の行が足らんのじゃ。私は、前生でよほど大きな荷物を負うて出て来た。 ああ、まだこの上にしっかりいたしましようという事が良い訳なので、良い事をしたら必ずそれが報いられるという事は、大なる間違いなんです。
ある日、先生がこういうお話をなさったことがあります。孝行という事でも、間違うたらいけないというのです。
あるお母さんと子供と二人暮しの人があった。そうして、隣村の家へ行くのに谷一ツ越えないと行けん。それにお母さんは始終その谷の上に丸木一本掛けてある橋を渡っておいでる。お母さん何しにおいでよるんか。所があにはからんや、そのお母さんに男の人があった訳です。それを息子が知ったけれども、孝行なんです。先生の教えの通り、親御は決してそんなことしてはいかんとはいわない。お母さんが落ちこんだらいかんと思うて、一本掛けてある木を二本掛けたのです。そうすると、お母さんが、やれ恥ずかしや。私の不業績を子に知られたかと。身を投げて死んでしもうたという話を先生がなさった。だからこれは、形の上に人を恥ずかしめるような事があるならば、孝行が孝行に届かん。こういう風に、自分がした事で求めることが大きかったらいけないと、先生はおっしゃったので、どうぞ一二六条に書いてある事は、自分が施しをする立派な神仏にほめられる事をする場合には、向こうの受ける方の側が喜んだら良いのであって、そういう形であれば、天とうはんは助けるという事ですから、よく味おうていただきたいと思います。
(昭和三十五年一月三十一日講前)
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第一二七条 「親は子に不孝といい、子は親に孝が出来ぬと泣く、求めるからである。求めるものさえなければ、思いのままである。 夫婦の道も同じ事。」
あなた方も時折りご覧になったり、お聞きになったりする事だろうと思いますが、親子の間というものは、実に濃いものでございます。あるいは、夫婦の間、これは濃いものでございますが、濃おければ濃い程、その間に人間的の我というのが働くのです。為に子の出来方に対して親が不足をいう。あるいは親に対して子が求める事が得られずして子供が泣く。本当に世の中は不思議なもので、これ程濃い間でなぜいけないかという事を先生がお嘆きになって、教えた事でございますが、それならば、どういう事を親子の間、あるいは夫婦の間において考えると、そういうむじゅんが無くなるかということがこの問題の線です。
まあ世の中で、まことに親子が肝胆相照す、あるいは夫婦が肝胆相照らす間柄というものは、外から見てきれいなようでありましても、その実、本当に通うじておるという人は、恐らくないとは申せませんが、実に雨夜の星位いであろうかと私は思うのです。その原因は何かといいますと、人間的我でございます。自分の我、その我というものが邪魔をするのです。
もう一ツ今度大きく人生というものを解釈いたしてみますと、本当を申せば、これは西洋のスパルタという国に、偉い人でなければ、子供をこしらえささない。こういう法律をしいた事がある事は、お聞きになった人もある事だろうと思いますが、これは優性教育といいまして人格的に偉い人でなければ世を持たさない。こういう法律をしいた事があるのです。それでもスバルタという国は滅びました。というのは法律では、決して国は守れるものじゃない。 その国の国民になる人が法律の真意を解釈して、なるほど親となるものの責任は重いんだ。その人格の未完成の親が子供をつくる。子供は親につくられて、出来たんでございますが、親はその出来た子供を、小さい時に子供に我が出ていない内はかわいがるのです。いわゆる親のオモチャです。悪く言えば、親のオモチャにこしらえた。所がその子供がソロソロと一人前になるに従って、持って生まれた我というものが出て来ます。その時分に、子をよう扱わないのです。親が未完成ですから、未完成の親は世を持つ資格が無いと見たのがスパルタ教育なんです。日本では、そういう事はありませんけれども、そういう訳で子は頼みもせんのにおれをこしらえたんだ。それを親のオモチャのごとく自由にせられたら困るというのが、今日の風じゃありませんか。
自由ということを今日よくいいますが、自由というものは、そんな意味のものではないのです。自由という事は、人に自由にしてもらう、自分が自由にするんでない。これが本当の自由なんです。人を害せずして、自分も自由を得る。これが本当の自由なんです。今日自由の風が吹いとります為に、ますます親子の間が親密にいとりません。見てご覧なさい。私はこういう事をなくする為に、いかにすればいいか。こういう事を考えてみますと、親は子に向かって孝行という事を強いないのです。押しつけないのです。親は子供をこしらえたんであるから、その子供の為には、いかなる犠牲も払ってやる。どこまでもかわいがってやる。一生がい子に向かって、親は物を要求しない。こういう事が大事なのです。
第二に子は、親に向かっては、自分というものが、ここに生まれて将来の幸福を勝ち得る事も、自分の努力次第でどんなにもなる。この自由な自分の体を作ってくれて、ここで極楽つくろうと、地獄つくろうと自由である。では極楽をつくらなければ、自分の損だと、利害関係から判断いたしましても、子は親にそむくのは、自分を窮地に落とし入れる。自分が損するんだという事が理解出来た子ならば、この親は慈悲ばかり使う、子は親に向かって自由を捧げる。こういう親子の間柄ならば意気投合して、決して親と子の間にいさかいはないはずだ。私はそう思うのでございます。それで昔から、孝行の箇条にこういうことを書いてあります。「親、親たらずとも、子、子足らざるべからず」とこういうことをいっておりますが、これを封建的に解釈いたしますと、親は自由にやれるんだ、子は服従すべきものだ。こういう事になりますけれども、そうじゃないのでありまして、これを本当のお釈迦様お大師様、泉様のお教えに従って解釈いたしますと、親が親たらずといえども、子が子とならなならん。このような仕方せなならんという事に解釈しておるならば、その子は自由の天地へ出られるのである。親も人ですから、人を安心させねば自分というものは、安穏の地位に行けないんだと、こう解釈するのが宗教でございます。お釈迦さんの仏法でございます。 お大師さんの教えもそれです。自分というものを、人に置いてあるのです。人を安心させな自分も安心出来ないんだと、こういう解釈したならば、親子の間はきれいに行く事が出来るもとであると思います。
だから、子は自分さえ良かったら良いのですが、人に向かってそういう行動をするというと、自分が自由にならんようになる。これが仏教の一番大事な所です。自分を無にしてこそ、初めて自分が極楽に行けるんだ。自分というのを立てたら地獄へ行くんだ。こういう教えが仏教なのです。私はその教えの方に従うのがおとくだろうと思います。
この一二七条は、親子の間の事を書いてありますが、夫婦の間の事も同じ事と先生がおっしゃっておいでるのは、 夫婦もそうなんであって、これはつまり、人格問題でございます。主人が我悪かれとしたくない。又奥さんも我悪かれと言うことは望むはずがありません。皆、自分が良かれと望んでおる。この自分良かれが衝突するのです。これが夫婦のけんかという事になる。それでこの道も私、思います。どちらかが自分というものは、いかなるものかといえ ば、自分というものは主人を除いて自分というのは無いんだ。又、主人も、家内というものをのけて自分というのは無いのだ。こういう解釈するならば、その衝突すべき問題は起こらないのです。自分かわいということは、これ人間の常でございますが、自分かわいいという心がある場合、衝突するのです。で、ここは自分というのをどこまでのぞくかという事が問題になるのです。人間的自分というのを捨てるという事です。言い換えまして、人間的自分という欲の固まりのような人間を捨ててしまう。そうして大きな自分、慈悲に満ち満ちたる大きな神仏に近い所の自分というものならば、人々相互間に衝突する問題は起こらないのです。自分というのを立てませんから無我でございます。
どうぞこの一二七条は、我というものを除かねば成り立たぬものであると、親子も夫婦も濃おければ、濃いほど衝突がはなはだしくなるものであるという事をお考えになったら良いのです。こういう考え方によりまして、いかに信仰が大事なかという事がおわかりになると思います。もし信仰が無いなら、自分のすきというのが、めんめに違いますから衝突せずにおりません。ここに信仰の価値があると思います。
(昭和三十五年一月三十一日講話)
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第一二八条 「神の道は、慈悲の道。人を助けるのは 人の道。人の道を離れては神の道はない。」
これは神の道と人の道と、どれだけ違うのかという事を書いてあるのです。これは簡単にわかる訳です。どうすりゃわかるかといいますと、神さんはいかなる偉いお方を祭ってありましても、ご神体は無いのです。み徳が残っておるのです。もう一ツ言い換えますと、神さんには、お体が無いのです。教えが光っておるのです。それで、神様はお仕事なさろうと、思った時分には、必ず神様に絶対服従しておる所の人の体を借らなければ神さん、仕事が出来ないのです。
この後、昭和二十六年七月一日に私が法難に合うたことがあるのです。その際にこちらへ短刀やピストルを持って私を追いかけて来た人間が、多宝塔の扉を開けて中のご神体引っ張り出して、小便ひりかける。出せというて威張った人があります。こういう人には神様はお陰を出さない。神があり、仏があるということを見せないのです。ですからお陰がありません。一生がい苦しみ抜くかわいそうな人間なのでございます。
このように神さんはお姿が無いのでございますから、人の体を借りて、仕事をするのです。ですから、そういうような乱暴なこと言うたりしたりする人は、社会が認めない。許さないのです。これが神様の制裁という事になるのです。つまり、神様は体が無いから、人の体を借りて慈悲の行をなさるのです。その体を借りたのはだれかというと人間です。その人どういうような人が借りられるのならというと、人間の道を通った人でなけりゃ借りてくれません。
それで神の道は慈悲の道、人を助けるのは人の道、ここで二ツになるように見えるけれども、一ツなんです。
ですから、いい換えましたならば神仏を信仰する人は、どうすれば良いのかといいますと、人中心です。人に向かって無理をしとるか、せんか、人に向かって我を通しとるか、通しとらんか、我を通した人は滅びます。必ず遅かれ早かれ滅びます。人に向かって、慈悲一点張りを行した人は、どうがこうでも栄えます。これはもう間違いないのです。子々孫々に至る迄そういう人の系図は神仏の慈悲をいただける人なのです。 こういう事で泉先生はこの一二八条 で神の道と人の道と、どちらが重いかという事を教えてあるのです。神様を信仰するには人の道が大事なんだ。こういう事です。
私が讃岐へよくお参りした時に、長福寺というお寺はんがありますが、長福寺の先住角了上人(大僧正)という方がおりました。その人が後々のお弟子や、後住に教えとる事が残っておりますのを聞きますと、こういう事をおっしゃっとるのです。長福寺のご本尊は千手観音である。千手観音に信仰を届けるという事は、この長福寺の住職としては、一番大事なことである。しからば寺の総代や、信者に対してどういうふるまいをしたらよいか、又住職としてはどういうふるまいをしたらよいか、ということですが、それについて長福寺の総代、あるいは一般檀家の人を喜ばせる。安楽にさせるという事を千手観音様に見ていただく事だ。それが第一の務めであると教えられています。ちょうどこの一二七条に泉先生が教えてあるのと一緒です。千手観音さんだけに忠孝を尽して、朝から晩まで鐘をたたいてお花を供える。お寺のお守りして、それで長福寺が立つかといえば立たない。長福寺の檀家と総代、信者一般の方を喜ばすという事を熱心にする事が千手観音を熱心に拝む事ぞ、という教えを残しとるのです。実に偉い人だと思います。ちょうど泉先生も一二八条に神の道は慈悲の道だ、ところが神さんには姿が無いんだから人の体を借りて助けないと助からんのである。であるから、人を大事にせなければ、神の道は通らんぞ。と覚了上人の言うたのと同じ事です。弘法大師もそんな事おっしゃられています。ここは、大変信仰の本筋という事を教えとるのですから、簡単に書いてありますけれども、大事な事なのです。あんた方、長年の大勢さんのお付き合いの中で神様に向いては信心であるが、人に向いては、祖暴であるという方がときたまあります。信仰は人が大事です。人に対することが中心です。
泉先生を信仰するという事は、泉先生を念じておる方々を、大事にするという事で、つまり泉先生を信仰するという事なのです。泉先生に対しては信仰するが、人間は勝手にやってやるという事では、とうてい泉先生に対する信仰は届かないという事になるのです。これは大変大事な事でございますから、その意味でご覧になったらよいと思います。
(昭和三十五年一月三十一日講話)
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第一二九条 「世の中からの仕向けは、自分の心の姿と思え。」
世の中から自分に仕向けて来る事は、こちらがした反射である。こう考え、ということです。面白いことで大抵がそう考えないで、わしは、こう真っすぐにいっとるんじゃが、相手は、こうしてきたんじゃと、こういうのでございます。いかな悪人といえども、仕向けの良く出来た方へ向いては、あくらつにようしないものです。
これについて面白い話がございますが、お大師様のあのご廟の前に金の蓮の花を差し上げてあります。ご覧になったでしょう。だんだん金色の蓮の花、蓮の葉を花いけにさしておまつりしてあります。何年たってもあのさびないのは金の力です。所が五衛門が、お大師さんの前の金でこさえてある蓮の葉一枚頂だいしたら大分食えると思って、ソロリソロリと這い上って「お大師さんこれを一ツ頂だいいたします。」というて手を掛けて取ろうといたしましたら、手がへばり付いて取れない。抜いて取ろうとすると、こんどはこちらの手が取れんようになってしまった。その時に、 お大師さん、如かにおっしゃったか「五衛門よ、わしは、お前さんのような金を取ったら、困っとる者に恵んでやるというような人には上げたいんだ。この金の蓮は、おまはんに上げたい。上げたいんだけれども、わしの所へ命乞いに来る、運を乞いに来る、色々な事を願いに来る人が沢山ある。それらの人々が願いに来るんじゃが、お大師さんが五衞門に蓮の花を取られたというたら、その人が助からんようになるんじゃ。五衛門、一人助ける為に、大勢を殺す訳にいかんから、これをどうしてもやれんが」さすがの五衞門も「恐れ入りました。いかにも恐れ入りました。」とお大師さんの前へ手をついたら、きれいに、お大師さんこらえてくれた。手が離れて、もどれた五衛門「やれやれ恐ろしや、お大師さんこそ本当の生仏さんだ」と言うたという話がございます。果たして五衛門が、そんな事したかせんか知りませんが、そういう話が残っております。
これと同じように、お大師さんのような方には、悪い事は仕向けられんのです。もし人から悪い事、仕向けられた時分には、何か自分に仕向けられるような原因が自分の方にもあるはずでございます。そこをよく考えよと、泉先生がおっしゃるのです。人の方ばかり見るのを止めて、たとえいかなる事を仕向けられても、あーこれは自分の方に必ずこういう悪い事をせられる因縁をまいとるのである。この世でまかねば、先の世でまいとるんである。それでこういうことをせられる。ますますこれから信仰を深めて、修養をいたしましょうというのが本当だ。こう泉先生は、教えておるのです。日常の生活において、自分に対しての他人の反応が悪いときには、自分のしようが悪いんだと自分の方をせんさくせよとのお教えです。私が一ツそれをお話してみましよう。これは私紙に書いてありますので、仲須さんにお渡しいたしますから、仲須さんから見せておもらいになってご覧下さい。これは一月の日数に三十日の月があり、又三十一日の月がございますが、昭和三十五年の記念といたしまして、私は日に一ツする、そして一ヶ月したら、その自分が常に間違った事しよるのがまあソロソロ直っていく。日めくりです。日めくりというようなものでこしらえたんですから、仲須さんにお渡ししときますから見て下さい。で、私はここでお話しだけしときます。第一日、月の第一日です。「人のきらう事言わぬ事。」どうですか、これは格言でも何でもないのです。昔から偉い人が残した格言でもないのですが、あんた方どうですか、人の嫌いな事おっしゃりませんか。多分三宝会の方は、人のきらいな事はおっしゃるのはきらいでしょう。おっしゃるまいと思いますけれども、人が聞いたらきらう事、絶対言わないとはいえんと思います。私がそれなんです。心掛けておりますけれども、その人が聞いたら、あまり喜ばぬような事も言いかねないのです。それはなるべく慎んで、もうその人が目の前におると思うて、人のきらいな事は言わんように、これが一日の行なのです。
今度は二日目です。「自分の事は、なるべく言わんのがよろしい」です。もし、言うんならば、抵うにいうのが良いのです。自分の自慢に当る様な事はなるべくよけた方がよいと思います。私も考えとるのですが、なるべく自慢になるような事言うまいと思うております。けれども話の都合によりまして、つい自分の手柄をした事を話しをせんならん場合もございますので、そういう話もさしてもらいますけれども、特に努めて自慢げに、当らんようにお話しして行きたいと思うとるのです。これは、あなた方にしても自慢をなさるんでないけれども、お手柄の時はついそんなことがあります。 それから、第三日目に「人の話をよく聞いて自分の説は立てんように。」どうですか、人の話をよく聞く人は自分の説を立てん人です。自分の説を立てる人は、話聞きよっても人の事あまり聞きよりません。
第四日目「いらん事はなるべくのけて、手短に話をしなさい。」こういうのです。あんた方、小森へ行くのに大代から回って行かないでしょう。近い道通るでしょう。それで、話しをしたら、いらんこと余計言うて、どこまでが話やらわからんようなお話しには、そんな長枕いりません。なるべくいらんことのけて手短に話しをする。
それから「返事は朗らかに、ハイとはっきりする事。」返事が一般に悪いですよ。この頃の学校の子供見てご覧なさい。うん、うん、どんな偉い人にでも「うん」とやっとる。こういう事はあんまり感心しません。
それから「軽はずみに話し合いすると後で困る事ができるぞ。」話はよく落ちついて話しをして、軽はずみに話をしないように。
それから今度は七日目「自分の親戚や知り合いの中には、偉い人がおるという事はあんまり言わん方がよい。」
自分が高い位の人にお付き合いがあるように言うと、何やら人の聞えが悪いものです。内の親せきに大臣がおるぞや言うたら、あんまり感心しませんね。わたしの親せきに遍路がある。そんなのはかまいません。あまり謙そんしすぎても、これは感じが悪いのです。へり下り過ぎてもいけません。普通でよろしいのです。
それから今度は「お話する時分、うつむいとって、向こうさんのひざ位の所見て、額で人を見るのです。いけません。」あんた方はおこらないと思います。けれども、笑顔で向こうの真正面で話をするのがよろしい。額で人を見るのは感心しません。
それから「人中では他の人とささやき話しはせんのがよろしい。」これはよくあります。人の大勢寄る所でささやき話は、困るでしょう。
「自分の身内だけに親しむのはいけない。まあ大勢寄ったら、その中に親戚の人がいる場合、親せきの人だけに話をして、他の人に話をしかけん人がありますが、これはいけない。
それから十二日目 「もらい好きの出しぎらいは損の始まり。」どうですか、もらい好きの出しぎらいは損の始まり そんなことが子孫に続いたら一生がい頭上がりしません。
「大風を言うたり、見えを飾ったりするのは腹のない証拠。」
十四日「かたやりや、気どりやは、力のない証拠。」ちょっといやな事言はななりませんけれども、まあこらえて下さい。
十五日「嘘をつけば運が消える。」
十六日「感情に激する心は、心の中に大きな時化が起こる。心の暴風と思え。」
十七日「表と裏と違う人は悪魔がつきやすい。」裏も表もガラス張りの人でなければいけません。
「有り難いと思う事の、多い程人の値うちがあります。」
「何事も理屈で割り切っては、不思議のない人があります。」何事もあれはこうだと言うて、理屈で割り切ってしもうて、不思議の起こらん人がありますが、これではお陰にならん。
「算盤に抜け目のない人は、天地の算盤を知らん人だ。」
「不足の少ない人は真の幸福な人。」
二十二日「愚痴を言うてねばい人は福が逃げてしまう。」
二十三日「余りちょうちょうしいに、あとさきを考えぬ人はけがをする。」
それから二十四日です。「一人静かに喜べる人は尊いお陰をもらうとる人だ。」どうですか連れの中で、やかましく言うんでない。一人静かに喜べる人、一人静かに喜べる人は、大きな運をもろうとる人です。
「我が身息災は、かえって我をあやうくする。」
「人の知らぬ所で、横着する人は、人の前で恥をかく。」
「自分に好かれる人となるのはむっかしい。」
「疑いを疑いというのは、向うが見えん人がする事だ。」
「人の出世を恨やむ人は、我が身の出世の邪魔になる。」
「同情が少ないと鬼の仲間に入れられる。」
「負けぎらいな人は、かえって人に負ける。」これが三十一日なんです。
(昭和三十五年一月三十一日講話)
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第一三〇条 「知りて行なわぬのは反逆人も同様。」
知らずしてした事は比較的世の中から、許されるという事は皆様ご承知でしょう。たとえばこれは、小さな子供ですが、西も東もわからない善悪は、無論わからないというような子がした事はあまり憎みません。これは知らないからです。わきまえなしに人にご無礼するとか、悪い事するとか、いうような事が許されておるという事は、皆様ご承知でしょう。ところが年月が立ちまして、一人前の性根ができるというと色々な事覚えてきます。すなわちこれを宗教的にいいますと、仏心が現われて来るのです。自分の心の中の玉が、外へ光が表われてくる。すなわち何もかもわきまえ、善と悪とがわかってくるということなんです。その善悪がわかっておるのにかかわらず、悪いと思う事をする。という事が反逆人なのです。こういう事になりますから知らずして行うのは、まあまあ罪が軽いけれども知って行わないのはよろしくない。これはごく平凡なことなんですけれども、この平凡なことが、できにくいものです。
だれでも、何か一ツの行動をしようとする時分に、してよいか、悪いかという事が、心の中に二ツはたらきます。
必ずどなたでも二ツありますから、考えてご覧なさい。一ツの方は人間の心の方からしたいという欲望の方です。もう一つそれを良いか悪いかという事を判断してくれて、善とか悪とか、いう心を知らしてくれるのが、通俗に言っております良心、で、宗教的にいいますと、仏性その仏性から善悪がわかれて来るのです。けれども得てして悪い人ほど、自分の方に傾いて悪いと思うけれども、やってやろうわるいにかたむきます。
これを泉先生は悪いと思うたらするな、必ず心に守り神さんが付いとるのだから。その守り神さんが止めようとした事は、止めた方が運が強いぞ。してよいかわるいかは、よく考えて悪いことだと知ってしないのか、これが信仰の一ツである。これは簡単ですけれども信仰する人には、是非必要な事です。必ず仏性というひらめきがあるのでございますから、この仏性の命じるままにして行けば神さんのお気に合う。こういう事で泉さんはいつもそうおっしゃっております。
(昭和三十五年二月二十日講話)
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